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リボルバー/ハヌマーン/山田亮一 未来への歌 歌詞解釈

お疲れ様です。
赤色ねんねです。

山田亮一さんのファンとなって日が浅いですが、twitter文字数に抑えられない文章を思いついてしまったので、noteします。

私はトラベルプランナーという曲が好きです。
きりたんという、ボカロのようなものに歌わせて遊んだことがあります。

しかし驚いたのが、他の曲と比べてトラベルプランナーが一番アクセス数が悪い!
(傑作のジョークとかハイカラさんが通るとかワンナイトが人気ですね)
どうかしてる!
気になって軽く調査したところ、どうもリボルバーが万人に愛されているようです。
その流れで、歌詞解釈のページを2つ読みました。
なるほど。
思っていたのと、ちょっと違いました。
ならまあ、良い機会なので、リボルバーの歌詞を最初から、つらつら語ってみましょう。

あ、でも先に、考えた結論を書きますね。
この歌は過去の自分に対して、自殺をやめろ、苦しくても生きていけ、と言う歌だと思います。
たぶん!

では歌詞に入っていきます。

そういちいち怒鳴るなって 誰だって誰かを殺したい
言う? 武闘派に遭遇して 同じ様に言う?

歌詞初めですね。誰かが怒鳴っている、怒っている。それをなだめる山田さん。
怒っている誰かよりも冷静です。

ボロを纏うに従って 頭は冴え切っていく

自分が冷静であると、自覚している表現です。
そんな自分を客観視して別表現した言葉が、「ぼろをまとっている」。
みすぼらしい、貧しい、そんな意味かと思います。
自虐です。
しかし「ボロを纏うに従って」とあるので、だからこそ、身につけられた冷静さである、とも自己分析しています。
なのでみすぼらしいことに全く価値なしとしているわけでもなく、むしろかわいがっているような、皮肉めいた立場が垣間見れます。

十幾つのお前が歌う 未来には居ないが

十幾つのお前、なんだか年下をあざけるような表現です。つまり比較して、山田さんはもっと年上であると推測できます。
「歌う未来には居ないが」、言い換えると「若いお前にゃ想像もつかないだろうが」、つまり裏返すと、実際未来だと今の俺のようになっているぜ、なのかなと推測できます。
となると自然な解釈は、ここでのお前とは、十幾つの、つまり過去の山田さん本人であるということです。
歌詞初めの「誰かを殺したい」と怒鳴っているのも、過去の山田さんが怒鳴っていると思うことができます。
十幾つの山田さんには、今の山田さんが自分の未来として想像できていなかったのですね。
どう想像できなかったか、いくつかあると思います。
①「そういちいち怒鳴るなって」と冷静に振る舞えること
②みすぼらしく生きていること
③みすぼらしく生きていることを一部楽しんでいること
多分、この三つ全部で良い気がします。どれも、学生の頃だと想像できないでしょう。

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

過去の自分と今の自分の考えに乖離があるわけです。
「過去の自分、おかしいことを考えていたな」という表現かと思います。
あるいは「(過去の自分に対して)今の俺はおかしいことを考えているだろ?」かもしれませんが、それは後に取っておきましょう。

もー いちいち言わんだけで 俺だって誰かを殺したい
言う? 不条理に遭遇して 「不条理!」なんて言う?

繰り返しですね。ただ先ほどは過去の自分への否定でした。
こちらは「まあでも過去の自分の考えていることもわかる。
今の俺だって我慢してるんだ」という歩み寄りではあります。
ただし結論は「我慢しないとだめだろ?」として、最初と変わらずです。
過去の自分をなだめています。

「嗚呼、いつかは年老いて、骨だけになってしまう」
モラトリアムの中にいて お前がそれ言う?

モラトリアム。猶予期間と訳することもできます。
やはり思いつくのは、学生時代(どういう大人になるかを考える、大人になる前の猶予期間)ということ。
これも変わらず、十幾つの学生だった山田亮一さんにあててのメッセージだと思います。
今までは、「嫌なことがあるけど我慢して生きていけ」のようなメッセージでした。それが今の山田さんの意見。
では一方で過去の山田さんは何を考えていたかというと、生きていく様なんて全く想像せず、死ぬ様も想像せず、死んだ後のことを考えていた、ということです。
それも味気なく、他人事のように。
達観しているとも言えます。
しかし今の山田亮一さんとしては、
「死んだ後のことでさえ軽く考えるだなんて、人生経験浅いお前にそれを言う権利はない。お前は何もわかっていない」
と、たしなめています。
いえもしかすると、過去の山田さんは、「年取って死ぬくらいならその前に自殺してやるぜ」と単に言っていただけかもしれません。それだってたしなめたくなりますよね。

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

過去の自分、どうかしてるぜと。

死んでしまうという事はとても恐ろしい
明日を真っ当に生きる事の次に恐ろしい

死を軽くとらえる過去の自分をたしなめます。恐ろしい事だぞと。
さて、では死はどう恐ろしいのでしょう。
明日をまっとうに生きることを比較で出しています。
個人的な想像ですが、山田さんは自他ともに認める、「まっとうに生きていない人」だと思います。
まっとうに生きるなんて考えられないわけです。ありえないわけです。
なので死が恐ろしいとは例えば、
①全く想像できないものに対する恐怖。不可能なはずのことができてしまっているという矛盾による恐怖
かなと思いました。また「明日を」とあるので、未来に対する恐怖かもしれません、つまり、
②死の先という未来への恐怖。死んで終わりなんて思うのは短絡的で甘い
もあるかもしれません。死の先の恐怖とは、なんと新鮮な考え。さらにもう一個可能性を思いつきました。
③過去まっとうに生きようとしてひどい苦労をしてきた。同じように、過去死のうとして結果ひどい苦労を味わうことになった。今の俺はその両方を知っている
……ちょっと③は違うかな。死のうとすることは恐ろしい、になってしまうので。
結局どの恐怖を指すのかはわかりませんが、もちろん過去の山田さんにはどれも、想像もつかない恐怖なのでしょう。

さぁ いー加減 夢を撃て
錆び付いて孤独なリボルバー

生きることなんて簡単なこと、死ぬことなんて簡単なこと、という綺麗な幻想をずっと持つ、過去の山田さん。
夢を撃てとは、その幻想を捨てろと、今の山田さんは言います。
タイトルのリボルバー、やっと出てきました。撃つ手段。
錆びついているようですね。
今まで一貫して、過去と現在を扱ってきた歌詞です。
多分、過去は錆びついていなくて、今は錆びついているという表現かなと思います。
今まで使われることがなかったリボルバーは、放置されていたというような、孤独という言葉で表現しています。
幻想を持つ過去の山田さん自体が、今の山田さんから見ても孤独に映るのでしょう。生死を軽く見るということは、何にも、自分にも依存していないとも言えます。

足の生えた蛇に乗って 何処へだって

「これは蛇足とかかっている」とする記事を見て、そうなの?と思ったことが、実は本記事を書いたきっかけです。
蛇足。余分なもの、なくてよいもの。
ここまで歌詞を読んで、余分なものって何を指しているか想像がつかないんですよね。
うーん、あるとすれば、今の自分が蛇足?
過去の自分の幻想通りに行くのが一番良くて、今の自分はそれに失敗してしまった、なくてもよい存在?
うーん、そこまで今の自分を軽んじていないのではと思います。
よくわからない。
では私はこの、足の生えた蛇をどう解釈するかというと。
いえ、この歌詞を知って何を最初に思ったかというと。
これです↓

まんが日本昔ばなし

過去の自分が自由自在に(あたかも空を自由に飛べるように)生きていく、それを郷愁をもって見る今の自分、ようなイメージを最初に持ちました。いやぁ懐かしい絵ですもん。
なのでもう、私の中での解釈はそれで固まってしまいました。
若かった自分を懐かしんでいる。
もしかすると、そう自由に生きる自分を眺める、俯瞰した自分は、なんだか満足してしまっていて、もうどうなっても良い存在、くらいの意味もあるかもしれません。

どうかしている 度を超している 脳を侵している ショートしている

ここは先ほどまでの解釈とは変えて、
「(過去の自分に対して)お前のその幻想をやめろなんて、今の俺はおかしいことを言っているだろ?」な気がします。先ほどは、お前はおかしい、という意味と書きました。今は、自分がおかしい。
これは起承転の転に位置するような。
もう過去の自分をたしなめる歌詞が前後に無いですよね。

弾倉には一発 共犯者になってやるよ 俺が
ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

過去の自分も今の自分も、同じ自分。それを共犯者と表現しています。
過去の自分に対して「未来の自分がずっと一緒についていてやるから」と。
必ずうまく行くからと言ってくれる腐れ縁の悪友、のような表現にも思えます。
過去の自分にとっては良くわからない話で、ぼけっとするでしょうが、俺もずっとついていてやるから、やれ、幻想を殺せと山田さんは言います。
つまり生きろと、死を恐れろと。

さて、リボルバーとは何なのか。
弾倉に一発入ったリボルバーから何を連想するか、私なら、拳銃自殺かロシアンルーレットです。
(もし「他者を殺したい」に紐づく殺意や攻撃の象徴だとすると、数発あって良い気がします)
まあとにかく自殺です。
過去の自分のもっていた、錆びていないリボルバーとは、新しく生まれたばかりの、自殺願望なのだと思います。ロシアンルーレットをベースに考えるなら、いつ死んでもよい願望、とも言えるかもしれません。
自殺せずに今まで生きていた自分にとっては、使っていないという意味で、もう錆びついたものです。
あるいは、手入れした/していない、の錆びかもしれません。
過去はずっと、いつでも死ねるという思いを磨いてきて、今はそんなことを全く考えないようになったと。
今の山田さんは、リボルバーを自殺に使うなと言います。
代わりに自分の幻想を殺せと。生死を軽く思うことをやめろと。

それってもう、イライラしようが苦しかろうがぼろを着ようが、死なずに生きていけという、過去の自分に対するメッセージですよね。これが歌の主題かなと感じます。
……なお「リボルバー=自殺」説を採用するとすると、もしかすると、冒頭歌詞の「殺したい」相手も自分かもしれません。不条理に対して「不条理!」と呼ぶ滑稽さは、自分で自分を殺す滑稽さにもつながりそうです。
「未来にはいないが」ももしかして「自殺するから未来にはいない」ということかも?
そんなに自殺の歌になっちゃっていいのか、さすがにそこまでは違うんじゃないかとは思います。どうかしてる。

また、弾倉に一発しかないため、二度目はありません。
山田さんの中で、自分の幻想を殺した後は、自殺願望がすっかりなくなってしまったことを意味している、少なくとも本人は当時そう思っていた、のかもしれません。
考えを一度変えさえすれば、あとは迷わず生きていけそうだと。
そこから今2022年に至るまで、本当にいろいろなことがあったのだとは思いますが。

あと、少し気になるのは、最後「リボルバー」という言葉で締めること。それも二回繰り返し。
過去の自分へのメッセージの最後として、ふさわしくないように思います。リボルバーは単なる変革手段(道具)ですから。
ふさわしいのは方法ではなく、直接的な「変革せよ」という言葉に思えました。過去の自分に一番言いたいことってそれでしょう?
ということで、こじつけの感がありますが、最後の「リボルバー revolver」はもはや手段ではなく、「レボリューション revolution」の意味かなーと思いました。

ああ、もう一個こじつけを思いついてしまいました。
歌の最後に山田さんは、リボルバーという語句を過去の自分に印象付けたいわけです。リボルバーだ!と叫ぶことで。
根拠のない完全な妄想ですが、過去に山田さんは、学生の頃よりは後で、リボルバーを使う寸前まで行ってしまったことがあるのではないかなどと思いました。
自殺する本当に一歩手前。
なのでリボルバーと叫ぶことで、「俺の言葉を聞いてる今はどうでもよいと思ったとしても、あの自殺しようとした時、リボルバーを握った時には、必ず今のメッセージを思い出してほしい」という、後悔と混じった、強い願いなのかもしれません。
その思いが、リボルバーを握る山田さんにも届いたと、届くと、願うばかりです。

あと余談。リボルバー後のあれ。

常に愛を
常に希望を
常に涙を
常に笑顔を
常に音楽を
常にビートを
常に歌を
常に届くように

最初は、まっとうな生活の過ごし方を歌っていると勘違いしました。
違いますよね、そんな死ぬよりも恐ろしいことを歌うはずがありません。
まっとうに生きろとも言うはずがありません。
となると多分、今の山田さんが実際どう生きているかを歌った歌だと思います。今までの歌詞は一貫して過去と現在しかないため。
今の山田さんにできる、最低限の、しかし十分な生き方。
だから過去のお前も、まっとうとは言わないまでも、こう生きろと。

山田さんが今、どう生きているかわかります。
私も勇気をもらえます。常に、そうか。


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