私の「2011年3月11日」

東日本大震災から10年。

亡くなられた方へご冥福をお祈りいたします。
被災された方へお見舞いを申し上げます。
そして地道に復興に向け努力しているすべての方々に感謝いたします。

私がその日何をしたのか思い出して記録しておこうかと思います。

3月11日は金曜日の平日。
場所は岩手県盛岡市
会社の4階で仕事をしていました。

隣の同僚のケータイから地震速報のアラームが鳴り始めます。

アラームが鳴ったことは驚きましたが
11日までに何度も小規模な地震が何度も起きていたため
特に気に止めず「マナーモードにしておけよ」と軽い気持ちでいました。

しかし、そのアラームが大きな動きの一歩でした。
その後、社員・アルバイト数名のケータイ電話の地震速報が一斉になり出しました。
その部屋中アラーム音が響き渡り軽いパニック状態に・・・
「なんだ?何が起こった?」と思っていたら、揺れ出しました。

揺れ出したら止まりません。 長かった。 ただただ長かった。
自分自身を支えるのが手一杯。
まわりに声をかける余裕もなく、目を向ける余裕すらありませんでした。
40名ほどいる大きな部屋なのですが、目の前の1~2mくらいしか見ることができませんでした。
部屋の奥を見ることも、振り返ることもできません。
「止まってくれ!」と心の中で叫んでいました。
さらに停電になり電気が消え不安が増幅されます。

結局、何分揺れていたのでしょうか・・・わかりません・・・長かった ただそれだけ

やっと揺れが収まり、周囲を見渡すと
部屋中 足の踏み場の無いほど物が散乱していました。
呆然としていましたが、一旦建物の外に非難するように指示が入り外に出ました。
ここでやっと落ち着きを取り戻します。

情報収集をしようと思いましたが、
ケータイが繋がらずバッテリーが急激に減って
情報収集を諦めざるを得ない状態になっていました。
地震の不安と「状況がわからない」という不安が積み重なります。

会社としては停電、余震、家族との連絡が取れない軽いパニック状態ということもあり解散することに。
次の日が土日ということで会社としては様子をみることになりました。

帰宅することになったのですが、
すぐに頭をよぎったのは、弟夫婦のことでした。
弟の嫁は妊娠中、そして3歳の甥っ子。弟は仕事中。 自分は一人暮らし。
瞬間的に判断し、弟の家に向かうことに。

自転車で、弟の家まで30分もかからずに着くはずなのですが
停電の怖さを思い知らされました。信号が止まっています。
盛岡は田舎とはいえ、人口30万人弱の小さな都市です。交通量はそこそこあります。
国道を自転車で横切ることがなかなかできません。

しかし、日本ってすごいなと思いました。大きな交差点で信号もなく警察もいないのに
譲り合いながら事故もなく交互に交差点を通り過ぎていくのです。すべての人が徐行でゆっくりと丁寧に。
自転車や歩行者が渡るに渡れない状態が続きましたが、気を使ってもらいなんとか渡らせてもらいました。

どうにか弟の家に着き、弟の嫁と甥っ子の顔を見て何事も無く一安心。
一安心といっても一瞬でした、その後すぐに来る恐怖。
停電の暗さ、余震の恐怖、食料の確保、情報が無い不安が待っていました。
さらに夜になり雪が降り始めました。寒さが不安を助長します。

ことあとは、疲れては寝る。寝たら余震で起こされるの繰り返し。
テレビもラジオもケータイも使えないので朝がくるのをただただ待っていました。

テレビも映らなく、ラジオを準備していなかった、
津波を知ったのは、映像を見たのは
二日後の3月13日になってからでした。


下記、ブログを追記・修正しました。
http://redfive1992.blog113.fc2.com/blog-entry-165.html

岩手県を記録し続けます。盛岡市を中心になりますが、記録し続けます。