鉄道の歴史(戦前編)⑧ 満鉄と「あじあ」号~世界最高水準の特急列車
令和2(2020)年は、中国の香港民主化要求に対する弾圧が世界的な話題となりましたが、長年イギリスの支配下にあった香港が1国2制度の約束で中国に返還されたのは平成9(1997)年のことでした。
実はこの年は、もしもわが国が条約に基づいて南満州鉄道の経営を続けていたとしたら、それを返還する年でもあったのです。
明治36(1905)年、ロシアとの間に、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が調印されました。この条約に基づいてわが国は、ロシアが清国に持っていた権益の一部を譲渡されましたが、その中に、長春以南の東清鉄道の路線とその付属地が含まれていました。政府は翌年7 月、この満州における鉄道を経営するために、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。
満鉄は、わが国が租借権を獲得した遼東半島大連と長春を結ぶ路線と、日露戦争中の軍用鉄道として建設された奉天(現瀋陽)と日本領朝鮮との国境の街である安東(現丹東)を結ぶ路線などの鉄道経営と、沿線にあった炭坑、倉庫などを多角的に経営する総合企業でした。
満鉄は資本金2億円の半額を政府が出資し、残りを公募でまかないましたが、この年の9月に行われた株主の募集には、発行株式数の1,000倍以上の申し込みがありました。
その後の満鉄の輝かしい歴史の中で、今でも語りぐさになっているのが、特急「あじあ」です。
昭和9(1934)年11 月1日に営業運転をはじめた「あじあ」は、大連-新京(満州国の首都になった長春が改称)720kmを8時間20分で結びました。平均時速82.5㎞、最高時速120kmという、今日の最新鋭電車顔負けの
スピードでした。当時国内最速だった超特急「燕」が平均時速60.2km、最高時速95kmですから、狭軌と広軌の違いがあるとはいえ、「あじあ」の水準の高さが分かります。
牽引するのはパシナ型と呼ばれる流線型のSLでした。全長22.7m、総重量は200tを超え、動輪の直径は2mもありました。威風堂々たるこの機関車は濃紺に塗装されていました。6両編成の客車も淡い緑色に白線が入ったスマートなもので、真っ黒の機関車が茶色の客車を牽引していた従来の国内の列車のイメージとはずいぶん異なります。
当時、国内の特急列車には、最後尾にオープンデッキの1等展望車が連結されていましたが、「あじあ」の展望車は美しい曲線を描いた密閉式でした。満州の大地は、夏は日本のように30 度を超すこともあり、冬は-30度
を下回るという過酷な気候なので、全て二重窓にして客車を密閉し、何とエアコンまで装備していました。
昭和10年にハルピンまで運転区間が延長されると、神戸発門司経由の大阪商船に乗船し、その後「あじあ」、シベリア鉄道を使ってヨーロッパ各地まで、鉄道と連絡船によるルートが確立されました。また朝鮮の釜山、京城、平壌、新義州を経て、安東から満鉄の急行「ひかり」「のぞみ」「大陸」に乗り換え、奉天や北京に向かうルートもありました。
ヨーロッパからの旅人は、満鉄の水準の高さ、車窓から見える満州国の都市の整然とした町並みや清潔さに驚嘆したといいます。
満州国と満鉄は、日本のショーウィンドウの役割を持っていました。そして満鉄の看板列車「あじあ」は、デラックスな装備と高度な技術力を、世界に向かって誇らしげに示していたのです。
連載第90回/平成12 年2月2日掲載