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鉄道の歴史(戦前編)⑤ 明治の鉄道国有化

 国鉄改革法に基づいて、昭和62(1987)年4月1日、日本国有鉄道は分割民営化され、JR7社として再出発しました。ここに「国鉄」の長い歴史にピリオドが打たれたのですが、草創期の幹線鉄道の多くは、民営鉄道として生まれ、その後、政府の政策の一環として国有化されたという歴史を持っています。
 財政の専門家として著名な松方正義は、西南戦争後特に顕著になった財政難の中、大蔵卿(長官)に就任しました。彼は官営鉄道を全国に拡張することは経済的に困難であり、民間が建設した幹線を、政府が保護するべきだ、
という方針を主張していました。
 明治14(1881)年に設立された、我が国初の民営鉄道である日本鉄道(現JR東北本線など)や阪堺鉄道(現南海電鉄)が、好調な業績を収めていることがわかると、明治19年頃から全国的に民営鉄道会社の設立ブームが起こりました。翌年には民営鉄道の営業キロ数が官営鉄道を上回っています。
 しかしその一方で、政府に鉄道会社設立の出願を行ったものの、資金難などで開業できなかった幻の鉄道会社も数多くあり、鉄道局長官であった井上勝は、この安易な鉄道ブームに警鐘を鳴らし、国有方針を主張していました。
 井上は、伊藤博文や井上馨が文久3(1863)年に英国へ密航したときに行動を共にし、ロンドン大学で土木・鉱山学を修めたという人物です。帰国後は木戸孝允に誘われて政府入りし、大蔵省、民部省を経て、工部省におけ
る草創期の鉄道政策に関わった官僚です。彼は、鉄道建設は政府の責任であり、幹線私鉄を買収して国有化するべきだ、との持論をもとに、「鉄道政略ニ関スル議」を記し、政府に提出しました。
 井上の意見は採用され、明治24年の第2回帝国議会で鉄道公債法案、私設鉄道買収法案として審議されましたが、日の目を見ませんでした。しかし、その趣旨は生かされ、翌年の第3回帝国議会に鉄道施設法案として再提出され、可決されました。これによって民営鉄道に対する政府の主導権が確立しました。
 日清・日露戦争を通じて、鉄道の統一の必要を痛感していた政府・財界・軍部は次第に国有化の意見に傾き始めていました。機が熟したと見た政府は、明治39年、反対派を押し切るかたちで鉄道国有法案を提出し、可決
させました。
 買収対象になったのは日本鉄道、山陽鉄道(現JR山陽本線など)、九州鉄道(現JR鹿児島本線など)、阪鶴鉄道(現JR福知山線など)を含む17社で、残った私鉄は、東武鉄道、南海鉄道など4社を除けば、営業距離50km以下の短い路線ばかりになりました。
 長大な路線を有することとなった国有鉄道を管理するために、組織も大幅に改編されました。明治40年に帝国鉄道庁が生まれ、翌年には内閣直属の鉄道院が設立され、全国を5つのブロックに分けた鉄道管理局が置かれました。そして大正9(1920)年には、鉄道院は鉄道省に昇格しています。
 「国鉄」の愛称で利用者に親しまれるようになるのは、「日本国有鉄道」となった戦後のことです。JRによる民営化までは、国鉄の都市近郊電車を「国電」と呼びましたが、お年寄りが「省線」と言われるのは、鉄道省時代の呼び名の名残りです。

連載第87回/平成12年1月19日掲載

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