見出し画像

なにわの企業奮戦記⑩ アサヒビール株式会社

 絶えず新しい商品を開発し、ライバルとしのぎを削るエネルギッシュなアサヒビール株式会社。その発祥の地は大阪です。
 明治5(1982)年に日本人による最初のビール醸造が行われたのも大阪でした。最初は「苦い」と敬遠されましたが、少しずつ需要が高まり、一時は100を越す銘柄が生まれました。しかしそのほとんどが弱小資本。技術的にも未熟でした。
 そんな中で、明治20年、日本人の嗜好にあった純国産ビールの醸造を目指し、充分な資本と、本場ドイツの技術を導入したアサヒの前身、大阪麦酒会社が生まれました。
 初代社長鳥井駒吉は、嘉永6(1953)年生まれ。堺の若き蔵本でした。進取の気性に富む駒吉は大阪府議に選ばれ、我が国初の私鉄・阪堺鉄道(現南海電鉄。明治18年部分開業)の創立委員にも名を連ねています。しかし当時、本業の酒造業界はデフレに苦しんでいました。また、物珍しさからビールの輸入が鰻上りになるなど、各種洋酒の需要増にも圧迫を受けていました駒吉は一念発起し、国産ビール会社の設立を同業者や大阪財界に呼びかけました。
 設立の翌年、支配人兼技師長・生田秀がドイツに派遣されました。生田は1年余の滞在期間中にビール醸造家のメッカであったヴァイエンシュテファン中央農学校(現ミュンヘン工科大学)から学位を得、帰国後はその知識をフルに生かして醸造所を作り上げました。醸造所に選ばれたのは大阪府吹田村(現在の吹田市)の官営鉄道停車場の正面。当時この地は千里丘陵を通った清水が豊富に湧出していたからです。
 こうして明治25年に生まれた本格ビールは「アサヒビール」と名付けられました。同社では「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日のごとき将来性、発展性」を願ったものと語り継がれています。
 大阪麦酒は主原料である二条大麦の自給、ビールびんの製造など、真の一貫体制確立に向けての布石を着実に行いました。販売網も整備され、明治30年代には「サッポロ」、「ヱビス」とトップを競い、「キリン」、「カブト」の有力ブランドとも激戦を繰り広げました。
 その後同社を含む上位3社が、明治39年に大合同して大日本麦酒株式会社を設立。戦時下には大日本、麒麟の2社体制となり、配給制度の確立と戦後の、過度経済集中排除法により「アサヒ」のブランドは一旦消滅しました。
 昭和24(1949)年、大日本麦酒は、朝日、日本の2社に分割され、「アサヒビール」の商標が復活しました。しかしその後の同社の歩みは平坦なものではありませんでした。発足時のシェアは、第2位の36.1%でしたが、昭和57年には、10%にまで落ち込んでいました。
 それを、業界トップを争う地位にまで引き上げた商品が、昭和62年に発売された辛口ビールのはしり、「スーパードライ」でした。翌年には各社が「ドライ戦争」に参入しましたが、この勝負は事実上アサヒの圧勝に終わりました。
 その影で同年、大阪麦酒以来のラガービールの製造が中止されました。しかし、日本人好みのビールを作るという創業時のコンセプトは、この「スーパードライ」の中に今も生きつづけています。

※写真『大阪新聞』掲載時に同社より使用許可を得ていましたが、旧サイト公開時に、流用の許可について回答をいただいていないので、掲載を差し控えます。
連載第112回/平成12年8月1日掲載


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?