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鉄道の歴史(戦前編)⑦ 初代超特急「燕」登場

 最近はあまり使いませんが、「超特急」といえば新幹線の列車を指す言葉でした。しかし戦前には、在来線を疾走した超特急がありました。その愛称を「燕」といいます。新幹線のようなスマートな電車ではありません。無骨な蒸気機関車が7両の客車を牽引するという古典的な列車でした。
 「燕」は、昭和5(1930)年10 月1日にデビューしました。すでに東京-神戸間には特急列車「富士」、「桜」がありましたが、「つばめ」はそれを一気に51分も短縮し、同区間を9時間で結びました。まさに超特急の名にふさわしい列車でした。
 「燕」の華々しいデビューには陰がありました。それは、昭和恐慌の影響による国鉄経営の悪化でした。当局は、大量高速輸送という鉄道の使命と特性をいかんなく発揮し、ライバルとなりつつあった自動車輸送に対抗するため、この超特急列車を走らせることにしたのです。
 最高時速95km、表定速度67.6km のこの列車のために、牽引機は国産の最高峰C51が選ばれました。C51は動輪の直径が1,750mmで、従来のものを150mmも上回る、狭軌では最大級のものでした。C51は、大正元(1912)年に蒸気機関車の輸入を停止し、本格的な国産化を始めてから、最初の大きな成果として記憶されています。広軌化論争にピリオドを打った名車です。
 スピードアップの理由としては、自動連結器を採用したことも挙げられます。当時の東海道本線では、国府津-沼津間のルートは熱海経由ではなく、峻険な箱根山を迂回して通る、現在の御殿場線経由でした。ここは山岳路線で急勾配のため、下り列車の場合には、国府津駅で最後尾に補助機関車を連
結しました。この作業に従来は最短で5分かかったのですが、自動連結器はその作業を簡単にし、しかも連結が確実で牽引力も増すというメリットがありました。さらに「燕」は、従来の列車のように御殿場駅に停車せずに補助機関車を切り離し、タイムロスをなくしていたのです。
 さらには、高速列車を早く止めるための空気ブレーキの採用、重量列車の高速運転を可能にした50kg レール(従来は37kg)への変更、乗り心地を良くするための3軸台車(3等車は除く)、安全性を高めるための鋼製車両の採用など、それまでの鉄道技術の粋が結集されていました。
 「燕」の誕生は、スピード時代の幕を開きました。新京阪(現阪急京都線)、阪神急行(現阪急神戸線)、阪神の私鉄各線は、その舞台で「つばめ」と1分1秒を争い、そこに省線の急行電車(現在の新快速の前身)も参戦して、京阪神間は各社がスピードを競う戦場となりました。
 昭和8年10月に、丹那トンネルが開通し、熱海経由のバイパス線が利用されるようになると、「燕」の所要時間も更に短縮され、8時間37分で東京・神戸間を結べるようになりました。
 戦後、ひらがなになった「つばめ」は、日本最大の旅客用蒸気機関車C62型に牽引される花形特急となりました。今でも京都鉄道博物館に動体保存されているC62の2 号機は、そのデフレクタ(除煙板)に、つばめのエンブレムを誇らしげに飾っています。
 利用者に愛されたこの「つばめ」の愛称は、その後何度かの変遷を経て、現在は九州新幹線で、再び超特急の愛称となり、人々に親しまれています。

連載第89回/平成12年2月2日掲載

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