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なにわの企業奮戦記⑦ 小林製薬株式会社

 大阪市中央区道修町は、言わずと知れた薬の町です。「のどぬ~る」、「目もとひんやりシート」といった、消費者にわかりやすいネーミングの医薬品・衛生用品などで有名な小林製薬株式会社も、ここに本社を構えています。しかし、同社は最初からこの「薬の都」にあったのではなく、名古屋を出発点として成長し、「本店」と呼ばれる老舗と肩を並べるようになったのです。
 創業者・小林忠兵衛は、嘉永3(1850)年、今の岐阜県に生まれました。丁稚奉公の後、明治3(1870)年に独立しましたが、最初は主に醤油を商っていました。その後、小林盛大堂を名乗って事業を拡張し、化粧品や洋酒なども扱うようになりました。

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 その頃忠兵衛は、医薬品の将来性に着目していました。当時はまだまだ衛生状態が悪く、赤痢、コレラなどで沢山の人が命を落としていました。一方、医師の数は少なく、薬局もまばらでした。忠兵衛は医薬品業界の調査に着手する一方、息子を製薬、売薬会社に奉公させて、そのノウハウを学ばせ、間もなく薬卸問屋としての基礎を固めました。 
 明治30年代に入ると製薬業にも進出し、「タムシチンキ」などのヒット商品を世に送りだしています。こうして中部地方の薬業界における地位を確立した忠兵衛は、明治末に「薬都」大阪への進出を図り、道修町に近い平野町に合資会社小林大薬房を開きました。

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 その直後、我が国の新薬市場は大きく変貌しました。大正3(1914)年に勃発した第1次世界大戦で、ドイツと戦火を交えたことがその原因でした。新薬とその原材料の主要輸入国であったドイツと断交したことで、業界は品不足に悩むことになりました。しかしその結果、国産化が進み、間もなく忠兵衛の予想通り、製薬業界は大いに発展したのです。
 小林大薬房が株式会社に成長し、西区京町堀に新社屋を建設したのは、大戦が終わる大正8年のことでした。社長には忠兵衛の長男吉太郎が就任し、より積極的な経営に乗り出しました。
 卸売の仕事もさることながら、吉太郎は名古屋時代からの人気商品「タムシチンキ」や、超ロングセラーの頭痛薬「ハッキリ」などの自社製品の販売に力を注ぎました。新聞広告、プレゼントセールを展開し、また宣伝マンを外地にも派遣して、販路を開拓しました。
 ようやく大阪での地位を確立した同社も、大東亜戦争によって大きなダメージを受けました。本社も十三の製薬工場も灰燼に帰してしまいました。しかし吉太郎は意気消沈することなく、攻勢に出ました。新社屋用地を道修町に確保しました。このバイタリティが土台となって、戦後の小林製薬の躍進が始まったのです。
 自社製品開発に力を注ぎ、自信を持ってそれを売り出すという伝統は、今日の小林製薬にも受け継がれています。
 例えば、平成8年に発売された総入れ歯洗浄剤「タフデント」は、アメリカ企業との間の、25年にわたる合弁事業を解消し、年間売上100億円の市場を白紙に戻しての挑戦でした。
 創業以来の商事、メーカー、医療機器の三部門が足並みを揃え、経営理念である「人と社会の快をつくる」ために、今日も小林製薬は挑戦を続けています。

※写真はいずれも小林製薬株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
第108回/平成12年7月12日掲載


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