「アメリカでダライラマ14世猊下に拝謁する」の巻
2009年秋頃のことだった。クライアントのひとりで、東京で旅行会社を経営していたYさんからメールが来た。直接話がしたいとだけ書いてあって、はっきりと用件は書かれていなかった。
翌日電話をしたら
「詳細をメールに書けなかったんです。万が一でも広がるといけないので。」
「いったい、何の話ですか。」
「ダライ・ラマの通訳を手配してもらえませんか。」
「ダライ・ラマの……ですか?」
ダライ・ラマ14世のお兄さんは生前、還俗してアメリカで大学教授をしていた。後に、在米のチベット仏教信者の為に、インディアナ州ブルーミントンに、チベット・モンゴル仏教文化センターを設立したのだが、莫大な借金を残して亡くなった。それで、事実上アメリカに亡命しているモンゴル人活仏であるアジャ・リンポチェ師がその意志を引き継いで、センターの運営に携わり、資金獲得に奔走した。勿論、ダライ・ラマ猊下ご本人も、資金提供されていたのだが、この度、負債を完済したので、猊下がそこを訪れて、お礼かたがた、様々な催しをされるという。その際に日本から、少数の篤志家を募って亡命政府に寄付をし、猊下と面会してもらえる約束をアジャ・リンポチェ師と旧知のYさんが取り付けたということだった。
筆者については、ギャラなしでよければカメラマン名目で(何を隠そう筆者は、学部卒業後教員採用試験に受かるまでの3年間、出版社で記者兼カメラマンをしていた経験がある)とのことだった。こんな機会など滅多にあるものではない。勿論お受けすることにして、2010年5月13日、その日を迎えたのだった。インディアナに行くのは初めてだった。筆者の英語の先生で、当時インディアナ大学の大学院で学んでいたアレクにも連絡を取って。別の日に再会した。
さて当日は、まず一般向けの説法会に参加。会場は満席だ。多くは地元の白人だ。他州から来ている人も多いらしい。舞台中央に玉座。既に僧侶が読経を始めていた。白人の女性が五体投地をしている。よく見ると舞台には白人の僧もいる。
ダライ・ラマ猊下が、穏やかな笑みを満面にたたえて登壇した。この日のテーマは「般若心経における空の概念について」という、非常に哲学的なものだった。
終了後、日本人一行はいよいよ猊下との接見の場となるセンターへと移動した。
猊下がお越しになるということで、色鮮やかな民族衣装を身にまとったチベット人、モンゴル人がたくさん集まっていた。晴れ着なのだろう。我々は控え室でしばらく待たされた後、本堂にしつらえられた会見場に入った。
間もなく、猊下が、お目見えになった。玉座を見ると猊下は、それを私たちと同じパイプ椅子に取り替えるよう命じられた。
予定では寄付を手渡し、質疑応答、その後、記念撮影、そしてメインは猊下から寄付の礼に下賜される「カタ」というスカーフ贈呈とその際の一対一の写真撮影。この間1時間。しかし猊下の予定は秒刻み。確約されている訳ではない。最初の質問者が、手短にと注意されていたにも拘らず、長々と質問した。Youtubeなどでご覧になるとわかるが、猊下は質問には丁寧に回答される。この日もそうだった。
通訳はベテランだったが、こんな大物は流石に初めてだ。緊張して「脅威」という日本語が出てこず、一瞬言葉に詰まった。その時だった。猊下は通訳の顔を見て、「あなたは日本人でないね。どこの国の人」と親しく声をかけられた。
「あ、私は○○人なんです」。
「あー、そう」。そう言って猊下は通訳に向かってにっこりと微笑まれた。通訳は平静を取り戻した。
その数分後だった。
”Rain? Rain!”。猊下が突然立ち上がってバルコニーのほうに歩まれた。参加者からは見えなかったのだが、振り返ると突然の雨だった。建物の外には多くの人々が、一目猊下の尊顔を拝したいと集まっていた。
猊下は外に出ると仰った。
「私の為に来てくれた人がずぶ濡れになるので、ちょっと待ってください」。
そう言い残し、SPに付き添われて、降りしきる雨の中、お出ましになった。歓声は左程でもなかったが、人々の歓喜の顔また顔は、まさに「竜顔を拝す」という言葉に相応しいものだった。
SPの差し出す黒い傘の下で猊下は、最前列に陣取っていた、民族衣装を着た女性グループの歌をお聞きになった。人々はそれで満足したかのように、別の場所へ移動していった。
猊下は室内に戻られ、記念撮影になった。この時点で面会から30分ほどしかたっていなかったのだが、会見はそこで終了。猊下はSPに付き添われて退出された。一行は僧侶たちにせき立てられるように本堂から追い出され、控え室に戻った。ツーショット写真の為に少なからぬ寄付をした参加者は一様に失望の表情を浮かべた。本堂では信者向けの説法が行われている、その後もしかしたら写真撮影できるかと淡い期待を抱いた人もいたが、警備の関係で私たちは応接室に「軟禁」状態となり、それは叶わなかった。
参加者の気持ちを察したのか、アジェ・リンポチェ師が現われ、約束の「カタ」を参加者に下賜してくださった。筆者は寄付もしていないし、仕事(の振りだけなのだが)で来たので遠慮したのだが、その余慶に与った。
本堂での説法も終わり、猊下はすぐに帰られたようだった。私たちが「釈放」された時には、雨はすっかりやんでいた。ぬかるみが沢山できて、立ち往生になっている車もあった。しかし家路に着く人々はの顔は喜びに包まれていた。
祖国を追われ、異国の地に暮らす人々が、民族の長として、或いは、神格化された元首として、この優しい笑顔の人物を頂くということに、誇りと喜びを持っている。そしてそれを、誰に憚ることなく表現できることに、筆者は羨ましさを覚えたのだった。
『歴史と教育』2010年7月号掲載の「シビリアン・アンダー・コントロール~モントレーの砦から」に加筆修正した。
【カバー写真】
通訳が言葉に詰まった時に、前に乗り出して笑顔で話しかけたられたダライ・ラマ14世猊下。(撮影:筆者)
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