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日本人の大発見③ 小学校を落第した原子模型理論の先駆者・長岡半太郎

 小学校で落第したという経歴を持ちながら、草創期のわが国の物理学界をリードし、私たちが知っている原子模型の原形を作るなど、世界的な業績を残した人物がいます。後に大阪帝国大学(現大阪大学)の初代総長になる長岡半太郎です。
 長岡は慶応元(1865)年、肥前国(現長崎県)大村藩士の家に生まれました。父が新政府に職を得たので、長岡は上京して小学校に入学しましたが、成績は芳しくなく、落第を経験したと本人が語っています。その後奮起した長岡は、東京英語学校などを経て、東京大学理学部に入学しました。
 専門課程に進む時、長岡は物理学科に進むべきかどうか悩みました。「東洋人の科学研究能力が西洋人に劣っているのではないか」という疑問を解消するため、1年間休学して漢籍を読み漁り、古代より漢人も科学的に見て優秀な業績を残していることを確認して、ようやく物理学科への進学を決めたのでした。
 明治26(1893)年、磁歪(磁気歪み)の研究で理学博士の学位を得た長岡は、間もなくベルリン大学への留学を命じられました。当時のドイツでは、原子や分子といった目に見えないものを諭ずるのは科学的ではないという、経験主義的な考え方が主流でした。
 しかし、長岡にはそうは思えませんでした。そこで、原子論を提唱するルートヴィッヒ・ボルツマンがいたミュンヘン大学に移って研究し、そこでやはり英国で原子論を展開していたジェームズ・クラーク・マクスウェルの著作に触れました。その中に、後に長岡の原子模型理論にヒントを与える「土星の輪」に関する論文がありました。
 「土星の輸は『板』ではなく、無数の固体粒子の集まりである。土星とこれらの粒子、また粒子同士に万有引力が働き、平面上にある粒子がそこを離れようとすると引き戻される」。
 このイメージが、長岡の脳裏に深く焼き付けられました。
 当時、物理学の世界は大きく動いていました。長岡が留学を終えて帰国し、母校の教授となった明治29年には、アンリ・ベクレル(仏)がウランの放射能を発見しました。前年にはあのヴィルヘルム・コンラート・レントゲンがX線を発見していました。そして、明治31年にはピエール・キュリー、マリー・キュリー夫妻(仏)がラジウムを発見しました。
 放射線、放射性物質の研究は、仮説にすぎなかった原子や分子の存在をおぼろげながら示すものでした。また、それまで英国のケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)が考案していた「プラスの電荷を持った小球の中を微少粒子であるエレクトリオン=電子が動き回る」という原子構造の模型に無理があることもわかりました。
 長岡は「プラスの電荷を持った球の周りを、マイナスの電荷を持った電子が廻っている」という模型を考案しました。それは、あの「土星の輪」と同じく、電子がクローンの法則による引力を受けているというものです。日露戦争が始まった明治37年、英国の科学誌に発表された長岡の論文は大きな反響を呼びました。
 その後、1911年にアーネスト・ラザフォード(英)が、長岡の言うプラスの電荷を持った球、つまり原子核の存在を証明し、その2年後には、ニールス・ボーア(デンマーク)が、現在その正しさが確認されている詳細な原子模型を提案し、古典的量子論を完成させています。
 その後、長岡は「学界のボス」「カミナリ親父」として君臨しますが、彼のエネルギーは常に日本の物理学界の水準向上に注がれていました。その厳しい愛情は、素粒子論の仁科芳雄、日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹ら、多くの弟子を育てました。
 昭和25(1950)年、長岡は85歳で亡くなりました。長岡は臨終の1時間前まで、物理学の専門書を紐解いていたといいます。

連載第120回/平成12年9月27日掲載

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