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なにわの近現代史PartⅡ⑨ 小林一三の電鉄商法

 「有馬温泉や箕面公園まで電車ひいたかて、乗る客おるんかいな」。
 明治39(1896) 年、日清戦争後の不況の最中、箕面有馬電気軌道(箕電、現在の阪急電鉄)が会社設立を計画したとき、世間の評判は最悪でした。募集した11万株のうち、58,000株しか払い込みが取れませんでした。当時、京阪電車などの私鉄建設が計画されていましたが、ほとんどは都市間を結ぶもので、将来性に見込みがありました。
 しかし、箕電は田舎電車。発起人たちも自信を無くし始めていました。しかし、箕電の発展を自らのアイデアで現実のものとしたひとりの実業家がいました。それが小林一三です。
 小林は、山梨県韮崎市の出身で、明治25年に慶應義塾を卒業後、三井銀行(現三井住友銀行)に入行しました。後に、元上司で北浜銀行(三菱UFJ銀行の前身のひとつ)頭取だった岩下清周の周旋で、阪鶴鉄道(現JR福知山線・舞鶴線)の監査役に就任しました。阪鶴鉄道は、鉄道国有法によって、他の主要私鉄と共に政府に買収されることになっており、同社の経営陣は、新たな鉄道会社設立を目論みました。それが箕電です。小林も追加発起人としてそこに名前を連ねました。
 小林は、重苦しい雰囲気の会議が続いていたある日、大阪から池田まで、箕電の敷設計画通りに歩いてみました。豊中市なども、今日からは想像もできない田園地帯です。歩きながら小林の脳裏に、「沿線に住宅を経営すればどうだろう」というアイデアが浮かびました。日露戦争直後、大阪市の人口は急増中でした。明治26年の48 万人が、41 年には122万人に膨れ上がります。大阪市にはベッドタウンが必要なはずだと小林は考えたのです。
 今では当たり前の経営方針ですが、それを最初に考えたのは小林でした。もちろん、このアイデアは既に払い込まれている株式の資金で、鉄道そのものの建設は可能だという、しっかりとした計算に裏付けられていました。
 明治40年6 月、小林は他の発起人との間に、一切経営に口出ししないという契約を取り交わして、箕電の経営を事実上ひとりですることになりました。10月の設立総会で弱冠34 歳の小林が専務に就任しました。社長は空席で、後に大株主の岩下が就任しました。工事は翌年からはじまり、43年3月に宝塚線と箕面線が営業を始めました。
 その間小林は、明治 41年に「最も有望なる電車」というパンフレットを配布し、箕電の将来性を宣伝しました。翌42年には「如何なる土地を選ぶべきか/如何なる家屋に住むべきか」と題した第2弾を作成し、郊外生活のすばらしさを、小説家志望だった小林自身が筆を執ってPRしたのです。そして沿線に130万㎡の土地を造成して、分譲の他、賃貸や月賦もOK というサラリーマン向けの住宅を建設しました。このPR作戦は大当たりし、開通後の箕電は順風満帆に船出しました。
 その後も、 宝塚新温泉と少女歌劇、ターミナルデパート、職業野球と、小林商法は止まるところを知らず、今日の阪急・東宝グループの基礎を築いていったのです。

連載第61回/平成11年6月23日掲載

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