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出すものを出す

数多の才持つ人がすなるといふnoteなるものを、特に才もあるわけでもなくただ長い間書いたり読んだりしてきた者もしてみんとす。

徒然なるままに、日暮し携帯に向かいて、心にうつりゆくよしなしごとをTwitterで呟いていたのですが、

この140字というのが(今はツイート繋げられるけど)気軽且ついかにその中に自分の言いたいことを綺麗に収めるか、というある種の言葉遊びのようで楽しかったり逆に不便であったりするので、

まさにその140字ではどうも座りが悪いよしなしごとを、今まではとりとめもなくEvernoteに打ち込んでいたわけなのですが、それは誰に見せるためとか誰かを説得するためとか自分の気持ちをわかってくれ!みたいなやつではなく、日記と呼ぶのもおこがましい、ただの書きなぐり(スマホなので打ち殴り)でありました。ブログも昔やってみたことがあるんですが、人様に読んでもらう目的で書き始めると、どうも人様の目を気にして「いや自分、ナチュラルに自然体で書いてるっスから(チラッチラッ)」というわけのわからんかっこつけが発動し、結果毒にも薬にもならないどころかトイレでおしりを拭くにも使えない文しか書けずやめました。

話が突然変わりますが、ぼくはよく湯船に浸かりながら考え事をします。今まで作ってきた薄い本のネタも八割くらいは湯船で生まれました。

湯船でぼくはたまに独り言を言います。ぶくぶくとお湯の中に。

お湯以外のものに、アウトプットがしたいと思ったのです。

誰かに向けて、という己の厨二感丸出しポエム以下のものではなく、単に備忘録のような感じで。それこそEvernoteがnoteになった、ただそれだけみたいなアウトプットをしようと。

ほななんで急に人様に見せるようにしてん、という話ですが

例えば、InstagramやFacebook、Twitterのいいねの数に拘る人を斜に見ることありません?特にSNS等に疎い人からしたら、写真やらなんやら見せていいね言うてもろて、だから何?って感じかもしれません。うちのハッハとかはそういう感じです。

承認欲求を満たしたい、というのが大体根底にあるとされてますが

ぼくはなんとなく、褒めたり認めたりでなくていいから、「うんうん、そうなの」と特に意味の無い話から死ぬほどシリアスな話まで、否定も肯定もされないで自分の話を聞いてもらう場が、人間には必要なのかもしれんと思うのです。

褒められたり認めてもらったりしたらそれはもうラッキーなオマケって感じで。

批評もアドバイスもしない、されない場で安心して言葉を発することができるということ自体を、どこかで人間は必要としてるのかもしれないです。少なくともぼくは必要としています。故に下手なりにずっと文章を書いてきたし、その中に救いなどを求めてきていました。

まぁ、誰にも傷つけられない世界なんてもんはないので、誰でも見られる場にそういったものを置くと色んな反応があるのは当然で、そういう意味ではぼくのこの仮説はちょっと話違ってきてしまうんですけども。

論文を書いているわけではないので、ただ心にうつりゆくよしなしごとを、ただポチポチと打ち殴るので、文脈も結論もクソもねぇってことが多々あります。あります(断言)

もし万が一、そんな打ち殴りの中に、ちょっとでも「なるほど、そういうのもあるのか」と孤独のグルメな引っかかりがあれば。

それはぼくにとってラッキーなオマケです。よっしゃラッキー。


全く関係ないけど、「徒然なるままに」って文面で勇者指令ダグオンのリュウのキャラソンを思い出しました。わかる人だけ歌ってください。こっころーーーじゆうじっざいーーー♪




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