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『勇気爆発バーンブレイバーン』について

『機動戦艦ナデシコ』は1996年放映のSFロボットアニメ作品。

人類が火星にまで進出した宇宙時代。謎の機械兵器群「木星蜥蜴」は突如火星を襲撃、火星開拓民は壊滅的な被害を受ける。襲撃事件から生き残った青年テンカワ・アキトは、事件のショックを引きずりながらも地球でコックを目指していたが、なかなか上手くいかず職にあぶれる。鬱屈としていたアキトだったが、ひょんなことからかつて火星で幼なじみだったミスマル・ユリカと再会。彼女は軍需企業「ネルガル」の新造戦艦「ナデシコ」の艦長に任命され、木星蜥蜴を撃滅し火星の生き残りを救助する任務に就くことになっていたのだった。アキトに対する思い込みの激しいユリカをはじめ、有能だが問題ありなクルーたちが集ったナデシコ。そこでコックとして雇われることになったアキトは、ナデシコ内でのトラブル、そして戦闘ロボット「エステバリス」のパイロットとして木星蜥蜴との戦いにいやおうなしに巻き込まれていく。



『銀装騎攻オーディアン』は2000年放映のロボットアニメ作品。

主人公・哉生優は高校をドロップアウトし漫然とした生活を過ごしていた。ある日優は、自身の先輩であった橘了に誘われ国際兵士養成機関「I.M.O」を見学し、そこでかつての幼馴染であるナンナ、I.M.Oのエース・ウォルフ、謎の少女・ネルらと出会う。優はI.M.Oに入隊し、人型兵器「リムヒューガン」のパイロットとして彼らと共に訓練の日々を過ごすこととなる。やがて戦地へと赴くことになる優たち。彼らには自身の出生の前から続く、大きな秘密と因縁があった。


なぜ、『ナデシコ』や『オーディアン』のことを書こうと思ったか。
昨年末から今年の初めに掛けて、YouTubeで『ナデシコ』が無料公開されていた。それを子供の時以来久しぶりに視聴したから、というのもある。
しかし最大の理由は、それとほぼ同時期に『勇気爆発バーンブレイバーン』というロボットアニメが始まったからだ。この記事は本来、このことに関連して『ナデシコ』や『オーディアン』について書こうと考えて始めたものだった。いまそれを転用しているのは『ブレイバーン』が私の思いもよらない展開になってしまったからだ。

※ネタバレあり

『勇気爆発バーンブレイバーン』

『勇気爆発バーンブレイバーン』は2024年1月11日に放映(配信)開始したロボットアニメだ。
意志を持つ謎のロボット「ブレイバーン」が、自衛官の主人公「イサミ」を自身のパイロットに選び、地球を破壊した宇宙からの侵略者「デスドライヴズ」に対抗するという作品である。放映前、私は本作に対してあまり興味が持てなかった。リアリティ寄りの世界にスーパーロボットのモチーフを持ち込むということ自体は、これまでにもあったことだし、放映前からあからさまにツッコミ待ちな姿勢を感じてしまったからだ。

しかし第1話を視聴してみて、期待が持てる作品だと感じた。現在の軍事の延長線上にある世界設定や、没個性的な主人公であるイサミ、勇者ロボやトランスフォーマーのような人格あるロボットの迷惑な面を強調したブレイバーン、ボーイズラブやブロマンスを感じさせる描写は新しく感じられ、きっとこれまでにない作品になるという期待を抱かせるものだったからだ。

このアニメはいわゆるリアルロボットものの設定の世界にスーパーロボットが現れる、という点がまずひとつの特徴だ。先述の通り、これ自体はこれまでにもあったものだし、放送前から公開されていたイメージビジュアルと番組タイトルの乖離から予想が容易な部分ではあった。

だが本作はそこにさらに捻りを加えている。地球を壊滅させた敵「デスドライヴズ」に対し、突如現れた人格を持つロボット「ブレイバーン」。彼は人類を救う勇者だが、主人公・イサミに対して異様ともいえる執着をみせ、他人の話を聞かずに自身の考える正義を主張するなど、性格的にははた迷惑な存在として描写されている。加えて、同性と異性、人間とロボット、敵味方問わず、登場人物たちの行き過ぎた愛着や思慕が全編に渡ってギャグ的に差し挟まれている。

こうした描写は「気持ち悪い」ものとして視聴者に受け取られ、混乱を巻き起こしながらSNSなどで話題を呼んだ。実際そう受け取られることを意図したギャグであり、このギャグが比較的肯定的に受け入れられていることをみれば、その試みは成功しているといっていいだろう。

スーパーとかリアルとか最初に言い出したのは誰なのかしら

ここからは先に述べたスーパーロボットとリアルロボットが並存する世界設定について述べていきたい。ただここで「そもそもスーパー・リアルとは…」などと迂遠な話はしたくない。そもそも各アニメ作品がこの定義や基準を用いて制作されているわけでもないし、視聴者の見解も一意に定まることはない。

なのでここは私の独断で話を進める。ロボットアニメであればざっくり「ガンダム」的なものをリアル、「マジンガーZ」的なものをスーパーとする考えだ。より抽象的に言うならば、現代兵器の延長にある描写が色濃いものがリアル、現代兵器の文脈から遠くヒロイックな描写が色濃いものがスーパー、という説明になるだろう。両者は明確に線引きできるものでもなくお互いに通じ合っている。しかし、そうした区分けをする見方が一定数の人々に生じていることは事実ではある。以降この区分けをもとに記述する。

前提として『ブレイバーン』の舞台は地球で、人類がおり、現実に存在するアメリカや日本といった国家、アメリカ軍や自衛隊といった組織が登場する。各国の軍では人型の新兵器「ティタノストライド(TS)」が配備段階にあることが語られており、アメリカと日本はTSの共同軍事演習(アド・リムパック)をハワイで行っている。

このアニメの主人公であるイサミ・アオは陸上自衛隊所属の3等陸尉で、TSのパイロットだ。日本のロボットアニメにおいて自衛隊が登場すること自体あまり多くはなく、主人公が自衛隊員であるという設定も珍しい。TSが配備されつつあるとはいえ空母や戦闘機はいまだ現役、先述した「アド・リムパック」の存在など、この作品世界の軍事描写は現代兵器や現実のミリタリーバランスの延長に根ざしていることを強く印象付ける。TSには軍事教練を受けた軍属者が搭乗し、戦場に赴く。こうした点をみると、作中世界の設定は比較的リアリティが高いといえる。

このリアリティある世界に「ブレイバーン」という異物を代入することが第一のインパクトとなる。これはミリタリーとヒロイックの対比という絵的な面白みだけでなく、主人公たちの内面にも関わるものでもある。

子供のときにだけあなたに訪れる

第1話冒頭はイサミと並ぶもうひとりの主人公的な存在、ルイス・スミスによるモノローグからはじまる。米軍海兵隊所属の少尉である彼は、少年時代に抱いていたヒーローへの憧れを独白するのだが、このシーンの映像は自衛隊と米軍による「リアル」なロボット兵器による軍事演習である。彼は、少年時代に夢みていたヒーローが現実には存在しないことを自覚しながら、軍人としてロボット兵器に搭乗している。

なぜスミスがこうしたことを思うのか。スミス個人の視点から言えば、それは自身の生きる世界に、死や戦争といったヒーロー不在の現実があることを認知してきたからだ。これは、たとえスミスでなくとも人が成長するにつれて理解していく普遍的な経験である。
それではなぜそんなモノローグから本作の物語がはじまるのだろうか。それはロボットアニメの物語にある不文律が関係する。ロボットアニメにおいてスーパーロボットの多くとは少年少女の前にヒーローとして現れるものであり、軍事というものから遠ざけられるからだ。

ロボット自体がヒーローの象徴であることもあれば、その力を使う者がロボットをヒーローたらしめることもある。実態がどうあれ、年若い者たちはどの勢力にも与しないある種の純真さを持っていると見なされ、それが唯一巨大ロボットという力を行使する正当性を担保している。スミスが成長して軍属となることは、ヒーローが自身の前に姿を現わさない現実を認めることでもある。

「エルドラン」と「勇者」

本作が直接的に参照元としているのは、番組タイトルからいえば「エルドラン」シリーズ、そして『ブレイバーン』の監督である大張正己氏が以前からセルフパロディ的に取り入れることも多い「勇者」シリーズだ。どちらも90年代日本における少年向けスーパーロボットアニメシリーズである。

両シリーズについて簡単に述べよう。「エルドラン」シリーズでは善の思念体によって悪と戦う使命を託された小学生たちがロボットに搭乗し、学校のクラスそのものが敵と対抗する組織となっている。「勇者」シリーズに関しては、年齢やパイロットとして搭乗するか否かという面で幅はあるが、少年と人格を持ったロボット(勇者)の両者を主人公として扱い、かれらが友情を深めながら共に悪と戦っていくというモチーフは変わらない。『ブレイバーン』のキャラクターはこの構図のパロディとして、少年を大人に、勇者を迷惑者に置き換えている。

こうした「少年とロボット」という関係は日本のロボットアニメに限って遡れば横山光輝の『鉄人28号』にまで行きつく。むろんこのモチーフは全てのロボットアニメの共通項ではないし、誰しも念頭に置いているわけではない。しかし、さまざまなアニメ作品が制作されていっても、このモチーフは大きな影響を残し続け、変形し、保存され、今に受け継がれている。直接的であるか間接的であるか、物語や設定に寄与するかしないか、批判的か教条的か、どんなロボットアニメ作品にせよ、この影響から免れることは難しい。

戦争やミリタリー描写の色濃い「リアル」なロボットや人物が主役となるのは、先んじて場を形成していたヒーローとしてのスーパーロボットに対する異議申し立てだ。そして世代が一巡すればさらにそれを問い直して…という繰り返しが起こる。たとえば、先に述べた『ナデシコ』や『オーディアン』は「スーパー→リアル→スーパー」というロボットアニメの流行の文脈を踏んで製作されたアニメ作品だといえる。

『ブレイバーン』はそうしたロボットアニメの不文律や文脈を自覚してパロディを行っている。そしてそのような作品をこれまで数多くのロボットアニメに携わってきた大張正己氏が監督している、という文脈ありきなアニメ作品だ。

こうしたことはロボットアニメに精通している視聴者ならば面白みを感じる部分だろうが、そうでない視聴者にとっては少なくとも視聴時点では効力を持たない。それはリアルロボット・スーパーロボットという、ロボットアニメ独特の枠組みにしても同じことがいえる。だが、本作が目配せをした点はそれだけではないはずだったのだ。先述したブロマンス的な要素や、ヒーローのはた迷惑な面をギャグ的に描いたという点は、ふだんまったくロボットアニメを観ない視聴者を巻き込むフックたりえている。それは2020年代にロボットものをやるうえで生じる商業的なハードルを越える原動力になる。同時に食傷したロボットアニメフリークにとって、新しいものと受け取られるはずだったのだ。

しかし、そうはならなかった。そうした期待を持った部分というのは、最後までギャグをするための要素にしかならず、全12話に至っても育ちきることはなかった。

我々もギャグを困惑して受け取ればよかったのか?

デスドライヴズの各ボスたちは色物として描かれてはいたが、それはギャグとして成立していただろうか。彼らは他の人物や視聴者に何らかの影響を与えるよりも早くブレイバーンによって退場させられ、その後の展開に寄与することはない。また、メインではないキャラクターも相当数登場したが、はたして彼らは印象に残る働きをしただろうか。中核となるイサミ、スミス、ルル、そしてブレイバーンだけがストーリーを駆動させてしまっている。そしてそんなイサミたちの描写すら、ギャグのための一面的な味付けに終始しているように思える。

もしも彼らが本当にギャグだけのためにある存在であるならば、それはそれでいいと思うし、そのように観ることができるだろう。そしてそんな彼らが、時に深みのあるような人物像を見せるのであれば、また面白く観られたかもしれない。

だが、最後まで見てもやはり中途半端に描いただけにしか思えなかった。ところどころ思わせぶりなカットや描写を盛り込んでいるのだが、その多くは半端なところで宙吊りになっている。私は決して作内のすべての伏線が回収されるべきだとは思わないし、たとえ完遂されなかったものでも想像をかきたてるものであれば無駄ではない。
それでは全12話を通した連続アニメ作品として、『ブレイバーン』がそんな想像を惹起させるだけのパワーを持っていたかといえばそうは思えない。

夢中になった日々が夢の破片さ

本作のラストから受け取れるのは「ヒーローは虚構だが、虚構を信じる君たちが勇者だ。」というメッセージだ。ラスボスに立ち向かった主役以外の「リアル」な兵器を操るキャラたち、最後にブレイバーンが消え去ってしまうことが、そのことを示している。そしてそれは、冒頭の「ヒーローになりたかった」というスミスのモノローグとつながる。つまり1話と12話の帰結をみれば、本作が辿るべき筋は明確につながっていることがわかる。そのテーマ自体はまったく悪くないし、ややメタフィクショナルな演出は好き嫌いが分かれそうだが、幕引きそのものは美しい。問題なのは2話から11話までの積み重ねがあまりに乏しいことであり、極論すればドラマとして1話と12話以外は不要に思える。

その間には戦死・物資の欠乏といったハードなシーンも点として挿入されるが、そうした事態が人物たちにどれほどの負荷を与えているのかという主観的な描写が欠如しているし、ギャグに分量を割かれているため記憶に留まらず流れていく。そして、カタルシスを生じさせうるデスドライヴズとの戦闘、ブレイバーンのパワーアップといった場面も、結局のところギャグとして処理されてしまう。先述した「仲間たちがラスボスに立ち向かうシーン」にしても、彼ら自身や彼らが駆る兵器についての描写が(イベント・筋は通っているにも関わらず)積み重ねられていないため、理屈としてはわかるが弱いシーンになってしまっている。

本作はギャグにもドラマにもなり損ねている。もしも本作がこの喜劇と悲劇とのズレ、あるいは表裏一体の関係を「神のような力を持つロボットとそれに翻弄される人間」として描きたかったのであれば、それは先述した描写の不足によって失敗していると言わざるを得ない。

これは主人公のイサミに顕著にみられる。イサミの職業は自衛官だが、そうした属性面でのリアリズムを考えれば、彼の人物造形にも疑問が残る。あるいは「自衛官だからきちんとした規律や見識を持っている人物だろう」という視聴者のステレオタイプな見方へのアンチテーゼだったのかもしれないが、それが面白みに繋がるほどの効果を果たせる場面はないため、評価しがたい。

全体を通して彼は、自分が巻き込まれた状況に静かに苛立ち、不貞腐れ、ブレイバーンに対して怒っている。たしかにブレイバーンは大変に迷惑な存在だが、市井の人間が巻き込まれたのであればともかく、軍事教練を受けたイサミのような人物がこのような態度をとるだろうか。そうなる理由も考え付かないわけではないが、とはいえ描写がギャグに寄り過ぎている以上、彼の機微を汲み取ることは難しい。そのためスミスをはじめ仲間たちが彼を慕っていることにも納得いく理由が出てこない。

過去を語るシーンがあればいいというものではないが、イサミのバックボーンが語られることはほとんどなく、またブレイバーンへの文句以外は現状に対してどう思っているのか不明瞭なため、彼の人間性は掴みかねる。もしかしたらイサミが「弱音が吐けない類の人間」であることを表現したかったのかもしれないが、とはいえそれも数少ない描写(戦死者を悼んでいるような素振りなど)から類推するしかなく、そういったものも強烈なギャグ描写によって上書きされてしまい印象に残らない。

最終話、イサミはブレイバーンを破壊され追い詰められた挙句、敵に白旗を揚げるという行動をとるが、如何せんそれがギャグなのか、彼の(シナリオ上意図された)精神崩壊なのか、あるいは描写不足なのか判然とせず、困惑のまま受け取るほかない。そして最終局面で彼は突如覚醒し、自分自身がブレイバーン(勇者)であるかのように振る舞う。しかしなぜそうなるのかという積み重ねが無いため、それはイサミ自身の「勇気の発露」ではなく人格の破綻にしか見えない。

人物描写の時間が少ないのであれば、むしろ省略してしまった方が受け手は勝手に想像してドラマを賄える。『ブレイバーン』では2話から最終話までのギャグとドラマのバランスが歪なために、不必要にシリアスなシーンが強調されてしまっている。それは視聴者にはあらぬ誤解や期待を生じさせ、結果として小さな失望が積み重なっていく。

あるいは本作はシリアスなシーンをその分量ではなく、リアリティのコントラストをより淡く調整することで、そうした誤解を回避できたかもしれない。ただしそうした手段をとれば、ラストの「虚構のヒーロー」のメッセージは弱まってしまうだろう。この作品が「リアル」を追及したのはそんな虚構のヒーローを信じるためだ。それはスミスにとってだけでなく、この世界で戦った兵士たち、そして『ブレイバーン』を観た視聴者にとっても、あまねく受け取れる勇気そのものだ。

私たちの勇気は爆発したか

私が見える範囲において、本作のセオリー崩し・ギャグ描写はSNSなどを見る限り受け入れられているようだ。具体的にどのくらいの割合、数、視聴者層が本作を観て評価をしているのかはわからないが、可視化されたものをみると好評を得ているようである。つまり私のような否定的意見は少数派なようだ。たしかにシーン単位、点として見た場合のギャグシーンでは面白いと感じる部分もあったが、とはいえそれで本作全体の評価が上昇することは残念ながらなかった。

新進気鋭かつ元来は異業種のCygames Picturesと、ロボットアニメ作品を数多く手がけた大張正己監督のタッグによる『勇気爆発バーンブレイバーン』。新しいはじまりになることを本気で期待したが、私はこのアニメを通してブレイバーンの姿を見ることができなかった。


余録:キャラクター単位としての『ブレイバーン』

私は『ブレイバーン』についてアニメ作品としてはあまり評価できないが、キャラ単位であればその面白みが活きるかもしれない、と思っていた(参加していた『ブレイバーン』感想動画でもそうした発言を行っている)。
実際のところ、その期待(懸念?)は現実になった。

4月19日、スマートフォン向けゲーム『スーパーロボット大戦DD』に『ブレイバーン』が参戦(コラボレーション)した。本作は数々のロボット作品がひとつの世界にクロスオーバーするゲームだ。もともと大張正己監督は「スパロボ」シリーズと関わりが深く、『スパロボDD』においても主役ロボットのデザインを行っている。加えて、主役機が意志を持っているという点やライバルロボットのデザインなど近しい部分も多い。放映終了直後という近年では異例の早さの参戦となったが、このコラボレーションはアニメの製作段階から計画されていたものだろう。

『スパロボDD』は私も以前からプレイしており、『ブレイバーン』の参戦シナリオもクリアした。アニメ序盤~中盤の段階で『スパロボDD』の世界に転移してきたという設定になっており、イサミ、スミス、ルル、ブレイバーン、スペルビアが登場する。

ある種なんでもありの「スパロボ」世界において、自身のパロディ元である勇者シリーズのロボットや、設定の似通った『スパロボDD』オリジナルキャラクターと会話するブレイバーンの姿は、むしろそうなるべくしてなったかのように馴染んでいる。またブレイバーンに遭遇した際の困惑と受容の過程も、「ガンダム」シリーズのようなリアル系キャラクターの目を通して描かれている。

ロボットやヒーローに対する憧れを持つスミスがこの世界のロボットに好奇心を抱いている描写も彼らしくてよかったが、なにより驚いたのはイサミが一介の大人(あるいは自衛官)として責任ある振る舞いや言動を行っていたことだ。たとえば彼は、少年少女らに戦いをさせていることに対する負い目をスミスに語っている。これはそれだけ「スパロボ」の世界が非常識であるともいえるし、また『ブレイバーン』というアニメの中だけでは描写されることがなかったことだ。

異なるものが関わりあうことで、作品を相対化し、キャラクターや設定の一側面を再発見・提示できるのがクロスオーバーの長所だ。こうしたことは、過去にも他のアニメ・ゲームの間でもなされてきたが、今回の場合はあまりにも早く参戦し、また同時並行的に計画されていた。それだけに「上記のようなイサミの振る舞いや言動がもう少し本編でも見られていたら……」と私には思えてならないのだ。






主題歌の「ババーンと推参!バーンブレイバーン」はよかった。

(2024/6/4)

以上で記事は終了です。
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