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シェンムーIIIを終えて

“行きたいところへ行ける。
見たいものを見て、調べたいものを調べられる。

時間がそこにある。

気持ちのいい朝が来て、暖かい昼になり、
美しい夕暮れを経て、静かに夜が訪れる。”


『シェンムーⅢ』二日目の朝、扉を開けて外に出たときこの文章がよぎった。

これは『シェンムー 一章 横須賀』の説明書にあった文章だ。



ゲームの始まりは白鹿村という中国の山村。ここで主人公・芭月涼たちはまず人探しをすることになる。

初めてシェンムーをプレイする方もシリーズプレイ済の方も、初日の探索範囲の狭さには当惑するかもしれない。

得られる情報は少なく、時間があり余る。そんな時プレイヤーは何をするのだろうか。村人の様子を覗いたり、カプセルトイに興じたり、あるいは雲の流れをみるのか。

夜が更ければ家に帰り、その日あったことや他愛もない話を少女・シェンファと交わして、床に就く。

そして夜が明けて家の扉を開くと、眩しい朝日が目に入る。


その朝日をみたことが、自分が『シェンムーⅢ』を通して最も印象に残った場面だ。

初日の探索では不自由さやストレスを感じる部分もあった。
だが翌日扉を開けた瞬間に、それを含めかつて一章で横須賀にいた頃と何ら変わっていないことにおかしさを覚え、初めてみた朝日のすがすがしさに気分がよくなった。

ひとつひとつのイベントやシーンに刺激的な部分は多くない。ともすれば『シェンムーⅢ』は前二作以上に抑制的なゲームかも知れない。
見せ方がうまいとか、システムがかみ合っているなんてことでもない。
計算の上かはさておき妙な配合で全体を調和させてしまっている。

このゲームはスローペースであるというルールに支配されている。
監督・総指揮の『鈴木裕』氏みずから「いまどきこんなのんびりしたゲームも珍しい」というのは伊達ではなく、ゲーム側がプレイヤーに「ゆっくりしていけ」と手招きをする。

走れば減る体力、入手量の限られた生薬、実入りの少ない金策、修行による成長…どれもプレイ中はさすがにやりすぎではと思うことがあった部分が、結果として『シェンムーⅢ』の頑固な程のマイペースさに取り込まれ、ゆっくり遊ぶゲームであることを補強させる要素になっている。
そしてプレイヤーはゲームに振り回されながらも、最後には「アリかもしれない」と納得させられているのだ。

やがて物語の舞台は白鹿村から観光街・鳥舞へと移るが、相変わらずやることは探し物だ。
白鹿村が『一章』の横須賀だとすれば、さながら鳥舞は『Ⅱ』の香港といえるのかもしれない。

それぞれまったく違うロケーションなのに、人々の姿が重なって見える。これは『一章』から『Ⅱ』に移った際に感じた旅先での淋しさとも違うものだ。

台所に立つシェンファ、井戸端会議をする女性、地面に絵を描く子供、旅社の主人、お堂の巫女。

涼がどのように思っているかひとつひとつ語ることはないが、その景色からは郷愁と、一章から連なる足跡を感じられる。



自分はシェンムーが好きだ。だから贔屓目に見る部分もあるだろう。
それでも前作と比べてQTEが直感的じゃないとか、ショップで所持数見られないとか、後半の展開急だな!とか言いたいことはそれなりに、結構ある。

遊ぶ側がゲームにペースを合わせる必要があり、それもジェットコースター的でテンポの良い展開とは真逆を行くもので、どこが面白いのかわからずにプレイをやめてしまう人もいるかもしれない。

何をしてもいいが、何でも出来るわけではない。

だが新作『シェンムーⅢ』は間違いなく無二の体験ができるものだ。

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