「銀月の聖遺物狩り」第1話

 灰の匂いが険しい谷間に立ち込めていた。方々で火の手が上がり、悲鳴と共に家が崩れる。恐怖に狂った羊たちは燃え盛る柵を壊して逃げ出している。僕は転がり込んだ狭い納屋の中で蹲り、胸を押さえて少しでも鼓動を収めようとしていた。

「はぁ、はぁっ!」

 背を預けていた薄い板壁の向こうから石を擦る足音がした。思わず飛び上がりそうになるのを必死に堪えて、祈りの言葉を繰り返す。
 調和をもたらす天秤の神々よ、我らの苦難を退けたまえ。我らに祝福を。

「ウェル」
「ひっ」

 壁越しに名前を呼ばれる。優しく穏やかな声で、だからこそ恐ろしい。僕を探して歩いている、彼の声だ。

『逃げなさい、ウェル』
『走れ、遠くへ』

 二人の声が繰り返される。
 身を挺して時間を稼いでくれた、母さんと父さんの最期の言葉。二人のためにも、逃げなければならない。なのに、足は震えて力が入らない。ここから立ち上がることもできない。

「見つけた」
「ひあっ――!?」

 頭のすぐ上から声がする。見上げれば、トーマスの緑の瞳と目が合った。生前と同じ穏やかな笑みを浮かべて、でも顔の半分が潰れて、全身から白い炎を吹き出している。彼がぎこちなく口角を上げるのを見た瞬間、僕は一心不乱に走り出していた。

「どうして……」

 どうしてこんなことになったのか。つい数時間前までは、いつもと変わらない平和な日だったはずなのに。今頃は父さんと母さんと3人で夕食を食べていたはずなのに。
 どうして彼は突然、あんなものに成り果ててしまったのだろう。
 トーマスだったモノが僕を見る。真っ直ぐに。人の形をした、肉の中に詰まった、人ではない何かが、恐ろしく嗤っていた。
 悪魔憑き。そんな言葉が脳裏をよぎる。敬虔な天秤教の修道士だったトーマスが?

「どうして、トーマス……!」

 背後からは白い炎が迫っていた。
 肺が裂けそうだ。筋が千切れそうだ。それでも止まるわけにはいかない。

「待ってよ。待ってよ」

 声は着実に近づいていた。
 トーマスはこの狩りを楽しんでいる。

「たすっ――誰か――」

 希望の見えない暗闇の中を走りながら、いもしない誰かに縋る。
 父さんが燃え上がるのを見た。母さんが灰になって崩れるのを見た。二人の骨も何も残っていない。村のみんなも消えてしまった。みんなトーマスに殺された。

「ああっ!?」

 暗闇の中を夢中になって走っていた僕は木の根につまづいて転ぶ。そして、一気に谷底まで転がり落ちた。

「うぐっ、がっ!」

 背中、腕、足、全身をしたたかに打ち付けながら、ゴロゴロと落ちていく。上下左右に動く視界の片隅に、白い炎を広げるトーマスの姿が映った。
 空には欠けた月が浮かんでいる。

「誰か……」

 冷たい谷底の川の中で、救いの手を求める。もはや唇がかすかに震えるだけだ。
 死にたくない。助けてほしい。今すぐ目の前の悪魔を退けてほしい。
 どうしてこんなことに。この身に流れる“灰毛”の血が悪いのか。
 忌人と呼ばれ、迫害を受け、石を投げられ、追われるようにしてここまでやってきた。醜い獣の耳、獣の尻尾。これが悪いのか。“灰毛”は不幸を呼び込むと人は言う。ならば、目の前で笑っている悪魔は僕たち自身が呼び寄せたものなのか。

「たすけて」

 燃える指先が迫る。もう逃げられない。
 ゆっくりと目を閉じたその時、耳を劈く絶叫が谷中に響いた。

「があああああっ!?」

 僕の口から飛び出したものではない。トーマスの声だ。手放しかけた意識を抱き寄せる。最後の気力を振り絞って瞼を開く。
 そこにあったのは、身の丈ほどもある大鎌でトーマスの胸を裂く、黒衣の女性の姿だった。

「狼血を追ってきたら野生の聖人とは、珍しいのがいたもんだ」

 月光の下、鮮血を浴びた彼女は長い赤髪を翻す。夜闇を固めたような黒い大鎌がトーマスの胸から引き抜かれる。致命傷となるような攻撃を受けてなお、彼は立っていた。

「う、うぐぅ、ぐうううっ!」

 けれど、彼の表情から余裕は消えていた。喉元を掻きむしり、口から銀色の液体を吐き出している。身を悶え、低く唸りを上げている。
 女性は切長な眼を光らせ、口元を不敵に笑わせる。およそ人間とはかけ離れたトーマスと対峙してなお、恐怖を抱いていないようだった。

「まだ半端だな。なりたてか」

 彼女は独り言のように呟いて、流れるように鎌を振る。トーマスは彼女の方へ向き直り、腕でそれを受ける。そして、音もなく肘から先を失った。
 遅れて、草の上に腕が転がる。トーマスは大きく目を見開いて、驚きの声を上げる。その隙に、彼女は肉薄していた。

「主よ。大いなる黄金の天秤を持つ者よ」

 大鎌が弧を描く。トーマスの全身から白い炎が広がり、川の水を消し去る。猛烈な熱気に、僕は思わず腕で顔を覆った。
 女性は動きを止めない。流麗に歌うように言葉を紡ぐ。祈りを込めたその言葉は、天秤教の女神セラウに向けた詩だ。

「祈りの舟。星の海。沈黙の淵。燃え上がる炎は闇を祓い、零れ落ちる水銀は星を包む」

 彼女が大鎌を振るうたび、トーマスの体が千切れていく。両腕が肩口から落とされ、右足が吹き飛ぶ。それでも彼はまだ生きていた。全身から吹き出した猛火が荒ぶり、川底の石を焦がしていく。

「ツァーリアの導を求める者よ、大いなる円環に真実を見出した者よ。未だ帳は開かれぬ。混沌は眠り、故に神もまた眠る。限りなき水平は揺るがず。輝く双線は交わらぬ」

 赤い髪が広がる。

「偉大なる行き道を照らす神よ、その眼は未だ開かれん。その光が照らすものはない。深き海の底、揺蕩う箱の中、今再び瞼を下ろしたまえ」
「あああああああっ!」

 天を衝く絶叫が耳朶を打つ。トーマスは喉が裂けるのも構わず、破滅の悲鳴を轟かせた。同時にその体はより激しく燃え上がり、周囲の石や風さえも白い灰へと変えていく。

「安らかに眠れ、古き神よ」

 鎌が振り下ろされる。それはあっけなくトーマスの首を刎ね、吹き出す血飛沫を飲み込むように浴びていた。
 火は消え、乾いた川底に再び冷たい水が流れてくる。その濡れた感触で我に返った僕は、慌てて口を開く。何をどう言えばいいのか悩み、結局一番簡単な言葉を口にする。

「た、助けてくれて、ありがとうございます」

 背の高い女性が振り返る。濃紺の修道服を着た彼女の胸元に、天秤の聖印が載っていた。月光を浴びて淡く輝く彼女は、その真紅の瞳を猛禽のように鋭くさせる。

「――へっ?」

 間抜けな声が口から漏れた。
 僕の首元に、黒い鎌の刃が添えられていた。その柄を握っているのは、ついさっき僕を助けてくれたばかりの女性その人だ。

「“狼血”の力は教会の予想よりも強力だったみたいだな」

 彼女の言っている言葉の意味が分からなかった。今更になって体が震えるのは、川の水の冷たさからではない。
 赤い瞳に、僕の顔が映っていた。父さんや母さん、村のみんなと同じ灰色にくすんだ髪。頭の上から飛び出した狼の耳。“灰毛”と呼ばれ、石を投げられる理由。

「お前に選択肢をやるよ」

 鎌を僕の首に当てがったまま、その女性は口を開いた。
 少しでも動けば即座に刃が引かれると確信するほど強烈な殺気を放っていた。それでも、彼女は妖艶に笑っている。僕の命脈を握りながら、彼女は二つの道を示す。

「ここで狩られるか」

 その美しい顔が悪魔のように笑っていた。唇の隙間から見える鋭い牙が。

「あたしと共に地の果てまで巡るか。好きな方を選べ」

 選べと。それ以外の未来はないと。彼女は強く宣言した。僕は首元の聖印を握りしめる。母さんが僕に託した、唯一のもの。天秤の意匠を象った銀の首飾りを。
 選ぶものなどない。答えるべき言葉は、ただ一つだ。



 二人の名前を刻んだ木板を立てた。灰の中から掘り出した二人の指輪をその下に埋める。周囲には他の仲間たちの名前を刻んだ板も並んでいる。
 月が静かに見下ろす夜に、指を組んで祈りを捧げる。せめて、円環の向こうでは安らかに、と。

「終わったか」

 背後から声をかけられて目を開く。振り返ると、赤髪の女性がそこに立っていた。

「すみません。手伝ってくれて、ありがとうございます」
「どうせすぐ獣に荒らされるってのに」
「でも、やっぱり放っておけないので……」

 およそ聖職者らしくない暴言を吐く彼女に、戸惑いながら笑う。それでも、焦げ臭い廃村の灰の中から指輪や首飾りを見つけてくれたのも彼女だ。

「これで区切りが付きました」
「そうか。なら、とっとと離れるぞ」
「は、はい」

 彼女は名残惜しさなど微塵もないようで、くるりと背を向ける。そのまますたすたと進み出すのを僕は慌てて追いかけた。

「ええと、その……」

 背の高い彼女の大きな歩幅に早足で並ぶ。名前を知らないことに今さら気がついて言い淀んでいると、赤い瞳が僕を見下ろした。

「シェリー。見ての通り、天秤教の聖職者だ」
「あっ。ぼ、僕はウェルです。ええと、ウェル・アッシュフェール……」
「家名は知ってる。お前を追いかけて来たんだ」
「僕を?」

 彼女はトーマスを撃ち倒した後、僕に背中の鎌を向けて言った。僕の一族の名前を事前に知っていたということは、彼女も乱暴なことをするのだろうか。一抹の不安を胸に抱いて身構えると、シェリーは小さく舌打ちをした。

「妙なこと考えてるんじゃねぇよ。——ったく、狼血の一族が腑抜けやがって」
「ええと、その、狼血って言うのは?」
「ああ?」

 おずおずと訊ねると、シェリーは目を丸くして僕を見た。まるで常識のない人を見るような目に、思わず俯いてしまう。父さんたちやトーマスから色々なことを教わってきたつもりだけど、狼血という言葉には聞き覚えがない。

「豊穣と厄災の導き手。群れ流れる者。放浪の血脈。第三級聖遺物。——まあ、色々と呼ばれちゃいるが、詰まるところ生ける聖遺物だ」
「せい、いぶつ?」

 再び首を傾げると、シェリーは今度こそ呆れ果てた顔をする。そんなに常識的な事を聞いてしまっているのだろうか。

「テメェは何を聞いて育ったんだ。世界のあらましくらいは知ってるだろ?」

 シェリーに問われ、記憶を思い返す。トーマスが僕たちの隠れ里に流れ着き、しばらく経った後のこと。彼は村の教会に住む代わりに、僕たちに色々なことを教えてくれた。言葉や計算、社会のこと、そして何よりも天秤教と世界について。
 今の時代——人々の時代と呼ばれる安寧の現代は、とても危うい均衡の上に成り立っている。かつての時代、世界を破壊する混沌の獣と完璧な調和をもたらす神々の二つの勢力が激戦を繰り広げ、そして共に力尽きた。
 天秤教の教えでは調和大戦と呼ばれるその大戦によって双方が共倒れし、人々の時代が訪れたのだ。
 けれど、シェリーは最後の言葉を否定した。

「混沌と神々の戦いは今も続いてる。それが聖遺物と呪物だ」
「はぁ……」

 思わず生返事を返すと、彼女は頭が痛そうな顔で口を曲げる。

「ほら、お前の村の教会にも何かしらの聖遺物はあっただろ」
「ええと……」
「マジかよ」

 答えに窮していると、シェリーは額に手を当てて項垂れる。彼女は歩いてきた道を振り返り、未だ火の残る村の跡を眺めて言った。

「燃える髪、水銀、灰……。多分、テメェんトコの教会にあったのは誰かしらの遺灰だろ」
「遺灰?」
「流石にセラウや六使徒ってこたないだろうがな。銀の指輪のユーゲンロウ、その司神のツェーリアあたりか。そいつの眷属の遺灰が壺にでも入ってたはずだ」
「壺……。そういえば、祭壇にあったような」

 週末の礼拝で、祭壇の上に小さな陶製の壺があったのを思い出す。金色の天秤や蜜蝋の燭台などに囲まれていて、あまり目立つものではなかった。それが何なのか、結局トーマスから聞いたこともない。

「女神、眷属、司神、精霊、聖人。そういう奴らの死体やら衣やら、とにかく存在の証拠が聖遺物だ」
「そ、そうだったんだ。全然知らなかったです」
「まあ、実際のところはどっかで野垂れ死んだ野郎の灰だろうがな」
「ええっ!? さっきと言ってること違うじゃないですか」

 即座に言葉を翻され、目を丸くする。つまり、僕たちは誰のものかも分からない遺灰を大事に守り続けていたということなのだろうか。

「大事なのは真贋じゃない。それが本物だっていう信仰だ」
「はぁ……」

 そろそろシェリーの言っていることが分からなくなってきた。それでも頑張って理解しようと耳を傾ける。

「お前らがそれをツェーリアの遺灰だと信じてれば、それはツェーリアの遺灰なんだ。その信仰は時代を越えて、ツェーリアの力となる」
「ど、どうして?」
「ツェーリアは悪魔の炎に焼かれて死んだ。それでもなお遺灰が残っているということは、それだけツェーリアの神聖性ウィルトゥスが高いと逆算される。燃えカスでそれなら元の身体はどれほど巨大だったのか。——今ん所、教会が把握してるツェーリアの遺灰を全部集めたら、だいたい大樽700個ぶんになる」
「ななひゃく——!?」

 衝撃の数字に絶句すると、シェリーがニヤリと笑う。

「たとえば、武神として知られる金の剣のパバンの腕を縛ったという鉛の手錠。あれの破片もいろんな教会に置いてあるが、全部合わせると大人三人がすっぽり嵌まるほどのデケェ手錠が八つもできる」
「ということはつまり、パバンは大人三人分の太さの腕が、八本もあったってこと?」
「察しがいいな。神なんて大層なこと言ってるが、奴らも大概なバケモンだ」

 人々の信仰が、神々の力となる。神々の残滓を人々が信じれば、それは神々のものとなる。僕がトーマスから聞いたパバンの姿は、赤い荒馬に乗った筋骨隆々の武人というだけだ。そんな、腕がモジャモジャと生えている化け物なんかではない。

「パバンの聖遺物なら、武器はもっと多い。全部合わせりゃ数万っていう数になる」
「そんなにあると、調和大戦でも圧勝できそうだけど……」
「それがそうでもないってのが怖いところだな。パバンの聖遺物から逆算すれば、奴は無数の武具を扱うバケモンだ。しかし、パバンは調和大戦で死んだ。圧勝してたなら現代まで生き残ってるはずだろう?」
「それは……ええと……」
「奴はそれほどの力を得て尚、混沌の獣と相打ちになったという結末に変わりがないのさ」

 聖遺物に対する信仰が高まれば、調和大戦時の神々の力が増す。力が増せば、混沌の獣を討ち倒したうえで生き残り、今の時代に現れる。そうなっていないのであれば、それほどの力を持ってなお、神々は混沌の獣と相打ちとなり、死んだことを証明する。

「それなら、もっと信仰を広めて聖遺物を増やして、神様の力を強めればいいんじゃ?」
「バカ言うな。そんなことをしたら、勢い余った神々がこの時代を滅ぼして神々の時代がやってくる」

 調和大戦はどちらが勝てば良いというものではなかった。混沌の獣と神々が激しく戦い、そして共倒れとなったことで、僕たちの生きる人々の時代がやってきた。
 仮に神々が勝利し、生き残っていたら。世界は完全な秩序の下に再構成され、僕たち人間のような不完全な存在は生きていけない。混沌の獣が勝利しても、それはそれで僕たちの滅亡だ。

「それじゃあ、シェリーがトーマスを殺したのは——」

 トーマスは聖人、つまり聖遺物になっていた。そして彼は神聖を帯びて動いていた。厚い信仰の果て、神に近づいていた。

「奴はツァーリアの眷属の一つとして顕現しようとしていた。そうなれば、あたり一帯が焦土と化してただろうな」

 トーマスは神に近づき、神そのものになろうとしていた。神が現れてしまったら、それは聖戦の結果が変わったことを意味する。結果が変われば、過程が変わる。過去の結末が変わることで、人々の時代が崩壊してしまう。

「だからシェリーは彼を、聖遺物を殺したんだ」

 本来なら聖遺物を守るべき天秤教の聖職者にあるまじき蛮行だが、彼女は弁明もなく不敵に笑う。

「あたしは聖遺物を破壊する。神の力を削ぎ、神を殺すため。——聖遺物狩りレリックハンター、それがあたしの仕事さ」

 聖遺物狩りレリックハンター、シェリーは自らをそう称した。天秤教の信仰の要とも言える聖遺物を破壊する聖職者。本来ならば、異端と蔑まれてもおかしくはない。けれど、彼女はその仕事に誇りさえ感じているようだった。

「教会騎士が魔獣狩りをするのと変わらない。どっちもこの時代を守るために必要なことだ」
「そう、ですか」

 俄には信じられないし、納得もしづらい。けれど、彼女が嘘をついているようにも見えない。実際、彼女は聖遺物と化したトーマスを狩ったのだ。
 そう考えて、はたと気づく。彼女は元々トーマスを追ってやってきたわけではなかった。むしろ、彼女が狙っていたのは——。

「あの、シェリー。さっき僕のことも聖遺物って」
「狼神ウォーヴル。ユーゲンロウの司神で、豊穣と厄災の運び屋。テメェの体ん中には、ソイツの血が流れてる」

 恐る恐る訪ねると、彼女は淡々と答えた。

「ええっ!?」

 思わず手のひらを広げてみる。手首に透けて見える細い血管には、赤い血が流れている。そこに何かの力を感じることはない。ただの泥に汚れた手だ。

灰毛アッシュフェールはウォーヴルの血脈の中でもかなり濃い方だ。だから、迫害を受けた」
「えっ……?」

 脈絡のない言葉に、声が出る。シェリーはそんな僕を一瞥して詳しく説明してくれた。どうやら、口調が荒っぽいだけで実は優しいようだ。

「ウォーヴルの末裔は、聖遺物を引き寄せる。それ自体は悪い事じゃない。むしろ、最初は良い事だ。聖遺物の神聖性は病を癒し、富を齎す。——宝石よりも貴く、黄金よりも価値ある物。それが聖遺物だ」

 父さんからも母さんからも、村の誰からも聞いたことのない話だった。聖遺物という、当たり前の存在についても僕は何も知らないのだ。

「だが、聖遺物の神聖性ウィルトゥスが高まり過ぎるとダメだ」

 聖遺物はその力が高まるほど、神の存在証明としての力が強くなる。それが極まった結果が、あのトーマスだ。彼は信奉するツァーリアの眷属と化し、自らが神格存在となって顕現した。

「高貴すぎる宝石は人を惑わせ、高価すぎる黄金は人を狂わせる。だから、灰毛アッシュフェールは絶えず放浪を続ける必要がある」

 狼血という聖遺物に、他の聖遺物が引き寄せられる。集合した聖遺物は共鳴し、互いにその神聖性ウィルトゥスを増幅させていく。結果、現れるのは本物の神々だ。彼らは人々の時代を破壊し、完全なる秩序を齎す存在となる。
 シェリーは人々の時代を守るため、過ぎた信仰を抑えるため、力のある聖遺物を破壊して回っているらしい。

「だから僕は殺されるの?」
「殺さねぇって言っただろ」

 おどおどしながら聞くと、シェリーはうんざりした顔をこちらに向ける。トーマスを殺した後、彼女はその鎌を僕の首筋に当てた。けれど、あの時の鋭い眼はすでにない。

「狼血は聖遺物を引き寄せる磁石みたいなモンだ。向こうから来るなら、あたしも色々楽できるからな」
「ええ……」

 僕のことは道具扱いらしい。あまりにも歯に衣着せぬ物言いに唖然としていると、彼女はこちらを振り向いてニヤリと笑った。

「お前にとってもそう悪い話じゃないだろ。どうせ狼血は終わりのない旅を強制される。一人でほっつき歩いてっとすぐ死ぬだろ」
「そ、そんなことは——」

 ない、と言いたかったけれど、無理だった。僕は背が低いし、痩せている。旅に関する知識も何もない。しかも、聖遺物を引き寄せる体質なんて、今の今まで知らなかったのだ。

「お前は聖遺物を引き寄せる、あたしがそれを狩る。お互いに損はないだろ?」
「そうかなぁ」

 なんだか丸め込まれているような気がする。けれど、結局僕が一人で生きていけないことは確かだし、シェリーがトーマスから僕を守ってくれたのも事実だ。彼女が粗雑そうに見えて案外優しいところがあるのも、これまでの会話のなかで分かっていた。

「でも、聖遺物——神様ってそう簡単に殺せるものなの?」

 一つ疑問が残っていた。
 シェリーは自身を聖遺物狩りレリックハンターと言っていたけれど、神様はとても強い存在であるはずだ。そんな存在を、人の手で殺せるものなのだろうか。確かに、トーマスは灰となって崩れてしまったけれど。

「簡単には殺せねぇよ。相手は神だぞ」
「ええ……」

 あっさりと言い切るシェリー。僕は驚けばいいのか、納得すればいいのか、落胆すればいいのか、よく分からなくなってしまった。戸惑っている間に、彼女は背中の大鎌を構えて見せる。

「人間にとって、神はどう足掻いても太刀打ちできない絶対的な上位者だ。けどな、一つだけ神を傷つける方法がある」

 それがコレだ、と彼女は誇らしげに言った。
 どこまでも真っ黒な、大きな鎌だ。持ち手に布が巻いてあるだけで、他は全てが黒一色。金属製らしく、とても重たそうだ。僕など両手でも持ち上げることはできなさそうな代物を、シェリーは軽々と握っている。

「聖遺物と対を成す物、混沌の残滓。いわゆる呪物だ。コイツは混沌の獣の中でも一等凶暴な黒猪の牙からできてる」
「それは本物?」
「本物だよ。少なくとも、そう言うことになってる」

 要は呪物も聖遺物も、根本的にはそう変わらないのだろう。神々の物か、混沌の物か、その程度の違いでしかない。

「しかしまあ、呪物も厄介なところがあってな」

 それまでの軽快な物言いは鳴りを潜め、シェリーは少し声を落ち着かせる。その雰囲気から、僕は嫌な予感を覚えた。まさか、と口を開くよりも早く、シェリーは鋭い眼を周囲に向けた。

「——とっととここから離れたかったんだがな」

 シェリーが大鎌を握り直す。周りの草原から薄気味悪い気配を感じて、総毛立つ。夜闇の中から不浄なものが現れる。

「魔獣——!」
鬼豚オークか。早速嗅ぎつけて来やがったな」

 筋骨隆々の赤黒い肌を汚した、豚頭の人型だ。体長は優に僕やシェリーを超え、濁った黄色い瞳でこちらを見下ろしている。手には乾いた血の張り付いた粗野な棍棒を握り、臭気漂う毛皮の腰巻を着けている。
 およそ人ならざる魔獣が、三頭。獰猛な熱い息を吐きながら、ぼたぼたと粘ついた唾液を垂らしている。

「こ、これって——」
「呪物の匂いは魔獣を呼び寄せる。死にたくなけりゃ、しゃがんでろ」

 やっぱりそう言うことだった!
 シェリーの声に慌てて蹲る。次の瞬間、三頭の鬼豚が吠え、黒い大鎌が翻った。

「オラァ!」

 怒声が響き、血飛沫が上がる。シェリーの鋭利な鎌が、鬼豚の首をすんなりと断ち切ったのだ。あの大鎌は、どうやら神様だけじゃなく魔獣も関係なしに狩ってしまうらしい。
 一頭がやられ、残り二頭が怯える。

「シッ——」

 そして、シェリーはその隙を逃さない。
 風に赤い髪が広がり、直後に生暖かく臭い豚の血が僕の頭上に降り注ぐ。思わず悲鳴が喉を突いて出る。我ながら情けなくて泣きそうだった。

「ブビィ! ブボッ!」
「ひっ!?」

 けれど、溢れかけた涙はすぐに引っ込む。シェリーには到底太刀打ちできないと判断した三頭目が、僕に目を向けたのだ。わざわざ強敵に当たらずとも、柔らかそうな肉があるぞと言わんばかりに。長い牙の突き出した口がにんまりと弧を描く。
 僕は慌てて、その場から後ずさる。けれど、豚鬼の手から到底逃れられない。

「死ねゴラァ!」
「ブビョッ!?」

 しかし、直後、笑みを浮かべた豚鬼は飛来した鎌によって縦半分に両断される。目の前で左右に分かれ崩れ落ちる豚鬼に、思わず腰が抜けてしまう。そんな僕を冷たい目で見下ろしながら、シェリーは豚の血で汚れた大鎌を手で拭った。

「お前以外の狼血が死に、聖人も死んだ。この辺は天秤が混沌側に傾いてる。面倒なことにならねぇうちに離れるぞ」
「えっ。あ……」

 大鎌は魔獣を引き寄せるが、それは呼水に過ぎない。この土地で大量の神聖性が消失し、その均衡が崩れた。混沌の獣たちが、力をつけて現れる。

「お前、まさかまた立てねぇのか?」
「うん。ごめん……」

 腰の抜けた僕に気づいて、シェリーが呆れた目を向けてくる。恥ずかしくなって俯いていると、彼女の白い手が目の前に現れた。

「ほら。とっとと行くぞ」
「あ、ありがとわわっ!?」

 戸惑いながら、その手を掴む。勢いよく引き上げられ、勢い余って彼女の胸に飛び込んだ。顔面が温かいものに包まれる。血生臭くて、硬くて、柔らかくて――。

「いつまで抱きついてるんだエロガキ」
「えっ!? わっ、そ、そう言う訳じゃ!」

 ニヤついた目を向けられ、弾かれたようにシェリーから離れる。彼女はくつくつと笑いながら歩き出す。僕はしどろもどろな言い訳をしながら、彼女の背中を追いかけた。

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