2.船の中~海もまた現実~

はるかな はるかな 見知らぬ国へ ひとりでゆく時は 船の旅がいい 

 井上陽水の『つめたい部屋の世界地図』の冒頭である。彼は沢木耕太郎の『深夜特急』の巻末対談に出ていて興味を持った。この曲もその縁で知ったのだ。なかなか独特な世界観を持った曲で、「海の色は たとえようもなくて 悲しい」など、心に響いてくる歌詞がたまらない。高杉晋作の次に僕をこの旅へと誘ったのは、この曲かもしれない。少し前の僕は船に乗れるなんて思っていなかった。ひとつは船で海外に行けることを知らなかったという意味で、もう一つは自分が船で海外に行こうとはしないだろうという意味で。海外は飛行機で行くものだと勝手に思い込んでいた。もちろん、昔の人たちは船で「世界」を広げていったんだということは、歴史の授業で聴いていた。でも、それは昔のことだと考えていた。

 船の入口に立ったとき気がついたのだが、中国系の船会社なので、乗組員はほぼ中国人のようだった。乗客も日本人と中国人が半々位に見えた。船に乗るとすぐ、僕は部屋に案内された。定員は四人だが、同室の人は一人だった。僕はさっそく人見知りを発動して、挨拶する機会を逸してしまった。仕方がないからベッドの中で入国審査の書類を書き、途中で面倒になって、昼寝した。起きると同室のおじさんはいなくなっていて、僕はデッキで海を見ることにした。軽く螺旋状になっている階段を二フロア上がって、右に曲がった突き当たりのドアを開けて外に出る。扉の手前には喫煙所があった。海の上は風が強く、時折波しぶきが顔に当たる。白い手摺りに囲まれたデッキは思いのほか広く、幾つかのベンチが置いてあった。誰もいないデッキで、僕はベンチに座って海を眺めた。まだ乗ったばかりなので、船独特の揺れが気になる。これから半年間の海外旅行。どちらかというと不安の方が勝っていた。

この雄大な 海を見て不安げに 笑う僕

 夕飯の準備の出来たという船内放送が入り、僕は喫煙所に寄ってから、一つ降りた所にある食堂へ向かう。夕飯はピーマンとカシューナッツ、鶏肉の炒めものとご飯とスープだった。中国語は全く分からず、身振り手振りで注目して、日本円で払うと一人窓側の席に着く。テレビを見ながら飯を食った。飯の後は食堂の前のソファに座り、テレビを見た。確か、ボルタリングの世界大会をやっていたと思う。それから部屋に帰って、少し英語の勉強をした後、その日は寝てしまった。

 翌日も、ほとんど同じように過ごした。一つ違っていたのは、船内のバーに行ってみたことだ。せっかくあるのだから、一回そこで飲んでみようと夜になってからバーの中に入って行くと、中国人の男性の乗組員がカウンターのなかに座ってテレビを見ているだけで、他には誰もいなかった。昨日は開店の放送があったが、今夜はなかったので、もしかしたら開いていなかったのかもしれない。僕は飲みたかったので、何度か無視されながらもコンタクトを試みた。なんか迷惑そうに見てくる。それでも飲みたいということを伝えていると、ビールだけなら出すと言われた。男性が厨房に向かうと、少しして女性の乗組員の人が日本製瓶ビールとコップを持ってきてくれた。そして、女性はそのまま椅子に座った。勝手にやっててくれといった感じだ。僕はすごく申し訳ない気持ち、居づらさを抱きながら、手酌でビールを飲む。特に旨いとも感じられず、早くここから出たいと思いながら瓶を傾けた。船の中でもカウンターのビールは揺れたりこぼれたりしない。そんなことを体験を通して学び、少し酔った僕は喫煙所に向かった。

 三日目の朝、喫煙所で日本人の観光客らしい人に声をかけてもらってから、僕はやっと人と話せるようになった。まずは朝食のときに同年代のお兄さんに声をかけて、一緒に食事をしながら話をした。彼はプライベートでも、仕事でも幾度も海外へ行っていて、今回も五日間の休みを利用して四川省まで旅行に行くところだった。僕は中国について聞いて、中国ではなかなか英語が通じないという話を聞いた。また不安が一つ増えた訳だ。それから部屋に戻って同室のおじさんと初めて話した。おじさんは部屋ではノートパソコンに向かっていたり、仕事の電話で関西弁で怒ったように話していたので、話しかけずらかったのだが、話してみるととても良い人だった。おじさんは貿易の仕事で上海へ行くところで、荷物の多い行きは船を利用し、着いたその日にはもう飛行機で帰るらしい。それを月に何度もやっていると話してくれた。また、その前にも東ヨーロッパで貿易の仕事をしていたという話も聞いた。もっと早く話しかけていれば、色々聞けたかもしれないと、いま思うと少し後悔している。そろそろ上海へ着くという放送があったので、おじさんと一緒に入口の方へ行ってソファに座り到着を待った。入国審査の時に隣にいた四川省へ行くお兄さんの荷物を見ると、とても小さかった。足りない物は現地で買えばいいという旅慣れたお兄さんの言葉に感嘆し、僕はとうとう上海の地に立つ。

→次回は、3.上海~旅への戸惑い~ です。

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