最初の卒業生 その2

さて、バレー部キャプテンのHさんのお話です。

彼女は僕がバレー部になってから3年目に3年生、つまり僕がはじめて3年間バレー部として一緒に過ごした生徒です。2年生と3年生のときは担任でしたし、練習は1年間ほぼ毎日。気の毒なことに3年間ほぼ毎日顔を合わせました。

バレー部のこの学年は最初3人でしたが、1年生の夏休みに1人辞めてしまいましたのでたった2人。ただ2人は小学生の頃に一緒にバレーをしていたようで、息のあったコンビでした。

Hさんは、もともと別の高校を受験し、残念ながら不合格だったので、うちの高校に来ました。バレーは大好きで、ほっておいても努力しますが、勉強にはなかなか心が向かないようで、1年生の時から勉強もがんばりなさいと言い続けていました。案の定2年生から僕が担任になりましたので、勉強からも逃げられなくなります。普段の授業でのテストで落第点をとり、追試で練習を休むこともしばしばでした。先輩が6月に引退して、キャプテンになってもそんなことでは困ると、大量に課題を与えて、終わるまで練習に参加させませんでした。終わるまでまる2週間くらいかかったと思います。流石に反省したようで以後勉強も手を抜かず頑張るようになりました。最終的に成績は学年でも上位になりましたので、結果的には正解だったのだと思います。

彼女も同級生のYさんも、バレーに対しては全く手を抜きませんでしたので、1年生の時から試合には出ていました。トレーニングもアップも声出しも素直にがんばるので、先輩たちにとっても良い刺激になりましたし、生活態度も大変立派で、後輩の模範になる生徒でした。

ただ、一つ下の後輩は3人しかいませんでしたので、先輩が引退すると5人。1人の先輩が春高予選までバレーすると練習を続けてくれましたので、11月までは6人で練習できました。本当にこの先輩には感謝しています。夏には6人ではるばる京都の大学にも遠征に行きましたし、広島へ私学の大会に出場しに行きました。11月の春高予選ではすぐに負けてしまいますが、先輩のおかげでみな貴重な試合経験を積むことができたと思います。

さて、11月の大会が終わってから5人になってしまいました。ここから彼女たちにとってさらに辛い時期が始まったと思います。当然5人で試合に出ることはできませんので、1月の試合を棄権することになります。ただ、別のチームと合同チームを組んでもらうという選択肢もありました。どちらが良いか一人一人に聞きましたが、みな合同チームよりは5人で練習することを選びました。僕も同じ気持ちでしたので、もしかしたら気持ちを汲んで合わせてくれたのかもしれません。ですが、どこよりも真剣にバレーに向き合っているというプライドは、彼女たちも持っていたのではないかと思います。他のチームと一緒に、同じ気持ちで仲間として練習できると僕は思いませんでした。驕りかもしれませんが、選手たちにもそういうプライドがあったのは確かです。

結局大会には出ずに、同じ日程で5人で合宿を組んで練習をしました。新入生を迎えて勝つためには、他のチームが試合経験を積むよりも大きな収穫が必要だと思いました。朝昼晩練習を2泊3日。きっと悔しい思いで練習したと思います。

いつ頃からか体育館の壁に目標が毎日貼られるようになりました。「打倒〇〇」。〇〇に入るのは県大会で優勝を続ける高校の名前です。たった5人のチームが何を言うか、と笑われるかもしれませんが、彼女たちの姿を見ていると僕は全く笑えません。当然上手くいかないことは沢山ありますが、最高の努力を続けていました。

このころ、Hさんのお父さんから夜電話があったのを覚えています。僕は保護者の方の気持ちに目が向いていませんでした。詳しい内容はあまり覚えていませんが、こんなにがんばってるのに試合に出られないのが悔しくてしょうがない、そういう気持ちが痛いほど伝わってきました。

ただ、5人でもがんばっていることは色んなチームの監督さんから認めていただいていました。練習試合をしてくださるチームもたくさんあり、相手のチームから助っ人を借りたり、僕がコートに立ったりしながら試合経験を補うことができました。これは彼女たちのチームとしての魅力のおかげだと思います。

2年生の3月末には熊本に遠征にも行きました。4月から他校に入学を決めていたYさんの妹が手伝ってくれて、熊本に遠征にいき、たくさんのチームと練習試合をしました。前年にも合宿に誘っていただいた高校が、声をかけてくださいました。振り返れば本当にさまざまな人の助けで、彼女たちのバレーが支えられていたことがわかります。

この合宿では、キャプテンのHさんのお父さんもお手伝いに来てくれました。お父さんともたくさんお話をすることができ、保護者の方の気持ちに少し近づくことができ、本当にありがたかったのを覚えています。

この合宿で、僕はHさんにかなり厳しい言葉をかけました。4月に新入生を迎えて、2ヶ月でチームを作らなければなりません。僕自身焦りもあったのだと思います。チームに対して熱い言葉を投げかけ、後輩たちを引っ張ってほしい。そして結果を出してほしい、と自分にできることを必死で探させようとしました。合宿中彼女に対してはひたすらダメ出しをし続けましたが、ゲームの結果はほとんどのチームに勝つことができ、着実に成長を重ねていました。すでに立派なキャプテンになっていた証です。普段一緒に練習していない中学生を加えての結果ですので、むしろ褒めてあげるべきでしょう。

さて、4月になり待ち望んだ新入生は結局3人。1人はバレー経験なしでしたので、しばらく試合に出ることはできません。あとの2人のうち、1人はセッターで、もう1人は中学校ではリベロでしたが、この2人をセンターセッターとセンターに。それまでセッターをしていた新2年生をリベロにして、急ピッチでチームを作りました。新入生はブロックステップをひたすら練習して、ブロックとサーブに集中してもらい、サーブカット、スパイクは全て先輩たちが担当する。練習試合を繰り返しながらインターハイ予選に備えました。

予選の直前に近隣の8チームが集まる地区大会があります。結果は見事優勝。選手も保護者も僕も、1点1点全力で声を出し、全力で喜びました。冬の間の様々な思いを全てボールに込めるように、2.3年生はきちんとそれぞれの仕事をこなし、集中してサーブカットをし、全力でスパイクを打っていました。1年生もサーブでしっかりチームに貢献しました。

決勝の最後の1点ははっきり覚えています。こちらのサーブを相手が一本でこちらのコートに返してしまい、それをリベロが丁寧にセッターに返球、Hさんがレフト平行をブロックの上から相手コートに叩き込みました。完全に相手を精神力で上回った1点でした。

インターハイ予選は残念ながらベスト16。あと一つ勝てば実際に「打倒〇〇」の〇〇高校と対戦でしたが、そこにたどりつくことはできませんでした。負けは全て僕の責任です。僕にとって、そして彼女たちにとって3年目の夏が終わりました。3年生2人は涙を流さず、立派に最後の試合を終えました。Hさんは、自分は本当に〇〇高校と戦い、勝つつもりだったと、後輩に語りました。可能性で言えば奇跡のような目標です。ただ僕は、奇跡のような彼女たちの努力を目撃しました。おそらく日本一練習した5人のチームです。

Yさんは3年間ケガなし、病気なしでおそらく練習に皆勤だったと思います。他の人が課外の日には、自主練すると言って一人で何時間も練習していました。本当にバレーを愛しつづけた2人でした。

毎年最後の大会はやってきます。僕の力不足を謝り、彼女たちの努力を讃えます。ですが、どれほどの言葉も、その努力を賞するには不十分です。この時が一番自分の未熟さを痛感させられます。

さて、3年生は一旦勉強モードに切り替えて、進路について時間をとって考えてもらいます。Hさんは大学の教育学部を受験します。AO入試を選び、志望理由書を提出、面接、プレゼンテーション、講義のレポート提出が必要でした。

Hさんは自分できちんと大学の情報を集めて、担任だった僕と一緒に自己分析をしながら志望理由書を練り、プレゼンテーション、面接、レポートも何度も練習しました。はじめての受験指導でしたので、僕自身なかなか要領がつかめませんでしたが、自分が大学時代の教育学部の講義を思い出し、その教科書をレポートの練習に使いました。河合隼雄の『子どもの宇宙』、マックス・ヴァン・マーネンの『教育のトーン』などです。

彼女は小学校の教師を目指していましたので、子どもが考えていることを一生懸命想像する力、自分の言葉や行動が子どもにどんな影響を与えるか想像する力、を大切にしてほしい。そしてその力を入試で示してほしいと僕は伝えました。

相変わらず厳しい言葉もかけましたので、悩んだことと思います。入試の前日に、他の先生に面接をしてもらったら、たくさんダメ出しをされ、でも今さら変えられないと、涙を流しながら僕の所に来たのを昨日のことのように覚えています。僕自身全く根拠のない自信をもって、変える必要はない、2人で練習してきたものをそのまま自信を持って披露して来るよう話しました。

結果は合格。

この年最初の合格者で、僕にとっての教師人生最初の合格者でした。そのことを彼女自身誇りにしてくれているそうで、そのことを僕も誇りに思います。はやくも10月にはお姉ちゃんと同じ大学の同じ教育学部に進学が決まりました。

僕は彼女を「一番弟子」のように感じています。バレーについても、勉強についても、教師についても、人生についても、たくさんのことを語りました。彼女も思いをあまり隠さないですし、言葉にして僕に自分の気持ちをぶつけてくることも何度もありました。頑張っても頑張っても認められずに理不尽な思いをたくさんさせました。今思えば僕自身反省することばかりです。

それでも、彼女は卒業までに、また、卒業後も感謝の気持ちを色んな形で伝えてくれます。すでに、大学を卒業して現役の先生になりましたが、いつでも明るく素直な彼女は、たくさんの子どもに愛される先生になってくれると思います。

僕自身は教師をしながら自分の道を自分なりに歩いていただけです。たまに、物好きな子がこの道を一緒に歩こうとしてくれます。いくら険しい道でも、必死で一緒に歩いてくれる子がいます。僕にとって、その先頭が彼女です。弟子であり、仲間です。もちろん、先日公開した「たった一本のサービスエース」の先輩たちも1年とはいえ、一生懸命一緒に歩いてくれました。その先輩たちの後ろ姿がHさん、そしてYさんの力になったのも間違いありません。ですが、3年間という時間はやはり特別なものです。僕自身の病のせいもあり3年間を共有できたバレー部の生徒はたった5人しかいません。

Yさんは短大に進み、幼稚園の先生をしています。Yさんもとても素直で、責任感が強く、言われたことをとにかく必死でやろうとします。一生懸命な姿と心はきっと子どもにも元気を与えてくれると思います。2人が教育の道を選んでくれたことも僕にとっては嬉しいことです。

改めて2人には感謝を。あなたたちが努力する姿は、いつでも輝いていました。そして、僕自身その姿に励まされていました。あなたたちと過ごした時間はたくさんのかけがえのないものを僕に与えてくれました。

有難う。

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