見出し画像

20230524学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第9章-2

20230524
『インタナショナルの歴史』

[インタナショナルとコンミュン]

マルクスが書いた1870年9月9日の宣言では、フランスの労働者に対して警告もしていた。
「新しいブルジョア共和国を倒そうと試みるのは、向こう見ずの愚行である」と。
しかし暴動が起こった時、マルクスはあらゆる支援を行った。それはエンゲルスも同じだった。マルクスとエンゲルスの構想と指導のもとに、インタナショナルの各支部は、コンミュンにさまざまな援助をした。
パリではインタナショナルの会員が、コンミュンの各種委員会の中だけでなく、内乱の中でも大いに活躍した。コンミュンの建設的な立法や活動の多くが彼らの力によるものだった。また、パリにいたヨーロッパ諸国の亡命革命家も、コンミュンに協力した。

主な国のコンミュンに対する姿勢は次のようなものだった。
・イギリス
一般の労働者大衆はコンミュンを歓迎した。
しかし、総評議会の内部の日和見主義的な労働組合指導者たちは、コンミュンに背を向けていた。
・ドイツ
アイゼナッハ派もラッサール派も、資本家たちの強い反動的反対にも臆せずコンミュンを支持した。
・アメリカ
ブルジョア新聞が事実を歪めた報道をしていた。
著名なアメリカ人にはコンミュンを正しいと支持した人が多かった。
・フランス
フランス駐在アメリカ大使ウォシュバーンがコンミュンを破壊しようとしていたが、労働者大衆はコンミュンを支持した。

[コンミュンの仕事]

コンミュンは、わずか72日間だけ存在しただけだった。しかしこの間に、彼らは死に物狂いでたたかい、多くの建設的な事業を成し遂げた。
重要な政治上の決定としては数多くある。
・教会の国家の分離
・教会への補助金支給の廃止
・常備軍を廃止して民兵で代置
・警察からの政治的性格の剥奪し、あらゆる公務員に選挙民に対する厳格な責任を負わせる
・公務員の給料を、最高年額6000フランに抑える
・裁判官や治安判事をすべて選挙で選び、コンミュンが監督する
・無償の普通教育制度
・ギロチンを焼き払う
・ヴァンドーム広場の戦勝記念柱を軍国主義の象徴として打ち壊す
・製パン工場での夜業や、工場内で雇用主が労働者に罰金をかけることを廃止
・質屋の廃止
・閉鎖した工場を接収して、膨大な数の失業者の救済機関として協同組合で運営する
・労働統計局の設置
・住宅の割り当て
・借入者の援助

逆に、コンミュンは、誤りや欠点、弱点も多くあった。
・さまざまな党派の間で内部的な意見が食い違っていた
・パリ以外のフランスから孤立していた
・はっきりとした綱領や、かたく団結した政党がなかった
・出発点で、ヴェルサイユ反動政府に対する戦いを強く推し進められなかった
・パリ中にはびこるブルジョアのスパイや裏切り者の逮捕を妨げた内部の敵に対して、あまりに寛容だった
・将校団の中の重大な裏切りと破壊活動を放っておいた
・パリ以外のフランス各地にコンミュンの大業を広められなかった
・農民を味方につけることを怠った
・コンミュンの手に入った1789年のフランス大革命以降の秘密公文書を公表しなかったこと(秘密警察、外交官、資本家と政治家たちの腐敗の記録でいっぱいだった記録を公表していれば、反動に対する強大な打撃となったはずであり、また極めて貴重な文書となったことだろう)
・コンミュンの手に入った1789年のフランス大革命以降の秘密公文書を公表しなかった(これらの文書は、秘密警察、外交官、資本家と政治家たちの腐敗の記録でいっぱいだったので、これらを公表していたら反動に対する大きな打撃となったであろう。極めて貴重な文書であった)
・フランス銀行保有の30億フランの資金を没収しなかった(コンミュン指導部の手に入ったのは1,670万フランであり、そのうちの729万フランはよそへの貸付金だった。パリのものになったのは、わずか940万フランだけだった)

[コンミュンくつがえされる]

4月のはじめまでは激しい内乱がつづき、コンミュン戦士は勇敢にたたかった。しかし、ティエール軍はフランスの大部分に反コンミュン陣営を広げていた。ビスマルクも、フランスの小農民の捕虜10万人を釈放し、ヴェルサイユ政府に力を貸した。
5月21日、ヴェルサイユ軍がパリに入ると血の闘争となった。いたるところで市街戦となり、政府軍は圧倒的優位をみせていた。5月28日、ついにコンミュンは押しつぶされた。
ド・ガリフェ将軍とその部下たちは、約3万人の労働者階級の男、女、子供を、冷然と射殺した。4万5千人いじょうの者が捕らえられた。そのうち約1万5千人は死刑か投獄。ニューカレドニアに流された者は数百名であった。この大量虐殺は、1848年のパリ6月反乱の敗北の時よりもひどかった。何万人ものコンミュン戦士が祖国を追われ、ヨーロッパ各地やアメリカに亡命した。アメリカは一番多かった。
これらの亡命者を助けることが、インタナショナルの大きな仕事であった。
1871年6月、コンミュン戦士亡命者のひとり、ウジューヌ・ポティエが「インターナショナル」の歌詞をつくった。
この戦いで栄光に包まれたのは、婦人コンミュン戦士の行動であった。ルイーズ・ミシェル、エリザベート・ドミトリエフ。このふたりは特に有名だった。ミシェルは「私のすべては革命のものです。私は私のやったことすべてにたいし、責任をとりましょう」と法廷で宣言し、流刑地で10年を過ごした。

[コンミュンの歴史的役割]

コンミュンの決定的な教訓のひとつは、強力な政治組織を持っていなかったら一歩も進むことはできない、ということだった。
このことは、政党は必要ではなく大衆の自然発生的運動で十分だというバクーニンの主張を完全にくつがえした。

もうひとつの根本的なコンミュンの教訓は、コンミュンこそ資本主義に代わる新しい社会の基本の形だということである。マルクスは、パリ・コンミュンの教訓についてこのように言った。「万国の労働者が社会主義への長く険しい道を進むには、極力出洞察力と規律をもつ共産党の指導が絶対になければならない」。コンミュンの組織形態と、その後のロシアのソヴィエトの組織形態は深くつながっている。これは誰が見ても明らかなことである。それなのに、マルクス主義者でさえ、この本当の意義を忘れてしまった。後に、マルクス主義者にこの意味をもう一度教えたのが、レーニンであった。

労働者は、資本家を打倒して政治権力を握ったら、武力によって、資本主義の反革命勢力をおさえるために、さらに新しい社会の土台を建設するためにも、自分たち自身の国家を作り上げなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?