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20231112学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第22章-1 反戦は平和のためではない、革命のためだ

20231112

『三つのインタナショナルの歴史』


第22章 植民地主義と戦争──シュトゥットガルト大会(1907年)


1907年8月、ドイツのシュトゥットガルトで第2インタナショナルの第7回大会が開かれた。出席した代議員はおよそ千人。第1インタナショナルの大会に比べて、インタナショナルは目覚ましく拡大した。大会は、約5万人の労働者のデモンストレーションで幕が開き、全労働者がこの重要な国際大会に関心を示した。


[植民地問題]


植民地問題は大会での基本的な問題の一つであった。主だった強国は30年もの間広大な領域を植民地として勝手気ままに支配し、住民に対して残虐極まる抑圧と搾取を行なった。その諸強国が、今や植民地をめぐって争いを始めている。こうした争いは右翼社会民主主義、マルクス主義、帝国主義などの間で政治問題となっていた。


右翼社会民主主義者は、あらゆる国で帝国主義ブルジョアジーの植民地政策を支持していた。労働組合の官僚主義者も同様である。彼らは植民地人民から搾取した超過利潤のうち多少なりとも熟練労働者貴族に分配してもいいと思っていた。資本家たちが組織労働者の黙認を得るためであった。小ブルジョアジーも同じ考えであった。


マルクス主義者はこうした労働組合官僚主義者たちのやり方に抗議したが、イギリスの労働運動は、イギリスが19世紀後半に巨大な帝国領土を奪い取るのを、妨げることはできなかった。労働組合の最高幹部のほとんどが、強国が後進諸国を侵略することになんの反対もしなかった。多くのフェビアン主義者、特にバーナード・ショーには、小国や後進国の国民を文明進歩の邪魔だと言ってひどく嫌がり、イギリス帝国を、潜在的に文明を進める力とみなす傾向があった。ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等の帝国主義諸国の修正主義的社会民主主義者は、ショーと似たような考えを持っていた。


アメリカの労働者の間でも、帝国主義的な傾向はひどかった。ゴンパース一派は、1898年の米西戦争でアメリカがキューバ、プェルト・リコ、フィリピンを強奪した時はこれに反対し抗議もしたが、その声はすぐに消えてしまった。人を人とも思わぬ独占資本家がどんな帝国主義的冒険に乗り出しても、何も言わなくなった。

キプニスは、当時のアメリカ社会主義者の態度について次のように要約した。「両党(社会党と社会主義労働党)の社会民主主義者たちにとって、帝国主義は全然なんの問題でもなかった。彼らの考えでは、帝国主義は大資本家と小資本家との争いで、労働者階級にはなんのかかわりもない。……労働者が自分で生産したものの半分しか買いとれず、資本家のほうでも残りの半分を全部消費することはできない以上、大トラストは海外に市場をもとめるほかない、というのであった」。アメリカは東洋の市場の5%しか持っていなかったが、50%が必要であった。足りない45%を獲得することは白人にとって重荷である。これは、アメリカの社会主義運動が黒人迫害を無視している特徴ともいえる。


なぜ、この大会で植民地問題の討議が行われたのか。それは、1904年のドイツ軍による西南アフリカのヘレロ族虐殺にドイツ国会の党議員団が抗議し、軍事公債の投票に棄権したこと。さらに1904年の全国選挙で小ブルジョアが離反し38の議席を失ったこと。そうしたことからドイツ社会民主党の右翼の幹部は、今こそ「社会主義的」植民地政策を打ち立て、今後植民地問題で帝国主義者と不幸な衝突を繰り返さないようにすべきだ、ということが目的であった。


オランダの名うての改良主義者ヴァン・コールの指導により、一つの決議案が採択された。

「大会は、植民地が一般に──またとりたてていえば労働者階級にとって──有用であるとか必要であるとかいわれるばあいに、大きな誇張があると宣言する。しかし大会は、植民地政策を原則的に、またいついかなるときにも排撃するというのではない。なぜなら、社会主義体制のもとでも、それは文明の利益に役だちうるからである」

これは帝国主義を公式に認めることであった。左翼と中央派はこの内容を拒否し、一部を修正するよう求めた。大会は127票対108票で、決議案を修正して採択された。内容としては、資本主義的植民地政策を非難するものであったが、遅れた地域の人民が産業や政治を自主的に発展させてゆくための明確な見通しは含んでいなかった。


[軍国主義反対と戦争反対]


シュトゥットガルト大会の最大の問題は、戦争の危機に対してであった。このころ、いくつかの強国は軍備を増強し出し、相互の衝突などもあり、こうしたヨーロッパ大戦の前触れに労働者は深い関心を寄せていた。1899年には、国際連盟の先駆けであるハーグ平和裁判所が設立されたが、帝国主義諸政府間の食い違いの調停は無理であった。


戦争に反対する決議案は4つ提出された。そのうちの3つはフランスの代議員団から出されたものであった。ベーベルとグスタフ・エルヴェが提出した案が最も重要なものだった。

ベーベルの決議案は、第2インタナショナルがこれまでこの問題でとってきた伝統的な方針に従っていたが、曖昧な言葉で書かれていたために極右翼までもが一緒になって熱心に支持した。ベーベルは、どちらが先に発砲したかでどの国が侵略者であるか決めることができるという、誤った考え方をしていた。

エルヴェの決議案は、サンディカリズムにも片足を突っ込んだ内容で、次のようなものであった。「外交上のいろんな兆候が、あらゆる側からヨーロッパの平和をおびやかしてかることに鑑み、大会は、全同志に対し、宣戦が布告された場合には、それを布告したものが、どの側であろうとに関わりなく、戦闘的なストライキと反乱とをもってこれにこたえるようによびかける」。エルヴェは、正義の戦争と不正義の戦争に区別をつけず、全ての戦争を一様に非難した。

また、ジョレス=ヴァイヤン派の立場は、ブルジョア祖国の「愛国主義的」防衛という要素を含んでいた。これは、オーストリアやその他の諸国の悪名高い修正主義者たちも同様であった。

レーニンは、マルクスと同様に、戦争と戦うのにゼネラル・ストライキだけでは十分だとは信じていなかった。迫りくる帝国主義戦争に反撃できるのは、プロレタリア革命だけである。レーニンとローザ・ルクセンブルグはこういった趣旨でベーベルの修正案をつくった。マルトフもこの提案に署名した。ローザ・ルクセンブルグがロシア及びポーランド代議員団の名前で小委員会に提出。この修正案は、日露戦争にあたってボリシェヴィキが採った政策を表しており、帝国主義戦争に反対する将来の革命的闘争の方針を定めたものであった。


決議案は、長い時間の討論の後、「声」による方法で採択された。右翼日和見主義者は、自分たちの提案と共通するものは何一つないのに、レーニンの革命的な提案に賛成した。


ローザ・ルクセンブルグが、修正案について説明した。

「戦争の際には、単に戦争終結に向かってだけでなく、階級支配そのものの打倒を促進するために進んで戦争を利用する方向で、扇動が行われなければならない」という主張である。

さらに、「ロシア革命は単に戦争の結果として起こったのではない。それは戦争を終わらせるためにも尽くしたのだ」とも言った。

エルヴェは、全ての戦争に対する反対をしていたが、レーニンはその理解を批判していた。帝国主義的戦争と革命的戦争は区別しなければならない。

「この闘争は、……ただ単に戦争の代わりに平和を置き換えることにあるのでなく、資本主義の代わりに社会主義を置き換えることになければならない。戦争の勃発を防ぐ問題ではなくて、戦争から生ずる危険を、ブルジョアジーの打倒を促進するために利用する問題である」


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