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20230627学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第14章-2 続く国際主義的傾向とマルクスの死

20230627
『三つのインタナショナルの歴史』

[ゴータの妥協]

第1インタナショナルが解散する前年のゴータの大会の話。

(第12章より)《1875年にはインタナショナルの勢いは盛り返し、会員数も支部も増えた。にもかかわらず、インタナショナルの全般的な下り坂傾向は、食い止めることができなかった。1876年2月には、総評議会は解散を密かに決意していた。この時にはもう、インタナショナルは国際的な組織とはいえなくなっていた。インタナショナルから社会主義に移ろうという者が多くなっていたのだ。マルクス主義者は、イリノイ労働党や北アメリカ社会民主労働者党などで政治的指導権を再建しつつあった。そして1875年5月、ドイツのゴータ大会でマルクス派とラッサール派が合同すると、この流れは一層強くなった。》

このゴータ大会でのマルクス派とラッサール派の合同を「ゴータの妥協」と言った。ゴータの妥協は、ドイツ社会民主党の傾向を早くも表した一例であった。マルクスは、『ゴータの綱領批判』の中で、ゴータの協定は「党の統一」という名のもとに原則問題をぼやかすものとして批判している。「賃金鉄則」の思想への屈伏、協同組合に対する国家の援助という無益な万能策の採用、8時間労働日を目指す明確な要求を打ち出していないこと、国際主義の軽視など、ラッサール派の経済論や国家論は間違っていると激しく非難した。

このころ、ドイツ社会民主党の日和見主義傾向を示すもう一つの出来事があった。
ベルリン大学の教授、オイゲン・デューリングは社会民主党に入党すると、党の綱領をブルジョア的な方向のものに書き直し始めていた。これに対しエンゲルスは、『オイゲン・デューリング氏の科学の変革(反デューリング論)』でデューリングを批判した。

マルクスの『ゴータ綱領批判』はリープクネヒトに握りつぶされ、エンゲルスのデューリング批判は党の中央機関紙『フォルヴェルツ』に掲載されると幹部から激しい批判の嵐が起こり、エンゲルスは処分されるところだった。

[国際主義的傾向つづく]

第1インタナショナルの解散後は、労働者政党や労働組合の間では国際的な協力や組織化を求める声が強まっていた。

1877年9月、ベルギーのガンで世界社会主義者大会が開かれた。出席したのは、リープクネヒトやクロポトキンなど42人の代議員。ニューヨークの理想社会オニーダ共同体の代表として、ド・ペープも参加していた。国家や政治活動など様々な問題をめぐり、マルクス主義者とバクーニン主義者との間で論争が起こり、広範な国際労働組合会議を創立しようという提案も出たが、これは実現しなかった。そのためマルクス主義の代議員が独自に会議を開き、ベルギーに国際事務局をつくろうとした。しかし、この計画も実現しなかった。
1881年10月には、チューリヒの近くのコアールという小さな町で、社会主義大会が開かれた。リープクネヒトが出席し、アメリカを代表する社会主義労働党代議員は、大工・指物師連合組合の会長P・J・マックガイヤーだった。ここでは、新しいインタナショナル結成の問題が中心となったが、結論は出なかった。結局、社会主義勢力の連合はまだ実際的ではない、ということであった。

1883年から1886年にかけてパリで国際労働者大会が開かれ、1888年にはロンドンでも開かれた。こうして続けて大会が行われたということは、西ヨーロッパのいたるところで社会主義政党と労働組合が急速に発展していることを示していた。そして、アメリカの労働運動も、世界の戦闘的な労働者の先頭に立つようになっていた。こうした国際的な連帯を求める労働者の運動は、1889年のパリでの大会で実を結ぶことになる。
しかし、その時を見ることなく、1883年3月14日、カール・マルクスはこの世を去った。享年65歳であった。1881年12月に妻のイェニー、そして1883年1月には娘のジェニーを亡くしていたマルクスの葬儀は、ごく親しい友人数人で行われた。世界のプロレタリアートは、偉大な指導者を失った。

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