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20230930学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第20章-2 マルクス主義にもいろんなグループができてきた

20230930
『三つのインタナショナルの歴史』

[ロシアにおける党の初期の発展]

ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハノフ(1865-1918)は、ロシアにおけるマルクス主義の父と呼ばれる。1883年にプレハノフは、マルトフ、パウル・アクセリロード、ヴェラ・ザスーリッチ、レオ・ドイッチュなどとともに、「労働解放団」を結成した。これが、ロシアで最初に生まれた組織的なマルクス主義勢力であった。
プレハノフは、以前はナロードニキ(資本主義を経ずに、社会主義運動を農村共同体に広めることで革命を起こそうという、都市の小ブルジョアや知識人(インテリゲンツィア)のこと)、すなわち人民主義者であったがマルクス主義者となった。ところが次第にマルクス主義からは離れ、中央主義から修正主義に向かってしまった。

1893年、レーニンはペテルブルグに到着した。そこで労働者階級解放闘争同盟をつくった。レーニンのグループは、ストライキ運動やロシア・マルクス主義者の方針を明確にするために積極的に活動した。
ツァーリ制ロシアの党が最初に克服しなければならなかったのは、ナロードニキ主義であった。ナロードニキは、社会主義的な見通しを立ててはいたものの、革命の主力を労働者階級ではなく農民に置き、農民の一揆だけでツァーリと地主の権力を倒すことができると主張していた。これは間違った考え方である。プレハノフもレーニンも、ナロードニキの主張に反対した。ロシアでは急速な資本主義的発展が起こっているし、プロレタリアートこそ指導的な革命的階級であると反論した。革命には、労働者階級を基礎とする組織的な政治活動がなければならない。ナロードニキのような個人的なテロリズム、いわゆる農民一揆などもってのほかなのだ。

レーニンが逮捕された後、1899年に、また新たなグループが現れた。それは「経済主義者」たちだった。彼らは、ただ経営主に対する経済闘争にだけ労働者を使うべきであり、政治闘争は自由主義ブルジョアジーがやるべきことである、と主張した。このグループは、ロシアにおけるマルクス主義諸団体の中に現れた最初の協調主義的・日和見主義的グループであった。レーニンはこの日和見主義的グループを、ベルンシュタイン修正主義者と同じものと見ていた。1900年にシベリアから戻ると、『なにをなすべきか』のなかでこのグループを攻撃し、致命的なダメージを与えた。

新しいグループはもう一つ現れた。それは、ピョートル・ストルーヴェらの指導する「合法的マルクス主義者」である。このグループは、マルクスの学説で最も主要なもの、すなわちプロレタリア革命の学説、プロレタリアート独裁の学説を捨ててしまったのだ。そのて、労働有働をブルジョア社会の利益に、ブルジョアジーの利益に従属させようとしたのだ。レーニンはこのグループ主張を容赦なくズタズタに崩壊させた。しかし、この中で生き残った者がいた。彼らは1917年の革命における主要な資本家政党である十月党と立憲民主党に公然と乗り換えたのである。

こうした深刻なイデオロギー闘争を通じて、レーニンはプレハノフを乗り越え、ロシア・マルクス主義の主要な代表者として急速に台頭してきた。この時期にレーニンは、『ロシアにおける資本主義の発展』『「人民の友」とはなにか、そして、彼らは、どのように社会見主主義とたたかっているか』『なにをなすべきか』『ロシア社会民主主義者の任務』という、ロシアにおける共済主義の基礎を定める書物やパンフレットを書いた。

1898年3月、この頃はレーニンがシベリアに流刑となっていた時だったが、9人のマルクス主義者がミンスクに集まり、非合法の大会を開いた。彼らは、全国的な規模の党の確立を計画しており、ロシア社会民主労働党を結成した。しかし、ツァーリ制テロに直面し、この党の結成水の泡となってしまった。大会の直後、中央委員会の全員が逮捕されたのだ。党には具体的な綱領や規約もなく、加盟者もごくわずかで、まったくまとまることができなかった。この党のしっかりとした確率は、5年を待たなければならない。

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