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20230611学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第12章-1 アメリカでの第1インタナショナル

20030611
『三つのインタナショナルの歴史』

【第12章 アメリカでの第1インタナショナル(1842-1876年)】

1872年10月、国際労働者協会総評議会本部は、ロンドンからニューヨークに移転した。F・A・ゾルゲが書記長、フリードリヒ・ボルテが北アメリカ支部連絡評議会中央委員会(1870年設立)の書記となった。公式機関紙は『アルバイター・ツァイトゥング』(『労働者新聞』)で、第1号は1873年2月8日に発行された。
F・A・ゾルゲ(1827-1906年)は、ドイツ・ザクセンの生まれで、音楽の教師だった。1848年のドイツ革命に参加。マルクスの協力者で、頭がよく、疲れを知らぬ投資家でもあった。

[アメリカの情勢]

1872年後半のアメリカは、南北戦争終結から産業が盛んになっていた。この戦争で勝利を収めた北部の実業家たちは政府を牛耳るようになっていた。労働者たちは資本家からこれまでにないほどに搾取され、資本家に対して闘争心を燃やすようになっていた。
1873年、大恐慌が起こる。このとき、全国労働同盟の勢力も、インタナショナルの勢力の衰えに伴って小さくなってきていた。労働騎士団は1869年から存在していたが、当時はまだ規模が小さく力も弱かった。アメリカ労働総同盟(AFL)ができたのは1881年で、まだ9年も先のことである。しかし、各地域でも全国的なものでも労働組合の組織はしだいに進み、労働運動の波も高まってきた1877年、大鉄道ストが起こる。

第1インタナショナルは、1872年までに、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、ニューアーク、スプリングフィールド、ニューオーリンズ、ワシントンに地域別組織ができた。支部は約30、会員数は約5千名となっていた。第1インタナショナルのアメリカの役割は非常に大きいものだった。アメリカの国内の問題が、インタナショナルの方針を決めたこともあった。その一つの例が、南北戦争のときに総評議会がリンカーン大統領およびジョンスン大統領と手紙のやり取りをしたことだった。これにより、ヨーロッパ諸国が南部連合に味方するのを防ぐために、マルクス主義者の指導の下にヨーロッパの労働者たちが戦ったのだ。

[アメリカの階級闘争と国際労働者協会]

インタナショナルのニューヨーク移転により、支部と会員の数は増え、アメリカの労働運動に刺激を与えることになった。それ以前に、1871年10月にはニューヨークでの8時間労働要求の大きなデモを指導していたこともあり、アメリカのマルクス主義者はインタナショナルの方針を忠実に守るものが多かった。彼らは、労働者の日常闘争、組合の設立、ストライキの遂行などに積極的に参加した。こうした活動も、インタナショナルがニューヨークに移ってきて、より一層盛んになった。なお、1871年の8時間労働要求のデモで意義深いと思われたのは、黒人の組織が初めて参加したことであった。

1874年1月13日には、ニューヨークのトムキンス広場で失業者の大規模なデモがあった。この時もマルクス主義者は積極的に指導した。デモの参加者数はアメリカ史上最も多かった。警察は、この集会を暴力で解散させ、多数の労働者を負傷させた。しかし同じようなデモは、シカゴやそのほかの大都市でも行われた。

ニューヨークに移った後、多くの優れた労働者がインタナショナルに加入したり支持者になったりした。その中に、アドルフ・ストラッサーとP・J・マクガイアがおり、二人はのちのAFL建設者となっている。AFLの会長となったサミュエル・ゴンパースも、会員にはならなかったがインタナショナルと緊密な関係を持っていた。ゴンパースは自伝に「ニューヨーク市はアメリカ労働運動の発生の地だった」と書いている。

[セクトとの闘争]

ニューヨークに移った後もインタナショナルは内部のさまざまな動きと戦わなければならなかった。偏向や妨害には、アメリカ独自の特色があった。ドイツ出身の労働者の中にできたセクトは特にその傾向が強かった。彼らは英語を学ぼうともせず、アメリカの市民権を得ようともせず、アメリカ人労働者の団体や闘争に参加したり、指導したりしようともしなかった。この傾向はその後5、60年間、その後の共産党の初期の時代まで続いた。
このようなセクト主義は、たくさんの弊害を生み出した。その大きなものに、黒人問題への軽視がある。アメリカのマルクス主義者はたいてい北部の大都市に住んでいたが、黒人労働者の味方であった。黒人の勤労の権利と組合加入の権利を守るということで知られていた。しかし、インタナショナルは、南北戦争後の南部で好戦的に反革命と戦っていた黒人人民と、白人の同盟者の南部再建期の激しい闘争に対して、まったくと言っていいほど注意を払わなかった。
また、インタナショナルは、当時強い力を持っていた婦人参政権運動に対してもセクト的な態度をとった。これは、その後インタナショナルの「欠陥」となる。アメリカのマルクス主義者は婦人の権利のために戦ってはいたが、それに特に重きを置くことはなかった。当時はアメリカ労働者党のことで頭がいっぱいであり、婦人運動からは離れてしまった。さらに、農民運動からも離れていた。

アメリカのインタナショナルは、ブルジョア自由主義者とも戦わなければならなかった。自由主義者は協会の組織を乗っ取り、綱領を書き直そうとしていた。その指導者は、ヴィクトリア・ウッドハルとテネシー・クラフリンという姉妹だった。彼女たちは、婦人参政権、性の自由、精神主義、万国共通語という綱領を掲げる「新民主主義」という組織を持っていた。さらに、「自発的社会主義」を一般国民投票で作ろうとしていた。ところが1870年、彼女らはこれらの組織を解散して、インタナショナルに加盟したのだ。ウッドハルはニューヨークに第9支部と第12支部を作り、アメリカ生まれの人々を会員とし、彼女が指導者となった。さらにこの姉妹は二人で「ウッドハル・アンド・クラフリンズ・ウィークリー」という新聞を発行した。

ウッドハルは、当時の戦闘的婦権運動で確かに傑出した人物だった。しかし、労働者のインタナショナルにおいてその力を発揮することはできなかった。エリザベス・キャンティ・スタントンは、ウッドハルの演説や著作を褒めたたえ、彼女を「我が国婦人選挙権運動の指導者」と呼んだ。ウッドハルは1872年の大統領選挙に、男女同権党公認で立候補した。また、国際婦人選挙権協会を乗っ取ろうとした。そのいずれも失敗している。

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