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価値観の異なるヒトどうし

「一緒にいて楽しい人といるのが一番いいってようやく気付いた。そうやって生きて、選抜メンバーみたいに厳選された、残った人たちといればいいんだよ」
久しぶりに会った友人は元気そうだった。

短大進学と共に上京し、来月から東京で就職する友人は子熊猫よりも数多くの種類の波を乗り越えたり乗りこなしたりしてきたに違いなかった。特にインターンの時期は、彼女の想像を絶する過酷さだったようだ。子熊猫は彼女の愚痴が始まったときから、「はあはあ、ヒトは大変ですねェ」などと思いながら聞き流していた。だが相手は真剣に話している。ならば聴こうか…そして上記のような発言をキャッチした。
聴かなければよかったと思った。

「一人で考えたって答えなんて出ないさ。『価値観が違うから』って、他人との議論を打ち切っちまうやつがいるけど、それって、自分と同じ考え以外は聞きたくないってことだよな。でもそれじゃだめだ。価値感は別の価値観と比べて初めて、価値観たりうるんだ。だからいろんな人と出会って、いろんな意見を聞かなきゃな」
これは子熊猫が尊敬している本にでてくる一説だ。
自分を自分たらせるものは相手だ。哲学者の鷲田清一も「服」を語るときに似たようなことを言っていた気がする。ヒトはなぜ服を着るのか、それは自分のヒフという輪郭を服の摩擦によって再確認し自己を存在していることをも再確認するためであるのかもしれないと。服だけでなく、価値観さえも他人のそれと触れ合わせ確立していくことが重要なのかもしれない。

自分が好きなヒトで周りを固め、好きな服で体形や輪郭をごまかし、「わたし」をつくる。そうやって社会に立ち向かうあなたがすこし嫌いになったよ。
幼い。あまりにも。

子熊猫も似たようなことしてたかもしれないな、いまも気づかないうちにしているかもしれない。そのような意味では、真の友人と呼べるヒトはいないのかもしれない。
人生短いし、嫌いなヒトに割く時間なんてない。好きなヒトへ今まで以上のスキを伝えるために使いたい。苦手なヒトのことを考えるよりも、今日の夕飯とか、明日の天気とか考えるほうが細胞にもいいのかもしれない。

いやしかし、「あのヒト嫌いだからもう関わらない」ってのは違うんでねえか?「好きなヒトとだけ一緒にいればいい」という結論も、価値観が違うヒトとぶつかり合ったからこそ生まれた結論なのではないか?
価値観の触れ合いは体力や気力を大きく消耗させるのは容易に想像がつく。しかし相手の伝え方や接し方によりその程度は変わると考えられる。問題は伝え方と受け止めかたにある気がする。

今日はここまで
2023/03/31

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