#5 日なたの窓に憧れて

今回は1992年11月26日に発売されたスピッツの5thシングル『日なたの窓に憧れて』を見ていきたいと思います。


この曲はスピッツにしては珍しく6分超えの長めの曲です。
歌詞がしっかりあるのもそうなんですが、イントロとアウトロがけっこう長めなんですよね。

あとは、シーケンスと言うらしいですが、全体的に「ピッポッパッポピッピポッパッポ…」という耳に残る音が入っているのも特徴的です。
これがあることで少しだけ明るい雰囲気を残した曲調になっているのを感じ取れると思います。



さてさて。

この曲の歌詞を読んでいくと、だいたい「日なた」とは“僕”が想いを寄せる子のことで、歌詞には出てきませんが“僕”が対照的に「日陰」のような存在だと、こういう関係図が描けるかと思います。

君が世界だと気づいた日から 胸の大地は回り始めた

という出だしのフレーズが、スケールが大きすぎてよくわからないですが、「恋の始まり」をかっこよく表しているな、というのが、僕がこの曲を最初に聴いたときの感想です。


あとはサビのところの、

それだけでいい 何もいらない
瞳の奥へ僕を沈めてくれ

ここなんかは、太陽が日陰を消してしまうように、“僕”が想いを寄せている“君”に吸い込まれて一緒になりたい、というような願望の表れととることができそうですね。



この曲でカギを握ってきそうなのが「回る」という動作です。

先ほどの出だしの歌詞に加えてもう1か所、大サビ前で何度も“メリーゴーランド”と歌われているところがあります。

“メリーゴーランド”という名詞だけ聞いたらなんだか楽しそうな印象を受けますが、1番、2番と聴いてきてここで出会う“メリーゴーランド”にはどこか切ないような印象を受けると思います。


メリーゴーランドって、たとえ恋人と乗るときでも、1つの馬に2人で乗るようなことはないですよね。

でもって本当の馬でもないわけですから、いつまで経っても前の馬に追いつくこともありません。


ここでの“メリーゴーランド”は、夢のような楽しい妄想に対して「いつまでたっても君には届かない」という悲しい現実を突きつけるような、少し残酷なものとして使われているのではないか、と僕は思っています。

“僕”もそれをわかったうえで、それでも“君に触れたい”という叶わぬ願望を口にし続けているという、なんとも切ない歌…かな、といったところです。



というかそもそも“僕”はずっと「○○したい」とか「○○してくれ」としか言ってないんですよね。
「○○するぞ」とか、そういう自分からアクションを起こしてやろうという気概が見えない。

そりゃいつまでたっても日陰ですよ。


MVはないですがサブスクで聴けるのでぜひ。


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