シン・ウマムスンゲリオン

ぼくだよ。
ふたつほど書きたいことがあったので久しぶりにノートをしたためます。あなたに。黒いインクがきれいでしょう。インク??
まあタイトルで全てを語ってるようなもんなんでこれ以上の前置きはやめてですね、見ましたよ「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」! 見ましたか! 見てないか! そうか!わかった!

あ、ネタバレはしないので安心して読んでください。ていうかさっさと見に行け。

ぼくはエヴァリアタイ勢のおたくのおじさんなのだが、旧劇場版こと「AIR/まごころを君に」を見てショックを受けなかったわけではないが「まあ庵野がこれで終わりって言ってんだから終わりなんだろ・・・」と、かの結末を粛々と受け入れたほうだった。
言ってしまえば、ぼくの「エヴァ」はそこで終わった。
「エヴァ」という途中まではとても面白い変わったアニメがあった。それだけだった。
その後の庵野監督の実写映画には興味を持てず、「トップをねらえ2!」の4話(監督による絵コンテ回)には大変感銘を受けたが「エヴァ」のことは時折「スーパーロボット大戦」に出てきたり、アクションフィギュアが出たりするのを手にしてみる程度で、「エヴァ」のことを考える時間は一切なかった。

そして「新劇場版」である。
はじめはまるで興味がなかった。ぼくの中でエヴァはとっくに終わっていたし、パチンコも打っていない。ましてリメイクである。
ぼくにとって「エヴァ」の衝撃はオカルト的な世界観とTV版19話(暴走した初号機が使徒をコテンパンにしてムシャムシャ食っちゃう回)や旧劇場版の弐号機が量産型にグッチャグチャにされる暴力性だった。
新劇場版「序」はそのような要素が未だ鳴りを潜めるTVシリーズ6話までをベースにした再構成である、とかヤシマ作戦がメインになる、とかは公開前の情報ですでにわかっていた。それはべつになあ、というのがぼくの当時の気持ちだったと思う。それでも見に行ってしまったのはガンダムの新作が放送されたら文句を言いながらでも見てしまうのと同じ、単なるオタク仕草というやつだ。
見てしまえば「序」はとてもおもしろかった。なんのことはない、エヴァンゲリオンはTVシリーズだって序盤からすごくおもしろかったのだ。
メカアクション、ロボットアニメとしての「エヴァ」のおもしろさが変わらずにそこにあった。実際、「エヴァ」より新しいロボットアニメが結局エヴァ以降存在しなかったせいもあったが・・・。予想よりもずっと新しい「エヴァ」は面白く、懐かしく、新しかった。
そして「破」である。ラストシーンの痛快さはついにあの「エヴァ」がエンタメ作品になった!と思った。ここで終わっていい、と思ってもいた。エヴァがわかりやすくて楽しくてかっこいいアニメになった。おれはもう「破」だけあればいい。その後「Q」を見てなおのことそう思った。

「Q」はぼくの個人的な解釈で言えば「世界=他者と断絶する話」である。
自分の行いによってシンジはかつての仲間たちから分断され、孤立する。唯一手を差し伸べた渚カヲルもやはり彼の行いにより消えていく。そうしてシンジは世界の全てと断絶し、胎児のように蹲る。そこでアスカに厳しく叱咤されながらも手を引かれて歩き出していくところに「Q」はいくばくかの救いがあったのだが。

「Q」のラストシーンから、御存知の通り新劇場版は長い休眠期に入る。
ぼくはこれまでのオタク人生からすべての物語が理想的な結末を迎えることは出来ないことを知っていたし、休刊した雑誌はもう復活することがないことも、第1部完、のあとに第2部が来ないことも知っていた。

「エヴァ」は未完の大器として終わる。TVシリーズの最後が物語の体をなさなかったように。旧劇場版が理解し難いものであったように。
それでもいい、と思っていた。ぼくはやはりこの期に及んでも「エヴァ」はもう既に終わったコンテンツだと思っていたからだ。
綾波やアスカといったキャラクターは(ぼくにとっては生々しすぎてとても「萌え」の対象ではなかったが)これからも残るだろう。
口元を組んだ手で覆い隠す碇ゲンドウのポーズもパロディの定番となった。
初号機はシンカリオンやキティちゃんになったり、特徴的なカラーリングでアイコンになった。
それで十分だった。「エヴァ」はそうやって実体から切り離されて残り続ける。それでかまわなかった。
「シン・ゴジラ」がとてつもなくおもしろかったせいもある。
庵野監督はこうやって好きなものを作ればいいんじゃないのかと。無理して「エヴァ」をやらなくたっていいじゃん、とそう思っていた。

けれど、おそらく誰よりも「エヴァ」を終わらせたかったのは当の庵野監督本人だったのかもしれない。
「シン・エヴァンゲリオン」はついに完成の報を知らせ、緊急事態宣言による公開の延期を受けながらもついに上映された。

ぼくは初日を逃したが、とにかくネタバレを食らう前に、と公開二日目に急いで観に行った。果たしてこれであの「エヴァ」が終わるものか、と半分高をくくりながらも。

愕然とした。

終わっていた。

粗があったという意見もあるかもしれない。こんなものはエヴァじゃないというひともいるかもしれない。そんなことはどうでもよかった。

終わったんだ。あのエヴァが。これ以上なく希望的な余韻を残して。

最近は「ゆるキャン△」を見ているだけで涙腺が緩むほど涙もろくなったぼくだが、不思議とこの映画で泣くことはなかった。
涙を流すよりも清々しい気分で満ち足りていた。

これから先、別の形で新しい「エヴァ」が作られるとしても、あの時ぼくが夢中になっていた「エヴァンゲリオン」は長い時を経て完結した。

これからはポジティブな気持ちでこう言うことができる。ぼくの好きだった「エヴァンゲリオン」はもう終わったよ、と。

さよなら、全てのエヴァンゲリオン。


ほんで次の話なんすけど。

「ウマ娘」なんすよ。スマホアプリ(PC版アリ)の。

「艦隊これくしょん」に端を発する擬人化ゲームもひとしきりネタを消費し、このところはさっぱり終わったジャンルと化したところ遂に現れた巨星である。

「ウマ娘」もシンエヴァ同様、生まれ落ちるのに長い時を有したコンテンツだった。ぼくは「グランブルーファンタジー」や「プリンセスコネクトReDvie」でCygamesに触れていたので「ウマ娘」なるゲームが延々と開発中のままリリースされない、ひょっとしたら闇に葬られたコンテンツなのではという話だけは聞いていた。
ぼくがグラブルをやりだした頃「ウマ娘」は既にアニメ1期の放送を終えていたし、ネットでは「ウマ娘」が出ないことをひたすらにコスられ続けてもいた。それだけだ。別に興味もない。競馬自体(競馬漫画は好きだが)興味も知識もないし、よくある擬人化モノが一つ消えた程度どうってことはない。
その「ウマ娘」が先日リリースされた。
関係者やファンにとっては待望の、がついただろう。ぼくなどにとっては突如、と言ってよい。
多少ナメくさって「いっちょプレイしてやるかあしょうがねえなあネタでだぞ?」くらいの気持ちで触って、その完成度に驚いた。

ゲームバランスやUIの面ではまだ洗練の余地があるが、3Dキャラクターモデルの可愛らしさ、演出面での迫力などは据え置き機はだしである。
簡単には目標をクリアさせてくれないゲーム性も繰り返しプレイしてしまう歯ごたえがある。

だがぼくが最も感銘を受けたのは「ウマ娘」という突拍子も無い設定の存在が織り成すドラマであり、キャラクターの面白さ、深みだ。

当然ながら「ウマ娘」は実在する競走馬の擬人化であり、それぞれが史実の競走馬に基づいたドラマや関係性を背負っている。それが少女の姿を取ることでわかりやすく可視化され、提示される。
要は「スポ根ドラマ」として現れるのだ。

競走馬は喋らない、なぜ競争するのか、そのモチベーションを語ることはない。競走馬は多くの人の夢を背負って走るとは「ウマ娘」にも頻出する言い回しだが、夢を託された馬の気持ちが本当にわかることは人間にはない。
だが「ウマ娘」として擬人化された彼女らは雄弁に自分のレースにかける想い、情熱、執念を口にする。

ジュエル(いわゆるガチャ石)を回収するために見たメインストーリー第一章「駆け出しの一等星」では「メジロマックイーン」を主人公に、「なぜ走るか」「夢を背負って走るとはなにか」が語られる。
マックイーンはウマ娘の名家であるメジロ一族の出身で、将来を渇望されるエリートであり彼女自身その矜持とともにレースに挑む。やがてマックイーンは仲間を得て、チームのエースとしての期待を一身に受けるまでに成長するが、応えることが出来ず重圧に負けてしまう。
トレーナー(=プレイヤー)や仲間の励ましによって再起したマックイーンは「期待を力に変えて走る」「夢を背負って走る」ことを知り、大舞台を制するまでに成長する。
そして一章エンディングとして流れる「はじまりのSignal」の美しい旋律。

おれはここで情緒が破壊され廃人となりメジロマックイーンを一生推すことにきめた。

これは通常の育成でも同じだ。因子をにらみ、少ないサポートカードをああでもないこうでもないと吟味し、減り続ける体力と練習とレースの結果に頭を悩ませ、目的のスキルが取れないと気をもみ、ようやく訪れるURAファイナル、そして迎える名曲「うまぴょい伝説」

ウマ娘はゲーム世界においては一種のアイドルを兼ねる存在であるため、レースが終わるとなぜかライブというかたちで歌と踊りを披露するのだが、最初にこれを見た時おれは鼻で笑ってしまった。アイドルマスターからのサイゲームスのお家芸か・・・程度に思っていたが、ゲームを進めるうちに考えが変わった。これは必要なのだ、なによりもおれたちのために。
おれたちは懸命にwikiり、ツイッターを検索し、動画を見漁ってウマ娘たちを走らせる。おれたちは必死にウマ娘に夢を託している。
そしておれと担当ウマ娘の夢の結実がウイニングライブなのだ。夢の涯だ。
それが必要のない、無駄な演出であるはずがない。

メインストーリーに限らず、ウマ娘たちはそれぞれに育成中のイベントでそれぞれのモチベーションを語り、夢を託された気持ちを口にする。彼女らの思いはおれたちを深く感じ入らせ、「彼女を勝たせたい」と思わせる。
非常に洗練された育成ゲームであると感心した。すごい。

さてメインストーリー第2章はライスシャワーが主人公で、おれはライスシャワーを自引きしているのだが、それ故にまだストーリーを見ていない。
ライスシャワーは「自分が不幸を呼んでいる思い込んでいる気弱な少女」というキャラクターなのだが、この健気さがあまりにもおれの胸を打ってしまい、これでストーリーなんか読んだ日には滂沱たる涙を流し、感情が破壊されてバカになってしまうことが確実なので。
似たような理由でアニメもまだ1期すら見ていない。せめて育成が落ち着いてからでないと心が壊れて人間ではなくなってしまうのでな。

そんなわけでウマ娘みんなやろうな。

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