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短編小説【天使像の祈り】(8535文字 無料)

 その屋敷の中庭には古い天使の像があった。
 冬を間近に迎えた空の下、鱗葺(うろこぶ)きの寄棟屋根が山並みの如く連なる。
 敷地をぐるりと囲むイチイの木。広い中庭には大きな円形の噴水があり、天使はその中央の台座の上に立っていた。手は中空へ伸ばされ、片足は何も無い虚空を踏み台にしていた。いままさに空へと舞い上がろうという瞬間が、そこに切り取られていた。
 台座の周りからは幾筋もの水が中空にアーチを描いて水面へと達しており、その軌跡は凝った造りの檻のように見えないこともない。
 現在、かろうじて水は流されているが、水面(みなも)は濁り、たくさんの水草が浮いていた。
 噴水の周りにはアザレアが時計の盤面に並ぶアラビア数字のように一定間隔で植えられていたが、手入れをされなくなって久しいため、そのほとんどは枯れている。
 その昔、屋敷の中には、ここに住む一家が経てきた歴史に相応しい美術品が溢れかえっていたが、いまはもうほとんどが運び出されてしまい、ろくなものは残っていなかった。
 噴水の中央にある天使の像も芸術的、歴史的な価値はなく、ただ古いだけのものだった。
 二百年ほど前、田舎から出てきた若い彫刻家が、後援者になってくれるかもしれない貴族からの注文で、己の技術をそそぎ込んで作り上げたのだ。
 そのような経緯があり、像はそれなりのできであったが、ただの庭飾りの一つであったし、完成後まもなく彫刻家は肺炎を患って大成することもなく死んでしまった。
 以来、天使は噴水の真ん中で、途切れない笑顔を浮かべ続けていた。
 しかし、あまり目立たないことであるが、この像には非常に変わった点があった。
 魂を持っていたのである。
 もちろん、それは奇跡と呼んでもおかしくない不可思議な現象であった。夭逝(ようせい)したその彫刻家が特殊な能力を持っていたのか、あるいはその時代や場所が選ばれた特別なものであったのか、いまとなっては確かめようもない。
 幸いというべきか、そのように奇妙な彫像はこの館に(そしておそらくこの世にも)彼女一つきりだった。
 その小さな不思議を除くと、古びた洋館はごくありきたりのものだ。住んでいる人間が過去の栄華を忘れられず、しかし、現実には没落しかけているということも、さほど珍しいことではなかった。
 そして、残ったわずかな財産を巡って繰り広げられた醜い争いとて、おなじみの醜聞で、他人にはおよそどうでもいいことであった。
 
 
 事件の始まりは二週間前だった。
 鍵の掛かった部屋の中で当主が首を吊って死んでいるのが発見され、警察はただちに自殺と判断した。
 次に、数年ぶりに帰ってきていた遊び人の弟が、階段から足を滑らせて危うく命を落としかけるという事件が起こった。通常であればただの事故とされるところであったが、疑問を抱いたある刑事が調べてみると、階段の最上段には壁に謎の穴があけられており、悪意を持った者が罠を仕掛けたのかもしれないという可能性が出てきた。
 館の当主は子供に恵まれず、遅くになって突然若い女性を養女として迎え入れていた。妾ではないかという噂もあったが、すべての財産がいずれ彼女のものになると当主は公言していた。少なくとも表面上はその言葉に盾突く者はいなかった。
 この若い女性にまとわりつく中年の絵描きの存在が事件に怪しい影を落としていた。
 さらに夫人が熱を上げていた、自称先進的宗教家なる人物が客人として長期滞在するようになると、屋敷の中はそれぞれの思惑を秘めた重苦しい雰囲気が漂いはじめた。
 皆がお互いの動きを見張っていた。
 次『事故』にあうのは誰なのか。
 新たな展開を複雑な思いで待っていた。
 
 
 そんな緊張が幾重にも重なり、息をするだけで邪(よこしま)な空気に染まってしまいそうな館に、どんな事件でもたちまち解決してしまうという探偵ツインズ・ワンがやってきた。
 彼を呼んだのは跡継ぎとされている養女であった。亡き当主が巻き込まれた(かもしれない)事件の解決を願っているのか、あるいは遺言の執行について権限を与えられた弁護士が、財産の分与はこの一連の事件が事故なのか仕組まれたものなのか解明された後に行う、と宣言したからなのかはわからない。
 好奇の視線を集める中、探偵は調査を始めてわずか半日で、当主が死んでいた部屋の鍵を外から耳掻き一本で掛ける巧みなトリックを見抜いた。名の知れた彼の名推理には、捜査の鬼として知られたネック警部も舌を巻いた。
 かくして事件は『殺人』の疑いが極めて濃厚となり、現場検証、関係者の事情聴取などが改めてやり直された。
 その直後、未亡人が雨上がりの裏庭で死体となって発見された。胸を矢で射られていたのだ。
 周りに足跡もないため、おそらく矢は館の窓から放たれたのでは、というネック警部の考えに、探偵は厳しい顔で首を振った。
 探偵の乱麻を断つがごとき名推理により、矢は思いがけない場所から飛んできたものであることが判明した。
 そして彼は、犯人は一週間以内に捕まるだろう、と関係者の前で宣言した。
 
 心を持つ中庭の天使像は犯人を知っていた。
 
 満月の晩。
 切れ切れの雲が闇にいくつも浮かんでいた。闇との境界が月明かりに照らされて銀色に輝き、夜を東へと押しやるようにゆっくりと空を横切っていた。
 この日は祝天星と司神点がちょうど夜中に重なるという、実に三千五百年ぶりの出来事が起こった。
 世界中にあるいくつかの偶像のレベルが一つ上がった。そのほとんどは体の細かいヒビが埋まったとか、指が少し動いたという程度で、よほど注意深くなければ人にはわからないものであった。
 ただ、この噴水の真ん中で空へ二百年手を差しのばしていた天使に起こった変化は劇的だった。
 夜も更けた誰もいない中庭で、天使像はゆっくりと動き出したのだ。
 
 
 噴水の中央の台から足を外す。
 乾いた陶器の割れる音とともに、彼女は自由になった。
 台座に接していた彼女の踵には空洞があいていた。
 ずっと見下ろしていた水面まではほんの少しの距離だったが、躊躇していた。
 体が割れてしまっては台無しだ。
 背中の羽は、単なる飾りだった。
 そういった意味では、天使というのは名ばかり、やはり単なる彫像だった。
 注意深く、彼女は飛び込んだ。
 うまい具合に水面が衝撃を和らげ、なんとか浮いていられた。
 そのまま、もがきながら少しずつ進む。長い間彼女を囲んでいた水の檻を越える。
 噴水の円形の縁を目指した。
 生まれて以来ずっと見下ろしていた水の中は、真冬の雨より冷たく、そして新鮮だった。
 しかし、長く浸かっているのは危険だと悟った。足から水が体内に入ってくると、身体が沈みそうになるのだ。
 大理石の飾り石に捕まってはい上がり、噴水の縁から柔らかい芝生の上に足を下ろす。
 夜気の露を含んだ葉が彼女の白い肌をくすぐる。
 細かく震えながら響く虫の声。
 星空。
 とまどい。
 彼女は生まれて初めて自由になったのだ。
 二百年間、見ていた屋敷を、初めて違う角度から眺めた。
 漆黒の中にいくつかの窓灯りが浮かぶ。
 そのうちの一つ、二階の灯が客室のものであり、さらにその右上の灯が犯人の部屋のものであることを彼女は知っていた。
 
 
 客室には探偵がいた。
 夜も更けていたが、彼の部屋にはまだ背広を着たままのネック警部が腕を組んで椅子に座っていた。
 探偵と警部は数時間に渡る議論を終えたところだった。
 探偵の頭の中に一つの仮説があった。
 その推理の妥当性を警部が検討し、二人してようやく解決へとたどり着いたのだった。
 明日には事件が収束するであろうという確信を抱き、警部は部屋を退去した。屋敷の住人の警備のために特別に用意してもらった捜査官用の客室へと急ぐ。明日の朝一番にもう一つ調べものをしておく必要があった。
 それが決定的な証拠となるのだ。
 部屋のドアを開けたとき、右手の暗い廊下をなにか不思議なものが横切るのを、視界の隅に捕らえたような気がした。
 目をしばたいて頭を振る。疲れているせいだと思った。
 
 犯人は当主の弟だった。
 彼は薄暗いランプをつけて、机に肘をついて、ずいぶんと長い間考えていた。
 警察の手が間近に伸びてきているのをひしひしと感じていた。
 耐え難い重圧だった。
 おまけに風邪気味で、夕方から頭痛がひどくなっていた。
 兄を殺すだけにしておけばよかったのだ。
 しかし、それだけではどうしても心配だった。警察は『自殺』と発表したが、本当はとっくに真相に気が付いているのでは、と疑心暗鬼に捕らわれ、つい自分も被害者を装うなどという要らぬ行動に走ってしまったのだ。これが却って警察を呼び寄せることになってしまった。
 決定的にまずいのは、階段から転げ落ちる自作自演の一部始終を兄嫁に目撃されたことだった。何度もためらいながら、ついに階段から転がり落ちる様を見られたのでは言い逃れもできなかった。
 金の亡者である兄嫁は、養女である娘を亡きものにしろと要求してきた。
 もし実行しなければ、なにもかも警察にばらすと脅された。
 殺人者を脅すほど愚かなことがあるだろうか、と彼は呆れた。
 兄を絞め殺す時にはためらいがあったが、彼女の体に矢を打ち込むときには爽快感さえあった。
 確かに、原因は養女にあった。本来なら弟である彼は十分な金額の財産をもらえるはずだった。それが久々に帰ってみれば兄は新しい遺言状を作成する予定だという。そこでは彼の分け前はほとんどなくなる、と兄は嘲るように言い放った。
「やむを得なかったんだ」
 呟く。
 金策に走り回ったこの半年のことを思い出していた。
 そして、まだ父親が健在だった頃、兄と一緒に遊んだことを思い出していた。
 春になると見事に手入れされた中庭には花が咲き乱れ、その華やかな光景はいつも彼の心を不思議な感動で包んだ。
 中央には大きな噴水があり、そこには優しげな天使の像があった。彼等は勝手にその天使にシルヴィアと名前を付けていた。
 屋敷と塀に囲まれ世俗と切り離された中庭の空間は兄弟にとってもお気に入りの場所だった。学校から帰ってきて、部屋の前に木の枝や花が落ちていると、庭のどこかに兄が隠れているという合図だった。彼は心躍らせながらあちこち探し回ったものだ。あまり探し当てるのが遅くなると、退屈した兄が煙草を吸い出して、その匂いで居場所がわかるのだった。
 
 中等学校へ通う頃に、不況が市場を襲った。
 彼等兄弟にはそれがどのような意味を持つのか、よく判らなかったが、父親が青い顔をして新聞を握りしめている光景から危機を感じとっていた。
 使用人の数は減り、庭は次第に荒れていった。
 ある年、父親が庭の噴水を取り壊すと言い出した。
 見苦しい有様で庭を放置しておくのは、いくら生活が苦しくなったからといって、彼の性に合わなかったのだろう。
 しかし、兄弟は揃って猛烈に反対して、それを思いとどまらせることができた。
 やがて、兄からのかくれんぼの合図もなくなり、彼は一人で過ごすことが多くなった。
 移りゆく季節のせいだけでなく、屋敷も庭も彼の身体も少しずつ変わっていった。心も同じだった。
 あの頃は……
 弟の回想は突然のノックの音に遮られた。
 胸を押さえる。鼓動が激しかった。
「はい」
 返事をしたが、なにも反応はなかった。
 見慣れた扉が、見知らぬものを内包した恐ろしい世界へのゲートに変わる。
 彼は立ち上がり、呼吸を整える時間だけ待ち、ノブに手を伸ばした。
 ゆっくり扉を開く。
 誰もいなかった。
 無人の廊下。壁に掛かった絵。馬にまたがったどこかの将軍。
 空耳か。
 ため息をつき、ドアを閉めかけて、ふと視線を落とす。
 絨毯の上に月見草が横たわっていた。
 手折られたばかりと思われるみずみずしいままの白い花びら。根についた土。
 彼は思わず廊下の先を見つめた。
 いまはもう使われていない兄の部屋の扉を。
 
 
 天使は傷ついていた。
 なにかを見るということに慣れていなかった。歩くということに慣れていなかった。彼女が得意なのは噴水の真ん中で天へ手を差し出すことだけだった。
 動くことによって次々に変わっていく回りの光景を見ながらそれに対応するのは大変な努力が必要だった。
 決定的なのは屋敷の階段だった。
 足を上げることがとても難しかった。
 登り始めて五段目で、つま先を段にぶつけてしまい、小さな親指と人差し指が欠けてしまった。痛みはなく、ただ鈍い苦しみが襲ってきた。
 それでもなんとか歩き続けた。
 ドアの前に草や花を置いておくという習慣については、少年時代の彼等の会話を聞いて知っていた。
 弟の部屋の前に花を置いて階段を上がり続けた天使は、いま四階の大きな扉の前に立っていた。
 取っ手に手をかけ、なんとか開けることに成功した。
 そこは図書室だった。
 この部屋の話題も何度か兄弟の会話に出てきた。
 ここには彼等のお気に入りの物語がいくつかあって、中でも特に弟が夢中になったのは古い箪笥の向こうに広がる魔法の国の話だった。
 いつかは自分もその話を読んでみたいと天使は思っていた。
 棚に整然と並ぶ膨大な数の、どれかがその物語のはずだった。
 しかし、文字を知らない彼女には、タイトルさえわからなかった。
 それにあまり時間がない。
 ただ、たくさんの本の中で、一冊だけ気配が大きく違うものがあった。
 その本には弟のものと思われる輝きが染みついていた。
 つまり、彼が手に取っていた時間が長いということだ。幸いにも、その本は棚の下の方に一冊だけぽつりと置かれていたので、彼女も手に取ることができた。
 赤い布貼りのきめ細やかな手触りの美しい本。これこそ自分の探していた本に違いないと彼女は思った。
 開いてみると、延々と細かい文字が並んでいた。もちろん、その内容はわからないが、これが本というものなのだ、と知ることができた。
 それを抱えたまま、窓辺へ。中庭に面したこの大きな扉を開けるためには椅子を引っ張ってこなければならなかった。
 開けた途端、待ちかまえていたように風が入り込んできてカーテンを大きく揺らす。その動きにしばらく見とれていた。羽根をそういうふうに動かせば飛べるのかもしれない。
 中庭に人の気配を感じて、慌ててそちらへ目をやる。
 人影があった。
 
 
 頭痛は酷かったが、彼は庭をさまよっていた。
 ドアの前に月見草を置いたのが誰なのか。
 それを知りたかった。
 彼等の子供の頃の習慣を知っているのは、やはり古い使用人や、あるいは彼等の父親ぐらいしか考えられなかった。
 どちらにしろ、もう誰一人この屋敷にはいないはずだった。
 しかし、これといって重大な秘密でもないので、その気になって調べれば、わかるようなことなのかもしれない。
 そう考えなければあり得ない。
 そして、いまこの時点でそれを行った人間は、おそらく彼の秘密、この事件における役割を知っているはずだった。
 灯りを失った庭にはただ静寂が広がっていた。噴水の水音と虫の声だけの世界。
 ふと、景色に違和感を感じたが、それよりもいまは月見草を置いた人間を捜すことが最優先だった。
 かつて兄が隠れていたツツジの茂みや、物置小屋の隅を覗いてみたが空虚な暗闇があるだけだった。
 熱がかなりあるようで、歩くと足がふらついた。
 中庭はたいそう広く感じられ、一歩進むごとに焦燥感が募ってきた。
 月が、遙か遠くで過去の明かりを放っていた。
 彼は眩暈を感じた。
 見れば、館はあの頃のままの姿でそこにあった。
 それがまるで当然であるかのように。
 三階の一番端の部屋にはまだ灯がついていた。父親が遅くまで仕事をしているに違いない。ならば一階の灯りは執事のシンプソンだ。いつものように下らないミステリに夢中になっているのだろう。その隣の部屋ではミス・オグデンが早い朝に備えてナイトキャップを被って眠っているのだ。
 彼は兄の姿を探していた。
 煙草をくわえて、ネクタイを弛め、空を見ていた兄の顔をもう一度見ることができるような気がしていた。
「兄さん?」
 呼びかける。
 きっと微かな口笛が答えてくれるに違いない。
 期待して耳を澄ます。
 煙草の匂いを探す。
 辺りを見回す。
 風が不意に止んだ。
 そのとき、柔らかな音が聞こえた。
 反射的に振り返る。
 建物の近くだった。
 居間として使われていた部屋の、その前へ、彼はゆっくりと歩み寄る。
 灯りはついていない。
 しかし、月の明かりに照らされて、芝生の上に横たわる月見草を彼は発見した。
 さっきまで、ここには何もなかったと、断言できた。
 たったいま置かれたとしか思えないが、周りに人影はなかった。
 不審に思い、もう一度庭を見渡す。
 そのとき、先ほど違和感を覚えたその原因に気が付いた。
 噴水の中央の天使像が無くなっていたのだ。
 確か昨日の夕方にはそこにあるのを見ていたはずだが、よく思い出せなかった。
 次の瞬間、月見草がどうやってそこに出現したのか、その方法が判った。
 彼は上を見た。
 月の明かりの中、四階の図書館の窓が開いていた。
 一陣の風が背中から吹き抜けて建物へ。開いた窓の両脇からカーテンが建物の外へなびき、夜空へ向けて柔らかな翼のように広がる。
 その中から何か白いものが飛び出してきた。
 彼が名前をつけた天使の、一度だけの不完全な飛翔。
 
 
 叫び声を聞いて探偵は廊下へ飛び出した。廊下を走ってくるパジャマ姿のネック警部と合流する。
「中庭の方だ」
 ホールへと続く階段を降りる途中、探偵は突然立ち止まってしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか?」
「親指です」
「なんですって?」
 警部は探偵の足元にある小さな白い陶器のかけらを見た。
「こりゃいったいどういうことですかね」
 探偵は階段の縁に残る白く擦ったような跡に気が付いた。そこに何かがぶつかって割れたようだった。
「これが何を意味するのかはまだわかりません。とにかくいまは中庭へ急ぎましょう」
 
 駆けつけた人々は、少し離れて庭の惨状を見守っていた。
 ネック警部と探偵は死体の傍らに立っていた。
「まさかこんなことになるとは……」
 警部の言葉は弱々しかった。
 先ほどのディスカッションで、探偵はこの弟こそが事件の真犯人であるという結論を出し、警部もその考えに同意したところだったのだ。
 死体の傍らには赤く染まった天使の像が落ちていた。
 頭上の窓が開いていた。
「これで頭を殴られたか、あるいはあの図書室から被害者めがけてこの像を落としたのか……しかし、凶器とするには大きすぎる」
 警部の側に警官がやってくる。天使像が中庭の噴水にあったものだと判明した。折れた足首が噴水の台座にぴったりと合ったらしい。
「これは?」
 死体の側に落ちている本を警部が手に取る。
 古い紳士名鑑であったが、中から色褪せた写真が一枚落ちた。慌てて拾い上げる。
 女性が写っていた。探偵に見せる。
「中庭で撮った写真のようですね。ほら、噴水が写っている」
「本当だ。誰だろう」
 警部は屋敷に唯一残っている使用人を呼ぶ。
 使用人は息を飲んで「シルヴィア様です。ずいぶん前にお亡くなりになった奥様です」と答えた。
 その証言によってますます事態は混迷してきたように思えた。
 警部は集まってきた人々の顔を見回した。
「この中に真犯人がいるということですかね」
 小さく呟く。
 探偵は腕を組んで黙っていた。
 
 
 身体に大きな穴が空いていた。
 そこから力が流れ出ていくのを天使は感じていた。
 自分の存在が薄れていく感触は不思議だった。
 目的を果たせて、彼女は満足していた。
 意識を失った弟の瞳が、彼女の方を見ていた。
 もうこれで二度と彼は思い煩うこともなくなるだろう。
 集まってきた人間がいろいろなことを喋っていた。
 警察の人間が探偵に「この中に真犯人がいるということですかね」と言うのを聞いて、彼女はたいそう焦った。
 彼女の目的はそんなところにはなかった。
 もう事件は終わったのだ。
 人々はもう平穏を取り戻し、明日から平和な日々を過ごすべきなのだ。
 しかし、誰か他の人間の仕業であると思われてもしょうがない状況を作り出してしまったことに、彼女はいまさら気が付いて絶望的な気分になった。
 ずっと黙ったままの探偵を、彼女は見た。
 
 
 探偵は考えていた。
 天使の足を見た。
 親指が欠けていた。
 天使の体には水草がついていた。
 水草は屋敷の廊下、階段の至る所についていた。
 
 
 天使は祈った。
 ここで起こったことの完全な解明、真相の究明を。
 
 
 探偵は警部に言った。
「なにもかもわかりました」
 警部は驚いて探偵を見た。
「この天使を見てください。そして、先ほど見つかったこの古い写真と見比べてください。この夫人の後ろにも天使像が写っています。何か気が付きませんか」
 警部は首を捻った。
「姿勢です。かなり壊れていますが、はっきりとわかります。まるで違っているのです。これでいろいろなことがすっきりします」
 探偵は人差し指を立てて警部を見た。
「すなわちこの天使は――」

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