『理解』

正しい事か、自分が何なのか、悩む人は常日頃沢山居る。
解った所でまた次の問題が出る、その繰り返し。
それを面白いと感じて考えるのは良いと思う、選択を探したり、戻ってみたり。
最近思うのは「自分を確立する事」が必要かどうかだ。

意思を表明する事は自分の気持ちが第一だ。
こうしたいか、あぁしたいか、自分が決めなきゃ動けもしない。
じゃあ自分の気持ちを知らないと、自分の気持ちを表現しないと、と考えるのは少し違和感がある。
考えを巡らせてる時点で自分の頭の中で起こる出来事であり、浮かんでいる言葉や選択が自分だから。
深海だって一番下がある、深く考えた所で終着点がある。
私が思う思考の終着点は考える事の限界だ、それ以上やる必要が無い、というか考えられない状態。
一つに固執する事は下に辿り着いてもその周りをくるくると回っているイメージだ。
誤解を受けるかもしれないので書くがそれが間違いだという事ではない。
「考える」という事のやり方、使い方、面白さを感じるのは可能性の広さではないか、と私は思う。

理解をするまで考えるのは正直無謀だ。
数千年も前の作品を見て理解が出来るか?当人にしか分からない事を理解してると言えるのか?
自己解釈をする、というのが殆どだろう、これは「納得する」という意味の理解だ。
客観的に見るというのは他人の作品を見てるだけでみんなやっている事だと思う。
それを自分に対してやれるのか?おそらく感情を前に出すと出来なくなるだろう。
そうと分かったらそれで良いのだ、もっと簡単で良い。
深く考える事に縛られる事を望むならそれで良い、ただたまには浅瀬に出てみるのも違った物が見れる。
個人的にはこれは年齢などの世代の違いを感じるのと似ている、常識は常に変わるから、考えも留まって居ては動かなくなる。
思考の居る場を広げるのが新しい考えの広がりに繋がるのではないか、と思った。

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