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株式会社マテック(代表取締役:杉山 博康)

会社名:株式会社マテック
住所:北海道帯広市西21条北1丁目3番20号 
代表取締役:杉山 博康
創業:1935年


【会社のあゆみ】

帯広に本社を置くマテックは、創業88年の総合リサイクル企業。現社長 杉山博康さんの祖父にあたる与八さんが、樺太で『杉山与八商店』として創業しました。

「祖父は当時樺太にいた外国の方々が、スクラップ業をしているのを見て興味を持ったそうです。私の父が生まれた際に、勤めていた会社を辞めて起業したと聞いています。」と杉山社長は会社の成り立ちを教えてくれました。

しかし創業後ほどなくして、世は第二次世界大戦に。
終戦の1~2年前には『金属類回収令』が出て、スクラップ業ができなくなってしまいます。

「仕方がないので祖父は一時、樺太で家具の工場をやっていたそうです。終戦後、祖父以外の家族は親戚を頼り北海道に引き上げましたが、祖父は家具工場の引継ぎがあったため遅れて帯広へ移ったと聞いています。だけど遅れて移住してきこともあり、仕事がなかったみたいですね。どうすることもできなくて、リヤカーひとつで帯広駅の裏手からまたスクラップ業者として再スタートしました。昔はスクラップ業というよりは雑品屋で。人のいらなくなったものをもらってくる仕事でした。金属に限らず、藁や肥料の麻袋、空き瓶などを集めていたようです。」

そして杉山社長が小学1年生のとき、今の帯広本社を構える場所へと拠点を移します。


苫小牧支店SR工場

【昭和から平成にかけての成長】

今では十勝地方に留まらず、北海道で拡大を続けているマテック。
どのように成長していったのでしょう。

「十勝を中心に事業を行っていたが、釧路はもともとお客さんが多くて。昔から釧路には親と一緒によく行っていました。だから支店を考えたとき、最初に選んだのは釧路でした。」と、語る杉山社長。

その後は空知地方・石狩地方へと拡大していきます。

「たまたま砂川で話があって。ちょうど炭鉱が廃坑になった時期でしたね。見たこともないような鉄がゴロゴロあったから、みんなびっくりしましたよ。地域が変わるとすごいなという話になって。他の地域に行けばもっと鉄が出るのではという話にもなり、色々考えた結果、平成元年 千歳に進出しました。」

様々な拠点の中でも、現在マテックの重要な拠点として外すことができないのが石狩。この石狩の開発には、杉山社長が大きく関わっています。

「実は学生のときに、父に連れられて土地の視察に行きました。いざ購入するとなったとき、融資を受けるのは父ではなく自分で。まだ入社もしていないのに、金融公庫の方に『あなた、会社継ぎますか?』と聞かれたんです。『継ぎます!』と言いましたよ。あわせて土地開発の担当者に『周りの空き地も将来全部買うから、売らないでください!』と頼みこみました。でも後々それがすごいプレッシャーで・・・。工場を少しずつ建てていって、土地が全部埋まったときには一安心しましたね。」と、驚きのエピソードを明かしてくれました。


【アルバイトから社長へ】

「小学1年生のときから、長期休みの間は家でアルバイトをしていました。当時は手伝うと生銭をもらえることが嬉しくて。全部使っちゃうんですけどね。その頃から、実家でアルバイトをするのが当たり前になっていました。大学進学のため東京に行ってからも、長期休みの度に北海道に戻ってはアルバイトをしていました。だから、もう避けられないというか。この仕事以外のことは全く考えたことがない。音楽にどっぷりハマったこともあったけれど、いずれ家業を継ぐから今しかできないという気持ちで。」と、幼少期から学生時代までを振り返る杉山社長。

そんな杉山社長が28歳のとき、ついに北海道へ戻ることとなります。

「北海道に帰ることを考え出した頃には会社も大きくなっていて。戻るに戻れなかったのですが、ついに親に呼ばれて。家業だし、やってみてダメだったら、会社のために身を引こうとまで決心して帰ってきました。」

杉山社長は、半年程 砂川で事務と営業を担当し、その後 平成3年に支店を出すため札幌の米里へ。札幌で2年程過ごしている間には、全社でも札幌に鉄くずが1番集まるようになったと言います。
33歳のときには、当時の社長である父・修さんの命を受け、副支店長として当時全く鉄が集まらなかったという千歳をテコ入れしたそうです。

「とにかくものがなかったので、自分で営業してものを集めました。自分が取り引きしたいと思った企業を見つけては、ほとんどアポなしで。営業が好きなんですよね。最終的には千歳が札幌の倍近く集まるようになりましたよ。営業もやりながら仕入れも、売りも、設備も、全部ひとりでやっていました。設備に関してはこの仕事を家業としてやる以上、お金を使うのも自分ですし、責任を取るのも自分。自分で機械を見て決めようと最初から思っていましたね。」

その後は取締役を経て、1999年 社長に就任されました。


杉山博康社長

【社長としての改革】

社長になって最初に手掛けたことは、お客さんへの送金だったそうです。

「現金を持って歩かなくていいようにしました。実は、自分が担当していた時に現金を盗まれてしまったことがあって。自分は社長の息子だったのでまだ良かったけれど、これが他の社員だったらと思うと・・・。それがきっかけで、現金をなるべく扱わなくても良いようにしました。」

中でも石狩での改革は大きなものでした。シュレッダーや選別、自動車の解体に着手したりと、新たな分野にどんどん進出していきます。

「マテリアルリサイクルをしたいと思いまして。自動車を部品ごとに解体する実験を他社にお願いしました。けれど『そんなことはできない』と言われてしまって。最終的には自社でやることしました。手で全部ばらしている内に、将来は全てリサイクルしないとダメになるなと思いましたよ。でも自動車リサイクルは、どこか解体業社さんと組まないと難しいですよね。うちは根っこの部分が雑品屋なので、単独だとなかなか。これからはこういったことで、上手く連携を取っていける企業が生き残っていくのかなと感じています。」

常に前を向いて改革を進める杉山社長ですが、最近では手作業の機械化にも力を入れているそうで「うちは昔から非鉄をやっているから、線の処理とかを中心に機械化していって今に至ります。特に自分がやっていて辛かったことは機械化している。社長の息子である自分ですら辛いことは、従業員にはもっと辛いだろうなと思って。」と改革の勢いは止まりません。

【改革のヒント】

杉山社長の改革のヒントは、どこからくるのでしょうか。
それはどれも、自身の経験に基づいているものでした。

「選別をやろうと思ったのは偶然で。高校時代にアルバイト中、腰を痛めたことがあり、座ってやる現場しかできなくなってしまって。配電盤を前にしたとき、ふと全部分解してみようという気持ちになったんです。実際に分解すると『こんなにも色々取れるのか!』と気付いて。きちんと取るためには、きちんと分解するのが1番いいと考えるようになった。それが根源です。」

また、ある時は海外からもヒントを得たと言います。

「ドイツで、ヤードが全部コンクリートで埋められているのを見たんです。それまでは長靴を履かないと歩けないと思っていたヤードを、革靴で歩いて。そのときに、今までの常識が変わった。それが今も色々なことに繋がっていると思います。ドイツのヤードに憧れて、うちでも実行しようとしたときは費用もかかりましたし、父と対決もしましたが。」

杉山社長の口からは改革に対するこんな言葉も。

「できる!なんでも!あきらめない。諦めたらできない。強い信念があればできると思う。採算を見ちゃうとできない。」と強いチャレンジ精神を見せてくれました。



非鉄選別機
集塵が徹底された工場内

【今後の展望】

「父は鉄や金属に専念したいと言っていたが、私はそれだけだと面白くないと思い、社長になってからは扱える品目を増やしました。人が使わなくなったもので商売をすることに興味があって。どうやって処理しようか困っているものを、なんとか処理しようというのが面白いんです。だから”鉄くず屋”ではなく”雑品屋”。自分は高級な雑品屋になろうと思っています。他社が考えないようなリサイクルをやるのがいいかなと思って。また新しいものもやりたいですね。」と今後の展望を語る杉山社長。

さらにアイデアは尽きないようで「鉄に関しては、そのまま納品するのはもちろんですが、例えば化学肥料として、うちの鉄や亜鉛を土に混ぜてみてはどうかと考えています。そこから鉄分が高い野菜ができると面白いですよね。今まで考えられてこなかったような利用方法も考えようかな。」と、笑いながらも熱心に話してくれました。

【鉄リサイクル工業会に一言!】

「この団体は、非常に良い団体だと思っています。ネットワークがあるのは、業界として何か大きな問題が起きたときに、すごく力強い。一社の意見としては通らないことも、業界全体の取り組みとして問題提起をしてもらえますし。意見交換をやったり、設備を見せ合ったり、それもすごく勉強になることなので続けていってほしいですね。」

さらに、今後については「いずれは、外国企業にも入ってもらえればいいのではと思います。ライバルだけど同業の仲間ですから。あとは”鉄”リサイクル工業会ですけど、他のリサイクル業界も巻き込んで交流して、リサイクル業界を引っ張ていくような工業会になってほしい。」と、既存の枠にとらわれない活動を望まれていました。


【日本鉄リサイクル工業会 北海道支部長 後記】

今回は常に時代の一歩先を行く戦略、「I♥RECYCLE」でもおなじみのマテックの杉山社長にお話を伺いました。創業88年の歴史を持ち、業界を代表する企業であるマテックさんの創業からのお話を杉山社長からお聞き出来てとても貴重な場でした。

中でも、私が鉄リサイクル工業会の支部長として、鉄リ会員の皆さんに読んでいただく記事の取材に来ているという事を承知の上で、「うちは鉄屑屋じゃない、雑品屋」と熱く語っておられたのがとても印象的でした。
人が使い終わった物を扱う商売を「雑品屋」と呼びますが、創業者であるおじい様は戦後、まさしく雑品屋として鉄だけでなく何でも集めて生計を立てていたそうです。
そんなおじい様の経験や考え方を叩きこまれたとは仰っていませんでしたが、幼少期から誰にやらされたわけでもなく、誰かにもらったものをお小遣いに換えていたという杉山社長のお話は、「誰かが要らないものにも価値がある」ということを肌で感じていた証であり、杉山社長の雑品屋魂の誇りとプライドがどのように育まれてきたのかを窺い知ることができた様に感じました。

また、まだ入社もしていない学生時代に、後継ぎとして事業場展開や融資に関する重大な決断を迫られていたというお話や、その時既に石狩の一帯を全部買って全部使うと決めていたというお話は、驚きもしましたが、これもマテックさんが常に業界をリードし続けている要因の一つなのかと納得もしました。
入社された後も、社長になった時に大きな投資の全責任を負うのは自分だからと、一つひとつ設備について勉強し、今のように社長自身が設備の細かいところまで詳しく説明できるようになったそうです。

マテックさんの現場はどこもとても綺麗な印象が有ります。
処理設備だけでなく環境への投資も大事にする背景に、お客様には革靴でヤード内を歩いてほしいという想いや、汚い所で仕事をしない、させない方が良いという杉山社長の信念がある事も分かりました。

「雑品屋」とは言っても、マテックさんが目指しているのは「高級な雑品屋」だそうです。素材をいかにレベルアップさせて販売するか。
全ての素材を良い状態で回収するには手作業での解体・選別が必要だと気付いたのは高校時代のアルバイト中だそうです。
その後、例えばOA機器は手解体して基板を回収するようになり、現在は基板の姿で最終商品とするのではなく、次のステップに取り組んでいるそうです。

鉄リサイクル工業会に対しても、鉄だけにこだわるのではなく、多岐にわたるリサイクルを手掛けて行かないといけない。もっと資源リサイクルの核心に迫るところに刺さるような取り組みをすべき。他の業界を巻き込んで、各社の課題解決となる交流ができる工業会となってほしいと要望を頂きました。

過去に日本鉄リサイクル工業会北海道支部長にも就いて頂き、業界に多大なる貢献をして頂いている杉山社長だからこそお話しできる、深みのあるインタビューとなりました。
今回のインタビューでは、マテックさんの苫小牧に立ち上がったばかりで、日本一の規模であるASR再資源化施設も見学させて頂きました。そこには先進的な設備もそうですが、杉山社長の想い、プライドが詰まった工場でした。
今後も日本の「雑品業界」を引っ張る、高級な雑品屋さんとなったマテックさんの先進的な取り組みから目が離せません。

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