コロナ禍で存在を消された私たち コロナ亡霊
検査難民
発症月:2020年2月
ペンネーム:もん
居住地:近畿
最初に
2020年2月から私たち家族3人は、今までの生活が一変した。
健康について
健康だけは自信があった私たちは健康な体を失い、2年近く経った今もしんどくて横になる時間が1日の大半を占めており、ご飯を食べてお風呂に入って少し仕事をして寝るだけの作業で精一杯である。
家計について
健康だった2年前まで、私たちはよく家族で仲良く出かけていた。毎週のように行っていた旅行、キャンプ、ライブ。年1回のハワイ旅行。すべて無くなり、旅行やライブにかけていたお金は医療費に変わった。確定申告の医療費控除で申告した金額は2020年度118万円、2021年179万円。これは病院、クリニックに支払った金額で、通院のための交通費、薬局で買った漢方代、サプリ代、代替医療も含めたらさらに数百万円の支出になる。息子は2年間ほぼ学校に通っていない。徒歩の通学、体育、校舎内の移動が体力的に無理だからである。その代わりにフリースクールに通っており、月に8万円、送迎費用に月に4万円かかっている。
考え方について
これについてはとても複雑で簡単には言えない。今までの常識がひっくり返ったのである。頼りにしていたものを頼ることができないと知った絶望感、安定していた土台が崩れ去った恐怖感、ごく普通の日常がどれだけ幸せか知り、何も頼れないと知り芽生えた自立心。健康を失って一番変わったことは考え方かもしれない。
仕事・活動について
病気を発症するまでは専業主婦だったが、2021年10月に起業をした。2年近く経っても体調がすぐれない息子と、1年前までの私と同様、絶望に人生を支配されている人たちに『健康でなくても、心も金銭的にも豊かになって幸せになれること』を証明して、希望を見つけてほしかったからである。
また、闘病中に友達がかけてくれた優しい言葉と、温かいご飯の差し入れにとても救われたことから、『優しさ』と『温かいご飯』を全ての人に平等に提供するコミュニティを全国に広めようと活動を始めた。
このように、私たち家族の生活が大きく変わった出来事について話したいと思います。
はじまり
2020年2月25日 朝起きたら寒気がした。コロナの3文字が頭をよぎったが、当時の日本は、コロナ陽性者はほとんどおらず、どこか遠くの国の出来事だという意識であったため、普通の風邪と思い、特に気にすることなくその日を過ごした。
2020年2月26日 息子も寒気を感じ始め、学校を休ませた。
2020年2月27日 息子が重い倦怠感で起き上がれなくなり、コロナかもしれないと思い始める。当日出張から帰ってくる夫にうつしてはいけない思い、夫が帰宅する前に私と息子は寝室で生活をすることにし、1カ月間の家庭内隔離生活が始まった。
家事、料理は全て夫がして、トイレ・風呂に行く時は私と息子が触った箇所は全て消毒して夫に感染しないように気を付けていた。
最初は軽い寒気だけだった症状が、家庭内隔離後、すぐに不気味な症状が次々と現れてきた。
激しい倦怠感、咳、肺が固いような違和感、下痢、めまい、頭痛、吐き気、体中を移動する冷感、心臓の痛み、息苦しさ、しびれ、胸痛、膵臓の腫れ、リンパの痛み
熱はそこまで上がらずに常に36.5~37.0℃であった(平熱は36.0℃)
息子は私ほどの症状はないものの、起き上がれないほどの倦怠感に苦しみ、隣で見ていて気が狂いそうな程辛かった。
2月末には自分がコロナに感染したことは確信しており、Twitterに登録して国内外のコロナ情報を集め始めた。
多くの人にとって、当時のコロナに対する考え方は現在のものとは全く違い『生きるか死ぬか』であった。バタバタと倒れる人、呼吸器をつけた患者、病院に殺到する人々、倒れるように床で眠る医療従事者、共同で埋葬される多数の棺の映像が毎日のように目に入っていたからだ。
当然、私も『死』を意識して不安であった。何より怖かったのは息子もそうなる可能性がある、ということだった。
それでも、すぐに病院に行かなかったのは、このような恐ろしいウィルスを体に抱えていることを知られたら社会的に抹殺されると思ったからである。当時は魔女狩りのように、コロナ陽性者は名前、住居を特定され広まっていた。魔女狩りにあったコロナ陽性者は嫌がらせに遭い、自殺した、引っ越しした、といった噂も流れていた。また、感染しているとわかった瞬間に、当時小学生の息子が私から離され一人隔離されるのがとても不安であった。
日に日に私と息子の症状はきつくなり、世間から魔女狩りに遭おうが『死にたくない』という思いの方が強くなり、葛藤の末、病院に行く決意をした。いきなり親子引き離されないよう、息子は家において、まずは私1人で総合病院Aに行くことにした。
2020年3月3日 発症して初めての診察。
コロナ亡霊①
症状を話すと、総合病院Aの医師はこう言った。
「あなたはコロナやな。武漢で医師をしている友人から聞いているコロナ症状とあなたは全く同じや」
「あなたがここにいるだけで、正直めっちゃ怖いわ」
と何回も自分のマスクに隙間がないか確認していた。
私は、医師にコロナ認定されて、当然、PCR検査を受けられると思ったのに受けることができなかった。
「今は保健所が認めた人しかPCR検査は受けることができない。
民間でもPCR検査が受けられるように政府が調整しているところだ。
そうなったら、どこの病院でもすぐにPCR検査を受けられるようになる。
まずは保健所に相談しなさい」
診察が終わり、私は感染者として扱われ、他の人と会わないように別室に通され、そこで会計をした。私が触った箇所は看護師が数人がかりで消毒していた。
病院でPCR検査を受けることができず拍子抜けであったが、保健所に電話をしたらすぐにでもPCR検査を受けることができ、私と息子は適切な治療を受けることができるという安堵の気持ちだった。
早速、病院の帰り道、保健所に電話をした。
コロナ亡霊②
保健所に連絡をすると、PCR検査を受けることができて、親子共々、治療が行われると思っていた。連日、朝から夜までコロナのニュースが流れ、政治家は感染対策に奔走して国民は当然に守られると思っていたからである。
しかし、その期待は裏切られた。
電話をして「医師からコロナの症状だ」と言われたこと「PCR検査を受けさせてほしい」と伝えると、思いもよらない言葉が返ってきた。
「4日間以上37.5℃以上ある人しか受けることができません」
私は最高でも37.0℃しか出ていないので、受ける権利がないというのです。
息子は37.5℃以上の熱が続いていた。息子だけでも治療を受けさせたくて
「息子は37.5℃以上の熱が4日以上続いています。息子だけでもPCR検査を受けさせてください!」
と言うと、しばらく間があり
「渡航経験とクラスターがあったライブに行っていない限り受けさせることができません」
医者がコロナだと言っているのに、PCR検査を受けられないということが理解できなかった。当時コロナは『生きるか死ぬか』のウィルスで、そのコロナに小学生が感染した疑いがあり、保健所のルールの37.5℃以上の熱が4日以上続いているのに、助けてもらえない。言い表せないくらい怖くなり震えた。
それから、ニュースを見る目が少し変わるようになった。
政治家がテレビで連日のように叫んでいた。『濃厚接触者をしらみつぶしに探す』『感染対策を強化』『PCR検査を拡充』
国民を怖いウィルスから守るべく美辞麗句を並べているけれども、私たち親子は守られていない。見捨てられた。私たちがウィルスを巻き散らす可能性もあり、そのウィルスで国民全員がコロナにかかるかもしれない。これは国民全員が見捨てられた、ということではないか?
今までと同じ世界にいるとは思えなかった。
そして、Twitterには、同時期に私たちと同じような症状で、保健所にも病院にも相手にしてもらえなかった仲間がたくさんいて『微熱組』『コロナ後遺症疑』『長期不調組』『検査難民』という名称を名乗るようになっていった。
総合病院Aの医師が言ってた通り、民間でもPCR検査ができるようになった。
早くに息子に治療を受けさせたくて2020年3月6日、息子をつれて、親子でかかりつけのクリニックBに行くことにした。
コロナ亡霊③
クリニックBには12年通っており、信頼できる先生であったため、正直に全てのことを話した。症状がきつく死の恐怖があること、PCR検査を受けて陽性であれば入院して早く治療を受けたいこと。
すると、医師はこう言った。
「親子そろって自律神経失調症だね。
すぐに治るよ。
渡航経験やライブハウスは行ってないでしょ?
ならコロナのはずはない。PCR検査は受ける必要がない」
医師が明らかに嘘を言っているのはわかった。目が泳いでいるし、私が症状を伝えた直後、私たちから1m下がり、ずっとマスクを自分の手で押さえている。また、私たちが診察室を出るタイミングで「先生、もんさんを保健所に報告しますか?」と言う看護師に対して
「そうしてくれ。
あと、誰にも会わせないように処置室に通してそこで会計して」
と指示する医師の声が聞こえた。医師の指示通り、看護師は私たちを処置室に連れていき、そこで会計をさせた。待合室で他の患者にウィルスをうつさないための配慮をしたのである。
保健所だけでなく、医師にも検査を抑制させている何かの力が働いていることをこの時はっきりと感じた。
私と息子の症状はきつくなるばかりで、本当に命の危険を感じるようになっていた。肩を上下しないと息ができないほど苦しく、生き残るためにはなんでもできる気持ちだった。
親子そろって同時期に自律神経失調症になった納得できる理由を聞こう。どうして私たちは他の患者に会わないように処置室に連れていかれたのか先生に説明してもらおう。なぜPCR検査を受けることができないのか聞こう。
そう思い、2020年3月16日 息子を連れて再びクリニックBに行った。
受付で私たち親子の顔を見るやいなや、長年知っている看護師が言った。
「もんさん、もううちに来ないで。
総合病院Cの紹介状を書くから、そこで診てもらって」
私たちは従うしかなかった。紹介状が用意できるまで、前回通された処置室で待たされた。
もう確信していた。病院も保健所も信頼できないし、助けてくれないと。
どうやって息子を守るか、そのことで頭がいっぱいになっていた。
2020年3月17日、紹介された総合病院Cに息子と行った。保健所も医療機関も信用できなくなっていたので、医師とのやり取りはスマホのボイスレコーダーに録音する気でいた。
コロナ亡霊④
小学生の息子は小児科、私は内科での診察。
最初は小児科で息子の診察。症状を問診票に記入した。問診票を見た看護師は私たちを待合室から『感染室』と書かれている部屋に移動させた。
感染室に医師が入ってきた。その医師はテレビで見るような感染対策が万全の格好をしていいた。問診票を見た医師は
「お母さん、これは仮病です。
病気ではありません。
この年齢ならよくあることです。」
とだけ言って診察を終わらせようとした。
私は、大きな病院を紹介され、感染室で長時間待たされた挙句のこの診断に脱力してしまい
「こんなにしんどそうなのに、検査もせずにどうして仮病と決めつけるのですか?」
と言うのがやっとだった。なんとか粘って血液検査だけはしてもらったがPCR検査を受けることはできなかった。私と息子は待ち時間、診察、血液検査、診察後の待ち時間、会計も終始、感染室で待機させられて、外に出ないように注意された。
仮病だというのに、感染室に閉じ込められる、はっきりとした違和感。
私は息子を感染室で待たせたまま内科で自分の診察を受けた。息子の診察後で不信感が募っていたこともあり、ボイスレコーダーで医師との会話を録音していた。
総合病院Cの医師も『自律神経の異常』で終わらせようとした。
「コロナではないか?」と聞いても
「コロナではない、渡航経験は?
大阪のライブハウスに行ったの?
行っていないのならコロナではない」
の一点張りだった。
「息子も同じタイミングで同じ症状なんです。
海外のコロナの研究結果も目を通していますが、全く同じ症状なんです。
どうして違うと言い切れるのですか?
検査もしないでどうして違うと言えるのか?」
と聞いても、「コロナではない」と言い張るばかり。
私は医師個人や病院などの小さい単位ではない闇を感じ始めていた。それを知りたくなった。
「私は先生との会話を録音しています。
この会話を公にして、検査もせずにコロナではないと言い張る先生について第三者の意見を聞こうと思います。
先生は心から私たち親子は絶対コロナではないから検査をする必要がないと思っているのですか?
命の危険はないのですか?
私は人と会ってもウィルスをうつすことは絶対にないのですか?」
と医師にボイスレコーダを向けて聞いた。
すると医師はこう言った。
「正直な話、あなたをコロナだと思っている。でも行政にPCRを受けさせないように厳しく言われているから、こう言うしかなかった。血液検査、胸のレントゲンは検査するから、異常がなかったら、もうPCR検査は諦めてくれないか?」
医師の言葉に呆れるより、心の中ではこういうことだと確信していたので、正直に言ってもらいすっきりした気持ちになった。
結局、血液検査、レントゲンに目立った異常はなく(CRP値は高かった)
「PCR検査を受けることは諦めてくれ」と言われ、総合病院Cでの診察は終わった。
医師個人への憤りというより、もっと大きなものに対しての不信感、医療・政治・行政といった心から信じていたものにに裏切られたショック、誰も助けてくれない孤独感、
死への恐怖感、何よりも一番私を苦しめたのは、大事な息子が得体の知れない病気にかかったにも関わらず助かる方法がわからない絶望感
家庭内隔離が1カ月間経った頃、夫の外出時に初めて寝室を出てリビングに入った。テーブルに置かれている薬を見て、夫も感染して私たちと同じような症状に苦しんでいることに気づいた。そこで家庭内隔離は終了して、そこから家族3人で助け合って暮らしていくことになった。
その後、家族合わせて20件ほど病院を回ったが、どこも同じような対応であった。症状を告げると、待合室ではなく、別室に案内され「渡航経験がないからコロナではない。PCR検査を受ける必要はない」と言われる。私達家族が座っていた椅子だけ消毒される。
最初に「あなたはコロナだ」と言った総合病院Aの医師の元へも再び行った。
「あれは、間違いだった。
あなたはコロナではない。
PCR検査を受ける必要はない。
これ以上、コロナだと言い張るのだったら、他の病院に行ってくれ」
と、大学病院Dを紹介されることになった。
大学病院Dに紹介状を書くための条件は
’’コロナにかかったと決して言わない、
PCR検査を受けたいと決して言わない’’
ことで、何回も「絶対言わないでよ」
と念を押された。
ずっと悪い夢を見ているようだった。これだけ世界中でコロナ騒ぎをしているのに、誰も私たち家族をコロナだと認めてくれない。死を感じるほど辛い症状が続いているのにどこの病院も相手にしてくれない。寝たきりなのに行政に頼れない。コロナ後遺症が外国では大きく報道されているのに、日本では全くニュースにならない。これだけ通信が発達している2020年に。
こういう状況だったのは、私たち家族だけではなかった。当時、私が唯一の心の拠り所にしていたTwitterには私たちのような人が沢山いた。ずっと声高に『助けて』と叫んでいるのに全く届かない。私たちはコロナ亡霊でした。
コロナ亡霊その後~現在
私と息子は2020年8月に急に体の脱力で起き上がれなくなった。私は感染性慢性疲労症候群、息子は起立性調節障害と診断された。
私は体調に波があり大きく回復した時もあったが、今はあまり歩くことができず、車椅子生活をしている。手足は常にしびれており、ベッドから起き上がれないような日が月に数日ある。息子は少し動くだけで疲れてしまい学校に通わずフリースクールに通っている。夫は家族の中では一番動くことができるが、息苦しさが残って、あまり長く話すことができない。
それでも2020年の発症時よりは毎日機嫌よく生活している。
発症から1年間は毎日泣いて過ごしていた。突然、家族全員が病気になり、誰にも助けてもらえず、将来に希望が見いだせなかった。健康な体に戻るために効果がありそうな治療は手当たり次第に試した。その中の1つ、代替医療機器を使ったセラピーで精神的にも体力的にも大きく回復したので、今はその機器を使ったオンラインサロンを開いている。
前述したように、『健康でなくても心も金銭的にも豊かになれること、どのような境遇であっても幸せになれること』を息子や同じような境遇で苦しんでいる人に証明して私が一筋の希望になればいいと思ったからである。
1年前の私は、政府・行政・医療に対してずっと怒ってばかりだった。
『助けてもらえない』とずっと受け身の姿勢で。
でも、選んだのは私たち。人を変えようとするのではなく、自分が行動をして状況を変えたくなった。
今、コロナを巡って世界が分断している。
コロナは善悪2つの見方しかできないのか?
自分が見て、考えていることが真実なのか?
コロナ亡霊の私たちもコロナ亡霊としての世界からしか物事を見ることができていないのではないか?
私達の2020年の恐るべき体験の裏で、救われている人もいるのではないか?
悪人と私が決めつけている人は本当に悪人なのか?
自分のことしかわからないのに、どうしてそう言い切れるのか?
私はコロナ亡霊になって、本当に辛いことばかりだったのか?
家族・友人に助けられ、心からの感謝ができるようになった。
新たな出会いがあった。
知らない世界を知ることができた。
起業をして今までで一番楽しく働いている。
病人としての経験を商売で活かしている。
夫が料理をできるようになった。
子どもに『好きなことをして生きなさい』と心から言えるようになった。
もう、文句ばかり言いたくない。自分の人生を人に任せたくない。自分がこうありたい世界は自分で創ることにする。だから皆に平等で優しい社会を創るために新たなコミュニティーを創設すべく行動を開始した。
こう思えるようになっただけでも、コロナ亡霊になった甲斐があった、と今は強がって言っておく。
将来、心からそう思える日が来ることを願って。
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