コロナ禍で存在を消された私たち コロナと虚構~認められず治療に辿り着けなかった日々~

検査難民
発症月:2020年2月
ペンネーム:紺

2020年2月より

私の軽い咳、目の充血から始まり、翌日娘が喉の痛みを訴え、二日後に夫は、勤務中に立っていられない程の、バットで背中を殴られたような激しい背中の痛みと頭痛に襲われ、会社を早退。その翌日、息子も首のリンパが腫れていると訴えた。

娘と息子はその症状のみで元気に過ごしていたが、夫は38℃前後の発熱が上がったり下がったりの繰り返しの日々になった。
私は発熱はなかったものの、空咳と吐き気、倦怠感など日に日に症状が増していた。

夫の場合

夫は発熱が、当初の規定であった四日を過ぎても症状が消えず、保健所に何度も相談するも、渡航歴、湖北省の人との接触がなければ、さらには接触したという証拠がなければ、検査対象外とされた。
五日過ぎても熱は下がらず、夫は会社で健康診断をしてもらっている病院や、総合病院を受診した。総合病院では、PCR検査以外での検査は出来、インフルエンザは陰性、血液検査の結果からは細菌感染の可能性はなく、

「何らかのウイルスに感染している」

と言われた。
夫は会社を休み続け、いつになったら出勤できるかという判断が出来なかった為、数回に渡り、会社の担当医を受診した。
その医師からも、「何が原因で体調不良を起こしているのか原因を究明する事は大事だから」と、検査依頼の電話を保健所にしてくれた。

その当時、全く電話が繋がらない状況で1時間近く粘って電話をかけ続けてくださり、やっと繋がったそうだ。
そんな電話でも、保健所はPCR検査は頑なに検査対象外だとし、検査にはどうしても至らなかった。その為に、夫の病気の原因は不明のまま治療終了となった。
夫は約一か月間会社を欠勤し、血液検査の状態が良好である事を確認して仕事に復帰した。

私の場合

私は、酷い倦怠感以外にも心臓がチクチク痛んだり、夜中に悪寒で目が覚め、呼吸ができているかわからないような恐怖を感じる事が何度となくあった。
しかし、その頃発熱はなく、自分は軽症だと思い込んでいた。軽症だからそのうち、じっとしていれば治ると信じていた。二週目に入り、私も夫も治る状況にないこと、今までに経験した事のない風邪症状ということから、私はコロナに感染したのだろうという事は覚悟せざるを得なかった。
症状は消えかかっても何度も何度もぶり返していた。十日、二週間、三週間、、と、自分で目標を決め、その頃になっていれば良くなるだろう、、と信じ、過ごしていた。

しかし、ゴールポストは動かさざるをえず、消えかかってもぶり返しやってくる症状の波に、精神状態がおかしくなりそうだった。
咳は一日中している状態で、まだ自分は人に感染させるだろうと思えてならなかったが、発熱が続いていた夫ですら頑なに検査されずだったのだから、発熱していない自分が検査などできるわけはないと諦めていた。
いつか治るだろう、、とずっと信じて、家に篭って過ごすしかなかった。

その頃はまだ第一波で、コロナに対する偏見や差別がかなりひどい頃だった。
しかし、一部の友達には自分が感染しているだろうという事を伝えずにはいられなかった。

娘も息子も、卒業、入学の年だった。式には私は出ることができなかった。息子が幼稚園の頃からの友人やママ友が写真や動画を撮影してくれて送ってくれた。いつもと変わらず普段通りに温かく接してくれた事がとてもとても救われた。その反面、子どもの卒業式にいない自分がどう思われるか、親は参列できないのに、子どもは式に出席して嫌な顔をされないだろうか、非常識だと言われないだろうか、

その後に感染者が出た時に、自分のせいだと言われないだろうか、、

その時も恐怖でいっぱいだった。
息子の高校の合格発表は、高校に張り出される掲示板を一緒に見に行った。長い坂道を少し歩くだけで息が切れ、何度も立ち止まり、ゼーハーしながら並木道を歩いた。そんな思い出が鮮やかに目に焼き付いている。その時も、咳が止まらずにいたので、人が近づかないように常に離れた場所に行き、いつになったら治るのか、、不安で仕方がなかった。

そして三月末、意を決して保健所に連絡をする事にした。

自分もずっと治らない、
発熱こそしていないがずっと症状が出ている事、
夫は何らかのウイルスに感染しているとの診断を病院で受けた、、

などという話を保健所の方に説明した。話を一通り聞いてもらった後、保健所の方は事務的に、まずはかかりつけ医を受診するように、と私に言っただけの事だった。

どこの病院に行けば良いか悩んだ。
コロナ疑いで、私自身も間違いなく感染していると確信している状態で、診察してもらえるか、大きなハードルがあった。
悩んだ末、何年か前に受診したことのある医院に電話した。そこは過去に受診した事が有れば、診て頂けるとの事だった。患者が少ない合間に診て頂けると言われ、ずっと駐車場の車内の中で待機し続けて待っていた。高齢の患者が私を見て、「あの人自分らが来る前からおったな〜」と大きな声で話して行かれた。結局、患者が途切れることはなく、何時間も待ち、一番最後の診察になった。診察に当たり、医師は医師の方を見て話すなとまず私に言った。医師はしっかり話を聞いてくれたが、

「そのような市中で感染するわけがない。
レントゲンを撮影しても良いが意味がない。渡航歴、肺炎を起こしていなければ検査はできないし、発熱していなければ肺のCT検査は出来ない」

と言われた。要は、どうにもならないという話を聞かされて諭されただけだった。

「あなたはコロナではないし、今ある症状が治るのをただ待つしかない」

と説得され、話を聞いてもらっただけの為に何時間も待たされ、診察代まで払わされて、本当に馬鹿馬鹿しくなった。そのように言っておきながら、ふとした瞬間に医師の方を見て私が話をした途端に医師は慌てふためき、

「こっちを向くな」

と声を荒げた。言っている事と、態度が全く違うのだ。

結局ずっと微熱、咳症状、体調の悪さが続いていた。
学校は当時休校が続いていたが、家族内で風邪症状がある者は登校不可となっていた。
ずっといつか治るだろうと信じて篭っている日々だったが、二ヶ月、三ヶ月過ぎても治らず、でも学校は再開される。とても不安だった。更には心臓がザワザワするような症状もその頃出始めていた。
そのため、再度保健所に電話相談した。その保健所の担当の方は私の話を聞いた後、

「あなたの咳はコロナじゃない」

ときっぱり言われた。呆然とした。電話口の咳を聞いただけでコロナではない、とわかるのか、、。私が

「では子どもを学校にそのまま通わせても良いか」

と聞くと、

「それはダメだ」

と応えた。例の医師と同じだった。言っている言葉と判断が全く違うのだ。
結局のところ、また病院を受診するように言われ、前回行った医院に行ってもどうにもならない事はわかっていた為、前回とは違う医院を受診することにした。

しかし、病院に受診するのも大変だった。大抵が断られた。そのかかりつけ医は、ずっと貧血で薬を出してもらっていた所だったが、いとも簡単にうちでは診れないと断った。私はここで引き下がったら、ずっと引きこもって暮らしていた生活から永遠に抜け出せないような気持ちに襲われた。その電話が私にとってはいわゆる『蜘蛛の糸』だった。
正直、私は性格的には粘って食い下がるタイプではない。でも

「あなたのところで診て貰えなかったら、
私はどこに行けば良いのですか?
もう何か月もずっと治らないままで、
ずっと引きこもり続けているのですよ、
そんなに簡単に断らないでください!」

と必死で伝えた。本当にそのクリニックに断られたら、もうどこに行けば良いかわからなかった。「いつか治る」と信じていてもずっと治らない不安から、電話口で感情が溢れた。

その私の声を聞き、流石に可哀想だと思ったのか、電話を受けた方が院長に相談してくださり、なんとか受診に漕ぎ着けることができた。

感染から約二ヶ月過ぎていた。

レントゲン撮影では肺炎はなかった。そこで、診察終了とされ、咳止めだけの処方で帰されそうになった。医師に、「自分はずっと治らないので困っているのですが、、」と訴えたら、保健所に医師からPCR検査の依頼の電話をしてくれた。
今思えば、とっくに検査などしてもウイルスは検出されない頃だったのだが、やはりそこでも検査はできないと断られた。もうどうにもならないからと帰されそうになり、そこでもさらに食い下がり、懇願して、総合病院への紹介状を書いて頂いた。

Y総合病院

総合病院の入り口で、感染疑い窓口に自ら行き問診を受けた。その時も咳は酷く、咳をなるべく堪えていたが、看護師はとても優しく、

「我慢しなくて良い」

と私に言ってくれた。ずっと人に感染させたらどうしようという恐怖が付き纏う日々の生活から、フワッと白い雲に覆われているような安堵感をそこで初めて感じられた。
そして、問診の後、私はもう隔離の必要はないこと、一般患者と同じ待合に行けば良い、と指示を受けた。その看護師は、本当に親身になって寄り添ってくれた。待ち時間ツラいだろうから、飲み物を買っておくと良い、と丁寧に自販機の場所と、その病院が出している病気との向き合い方(記憶が曖昧)の書かれているコラムを私に教えてくれた。
(注:今は詳しく覚えていないのだが、看護師に教えてもらったその文章を読み、心理的にかなり救われたのは間違いなかった。強張っていた自分の気持ちがほぐれた内容であった。

呼吸器内科で呼吸器症状に関連するあらゆる検査を受けた。しかし、肺にも呼吸器にも血液にも明らかとなるような異常はなかった。咳止めを出されるだけであった。怠くて病院の待合室にたどり着くのもやっとなのに異常はないのだ。医師からは、

「あなたのようなコロナ患者はいない」

と何度も言われた。心がモヤモヤした。数ヶ月前に夫がこの病院を受診し、何らかのウイルスに感染していたと言われたのだと伝えても、医師はそのようにキッパリと私に言い切った。診察を終了するか、念のためホルター心電図をするかと聞かれた。

蜘蛛の糸が切れてしまう恐怖、やっと辿り着けた医療の糸がここで切られると感じた。
とにかく何でも繋がっていたいという思いから、お願いしますと応えた。その頃、自分の体調不良がどこにあるのかわからなかったが、脈の症状がどんどん顕著に出始めてもいた。洗濯物を干す事が苦しくてしんどくて仕方がないような状態であった。ホルター心電図では、頻脈と、不正脈が出ていた。
呼吸器内科から循環器内科に紹介して頂いたが、循環器内科の医師は、治療するかは微妙な範囲にあると言い、結局そこでの受診は終了になった。

だんだん諦めの気持ちも強くなって来ていた。どこに行ってもシャッターを閉ざされる、それが現実だった。

娘の異常がではじめる

私は自分の事で精一杯であった。
生活の一部に検温が当たり前になり、たまに娘が37.5℃以上の熱が出ていた。新中学一年生になり、制服で通うようになり、部活にも入部し、娘はキラキラ輝いていた。
しかし、だんだん疲れが明らかに見られるようになって来ていた。学校から帰宅して、夕飯も食べれず、朝まで寝てしまう日が増えてきていた。

娘の小児科医に何度も相談した。パルスオキシメーターで脈を測ると常に120超えていて、微熱も続いていた。感染から3ヶ月以上過ぎていた。私の後遺症の症状とあまりにも似通っていた。私は全て、感染疑いからの話を正直に小児科医に話した。
しかし、その医師は私に、

「仮にコロナに感染していたとしても、何ヶ月も前に感染したウイルスの影響があるわけはない、コロナの事は忘れろ」

と強い口調で言った。

「子宮頚がんワクチンの後遺症と同じで、あれもないものをあると言っているんだよ、、」

とまで。正直、私は娘の体調異常がウイルスの影響でなければその方がいいし、そうであって欲しくないと思っていた。
でも、ちょうど同じ頃に息子が腕がやたらと痛いと言い、その二日後に血管に沿って青痣が浮かんでいるのを確認した。目の前が真っ暗になった。息子も異常なほど眠るようになっていた。
思春期は眠いものだと言われるだろうが、子どもたちの日々の疲労は、そんなものではなかった。

私は娘に出始めていた体調不良はウイルスの影響によるものだと思うほかなかった。
しかし、私の体調不良にもイライラしていた夫は、

「医師の言う事が信じられなければ終わりだ。お前は頭がおかしい。」

と強く言い、いつも喧嘩になっていた。

しかし、私は知っていた。Twitterで繋がっている全国のコロナ後遺症、微熱組の方々は、医師の前でコロナというワードは言ってはならないという共通認識に至っていた。まさしく同じであったのだ。
あからさまに医師が嫌がったり、煙たがられるような態度をしていた。

あちこちでそんな目に遭い、総合病院に紹介状出されて受診した時も、脈拍がこんなに速くなると訴えた救急の医師に、

「僕もランニングしたらそれくらいの脈拍数になりますよ」

とApple Watchを見せられた事もあった。
それが医師の言うことなのか、、、。私と娘の病院不信が確立された。

そんな社会にモヤモヤしながらも、いつか治るだろう、気にし過ぎは良くない、医師の言う事も信じよう、、と、疲れたら休ませながら心配し過ぎないように症状が消えていくだろうと楽観視する事に努めた。相変わらず、私もほぼ一日中横になって過ごす日々を送っていた。

Twitterでは、いつも自分の不安定な気持ちを吐き出して、消化していた。仲間もどんどん増えて、貴重な情報交換の場となった。
皆、救いの手が差し伸べられなかった人たちで、沢山励まし合って時間を過ごしていた。子どもはコロナに感染しない、とか、感染しても風邪以下だと言っている専門家は全てウソだと思った。自分が現実に体験している事とテレビから流れてくる情報の違いに違和感しかなかった。娘と同じように怠くて動けなくなっていた子どもを持つ保護者の方が何人もいた。みんな、日々泣いていた。我が子だけはという気持ちで溢れていた。

2020年秋から

私はTwitterで自分の事も、娘のこともずっと訴え続けていた。もう不幸は十分だと思っていた。被害者を増やしてはいけないと思っていた。
私のツイートは、何度となくバズる事があった。

『こんな親に育てられて子どもが可哀想だ』『お母さんがそんなふうだから病気になる』『無症状から後遺症!?キターー笑笑』

などと、酷いリプを沢山受け取った。

同じツイッター仲間の方が見兼ねて、私に平畑クリニックを受診してはどうかと助言をしてくれた。娘は、どんどん休みがちになり、すぐに平畑クリニックのオンライン診察を受けた。平畑先生に、娘は直ちに運動をやめるように言われた。その頃、娘はかなり無理して頑張って生活していたのだと思う。平畑先生に繋がっていたのだが、それから娘の疲労は後戻りできないまでに蓄積され、12月中頃から娘は寝たきりのような状態にまでなってしまった。そこから、中1の3学期は1日も出席する事が出来ず終わってしまった。

娘の表情からすっかり輝きは消えていて、目の下にはクマができ、いつも疲れて怠く、一日16時間以上の睡眠を二ヶ月以上過ごしていた。

愛する子どもが、、それまでキラキラ輝いていた子どもが、そのような状態にまでなってしまった。心も身体も全て光を失ってしまっていた。
わからない事が多すぎていた。

楽観できた事など一度もなかった。

ただ、このわからない症状を受け止めて、聞いてくれたのは当時、平畑先生だけだった。

2022年1月現在

現在、2022年1月、振り返って当初の事を書き綴っている。今も娘は疲れやすく、歩いての登校は不可能で、毎日送迎して学校に通っている。夏までは半分くらいの日数を欠席していたが、徐々に出席出来る日が増えて来ている。ただ、疲れは相変わらずで、夕食も食べずに朝まで眠ってしまう事はしょっちゅうである。集中力も失い、体力的に学校に行くだけで精一杯な為、娘は塾に行くことなど不可能で、テスト期間中でも試験勉強する事がかなり難しい状況にある。

別件で、2021年9月に、愛犬のルウの癌が判明した。T細胞由来の癌だと言われた。
同12月に、夫が動脈乖離から動脈瘤になっていた。心臓の手術を行った。

感染初期、夫が勤務先で激しく痛みが走ったそれは、心臓から顎にまで乖離が起きていたという事が、感染から一年半以上過ぎて、健康診断での心臓の雑音からたまたま判明した。
奇跡的に夫は助かったのだと知った。ルウも奇跡的に、余命一、二ヶ月だと言われながらも今もまだ頑張って闘病中である。

私は、、

今もなお怠くて動けなくなったり、腕の痺れ、頻脈などがある為に、地元の後遺症クリニックを受診中である。抗体検査も陰性のため、コロナ後遺症かどうかはわからないとされつつも、今の自分の症状に向き合って頂き、話もしやすい環境でとても感謝している。

コロナ後遺症がだんだん認められるようになり、県内の総合病院にコロナ後遺症外来が出来たとき、私はすぐに問い合わせたが、検査で陽性になった方のみを対象にしているから、と言われた事がある。検査されていなければ、陽性者でなければ、なかなか治療にも辿りつけないのが現実だった。コロナ感染疑いから一年半過ぎていた。

コロナ後遺症になり

とにかく時間が、ただ、ただ過ぎる事を待っていた。重怠く動けない時間、不安と閉塞感、光の見えないトンネルに入り込んだような日々。
時間が過ぎればその時の辛さは軽減していくであろうと信じるしかなかった。しかし、コロナに関して楽観的な情報はほぼないのが現実で、流れてくる情報は絶望感しかなかった。さらに上記のごとく、話をまともに聞いてくれる医師は当時はいなく、【コロナ】、そして【感染してしまった自分】と、まともに向き合う事を避けながら、自分を誤魔化しながら過ごしていた。

朝目覚めると、涙が出て辛くて起きられない時も何度もあった。そんな時は音楽を聴いたり、外に出て空気を吸ったり、空を眺めたりした。

コロナに感染したという証拠は私にはないが、明らかな症状があった事は間違いなく、健康を失ってしまった自分もいる。

【今日の幸せ】と題して毎日その日にあったささやかな良かった事を3つツイートしていたりもした。

思いはただ一つ

二十代から三十代の頃、今から二、三十年程前。私は幼稚園の教師をしていた。教師としては散々だったけれど、みんなのお母さんとして、明るく元気に過ごしていて欲しいという願いが常にある。自分の成長した教え子はハツラツと過ごしていますように、、自分のツイートが教え子たちにも届いて欲しい、、という願いから、毎日自分の今ある状況をツイートしていた。これ以上自分のような被害者、健康を失った人が増えてはならないと、後遺症の現実を知って欲しかった。

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