コロナ禍で存在を消された私たち 検査難民となって

検査難民
発症月:2020年2月
ペンネーム:ポウ
居住地:中部地方

1.発症。保健所は検査に対する鉄壁の防御。

二月下旬。既に、厚労省のコロナ相談窓口はあった。新型肺炎の症状として当時有名だった「空咳」「四肢のだるさ」「倦怠感」「下痢」その他の症状が私に始まったので、コロナだろうから蔓延させてはいけないと思い、速やかに電話をしてみた。症状を話すと電話口の方が大変心配してくれた。しかし、

「海外に行っておらず、武漢の人と会ってないなら、あなたはコロナではないです。
なんらかの感染症です。様子をみてください」

と言われる。そんなものかと思い、従う。
ところが時間を追うごとにどんどん症状は奇妙に変化していくし、激しかったり弱まったり、人生で初めての異様な体感なので恐ろしくてたまらない時間を過ごす。

翌日。管轄地域の保健所にコロナ相談の窓口があったのでそこにも意を決し電話をしてみる。多数起きている私の症状の数々を聞き、保健所の方もやはり大変心配してくれたので、私はやっとここでPCR検査を受けることができ、何かしら手助けを得られるのではと期待すると同時に、田舎であるため、村八分に合うのではと不安も抱いた。実際、のちに、山梨県で陽性確認された女性が誹謗中傷の嵐に会っているというニュースも出た。
だが私の心配をよそに保健所の方は、

「何歳ですか? 高齢ではないのですね。
基礎疾患はありますか? 無いのですね。
37.5度以上4日間熱は出続けていますか? 出ていないのですね。
帰国者では無いのですね。
武漢の人に会いましたか?
高速のSAに中国の方が沢山いた?
名前のわかる武漢の方と一緒に過ごした訳では無いのですね。
では、あなたはコロナではありません。
何かしらの感染症ではあると思うので、風 邪の時と同じ対策をとってください。
買い物に行きたい? ではスーパーに行く時はマスクをしてください。
子どもが学校に行っている?症状ありますか? ないのですね、では問題ないです。」

と、結局取りつく島がなかった。
すでに全国的にコロナ疑い症状者向け対応マニュアルがあったのだろうとしか思えない。
この頃の検査数は県で日に数件程度。
コロナ病床は当時50ほどだったと思うが、ほとんど空いていた。入れて欲しかった。

2.未知のウイルスと一人闘う私。無力な医療機関

当時、頭痛薬についてイブプロフェンは合わないだとか、色々不安になる情報もあり、未知のウイルスと闘っている体に入れた何がどんな悪影響を及ぼすか分からず、のちにカロナールは医師に頼んで処方してもらったが、結局飲むことはなかった。頭痛持ちの私ですら体験したことのない強い拍動とともに急性期的発症中に起きた頭痛。丸一日苦しんだが突然何もせず消えてしまう。薬を飲まずに済んで助かった。なにしろ、飲んだ薬が何を引き起こすか分からなかったから。薬で死ぬかもしれないと想像しては恐れた。

日替わりで、次々新しく激しい症状が出ては消える。一度に体感できる症状は三つ程度まで。その三つが入れ替わり立ち替わる。

なぜか、急に症状が軽くなりスタスタと歩けてしまったりする。普通の風邪ならフラフラしている時は治るまでフラフラなのに、この病気はなぜかふっと少し全身楽になる。
しかし、数時間後には熱感と倦怠感で起きていられなくなる。さらに私は出産後に気付いたが、体質的に体温を測れなくなっている。
なので、熱が出ない。激しい高熱の体感があるのに、いくら測っても平熱である。

激しい謎症状に耐える毎日の中、数日経った頃のある晩、突然喉の辺り、気管がどんどん塞がるような狭まるような感覚が襲い、実際息が吸いにくくなっていき恐ろしくなり、救急のある病院に、どうすべきか問い合わせた。

「コロナ疑いの症状があると、こちらの病院に来てもらっても受診できないと思います。息が吸えなくなったら、救急車を呼んでください。
コロナ疑いであることを救急隊に告げてください。でも、コロナ疑いの人は救急で運ばれても病院に入れないです。あとは救急隊の方がどうするか…に任せるしかないです。」

と電話口の看護師の方に言われる。
この気管の症状が恐ろしすぎて冷静にモノを考えられず、それだけ話して大人しく電話を切ったが、果たして息が吸えなくなったその時に119にかけてしゃべれるのか?
中学生の子どもに頼むのか?
息が吸えなくなって苦しむ私の姿を晒すなど子どもに怖い思いをさせて大丈夫なのか?
混乱する頭では考えがまとまらなかった。
たまたま急に喉は落ち着いてきたので事なきをえた。

その後も引き続き熱感も強いし、四肢もだるいし、全身も重いので動けず何日も大人しく横になっていると、息が吸えなくなるという症状が度々突如襲うようになる。その度に怖くてたまらず、助けを求めて保健所に電話をしてみるが、だんだん面倒そうな対応の方が増えてくる。

「あなたはコロナでは無いので、普通の風邪同様に過ごして家で寝ていてください。」

お決まりのセリフを何度も吐かれる。

「医師の診断がないと、コロナかどうかわかりません。病院へ行ってください」

と言われる。医師の診断がないとコロナかどうかわからないそうだが、なぜか保健所の職員が「あなたはコロナではありません」と診断してくる。

田舎で病院にかかったら、コロナであることがバレるので、村八分にあい、子どもの学校生活も全部めちゃくちゃになると思うと、怖くて受診をためらう。
しかし、遠方の夫が「病院に行け」と勧めるので、少し心が強くなり、医師には守秘義務はあるはずだと信じることにして、噂を恐れ自宅から少し離れた病院に行ってみる。症状を話すと、私はコロナのコの字も出していないのだが、医者から

「コロナは世界でもまだ治療法もなく…。検査も現状難しくできない。様子を見るしか無い。」

と言われる。二月末のことだ。数日前に頭が割れそうな頭痛があったので、なんとかカロナールだけお守り代わりに処方してもらう。結局怖くて飲まなかった。

3.休校措置と、新型コロナに高揚する世間、そしてはじめての仲間の発見

この頃、私にとっては天の助けとなる休校措置を政府が発表。
私は絶対に新型コロナにかかっているが、確定診断は得ようがないし、村八分が怖くて人にも相談できないところに、何日かに一度30分ほど連続で咳が止まらない時間があるという謎症状以外ほぼ無症状の子どもは登校しているが果たしてそれでいいのか、保健所は登校して良いというが私は良いと思えなかったので、ここでも気が狂いそうだったのだが、突如自然に学校に行かなくて良くなったのだ。天の助けだった。無症状感染しているかもしれない子どもがすでにウイルスを撒き散らしているかもしれないのが毎日怖くてたまらなかったので、心底ほっとした。
当時の政権に好印象は持っていなかったが、この点だけ、私は感謝をしている。世間はこの休校措置に迷惑な視線を抱いていたようだが。

休校直前、子どもに小さな蕁麻疹が出始めた。「蚊に刺された」と言ってきた。ここは寒冷地。三月などまだ冬の気候。蚊が出るわけがない。やはり子どもの身体もウイルスと闘っているのかと思うと不安でたまらなかった。不安で力が抜け、人生で初めて、膝をガクッとついて崩れ落ちてしまったりした。
やはりあの続く、時おり起きる咳の発作も、コロナの症状なのだろう。やはり、この子も無傷ではなかったのか。以後一年ほどこの発作は続く。また、休校措置が終わる頃から、子どもに痰が絡まり始め、数ヶ月痰が続いた。

近隣で感染者が発見されたニュースが流れた時、学校ボランティア活動のメーリングラストのメンバーから「出たーー!」というメッセージが流れてきた。
恐ろしかった。こんな化け物のような言われ方をする病気を発症しているにちがいない自分は、やはり化け物なのだろうと思うと怖くてたまらず、震えた。
知人は感染者に対し「出たー」という調子だし、ニュースもそんな様子。都会ナンバーの車は「県外車」と白い目で見られるらしい。症状もちっとも治らない。これが、当初我々検査難民の間では「治らない、後遺症がある」と認識されていたいわゆる「後遺症」。

その後遺症でおさまらぬ症状に、まだウイルスを撒き散らし続けているのでは?私は接触すると周りの人もウイルスまみれにして化け物にしてしまうゾンビのような化け物なのでは?という思考が止まらず、実際そのように見られるであろうし、行政や医療に助けを求めても無碍にされるし、疎外感がたまらなかった。たった一人だと思った。

そんな中、私の心の支えはTwitterの中に見つけた同病の仲間だ。発症しているのに行政から阻害されて放置されているという埼玉県の猫アイコンの方の

「業を煮やしたので書きます」

という訴えのツイートを病床で見つけガバッと飛び起きた。私は身バレを気にし、普段とは別のアカウントを速攻で立ち上げてその方をフォローし症状を綴った。そこで見つけた仲間達と苦しい症状を呟き合いながら、対策を声掛けあい、助けあった。今でも彼らに感謝してもしきれない。
 

4.ライフイズビューティフルの父親

ナチス占領下、迫害され収容されてしまったユダヤ人父子の様子を描いた映画がある。私もこの父親のように、子どもに不安を抱かせずにさまざまな危機を乗り越え子どもを守りたいものだと常々考えていた。
しかし、実際は困難だった。元を辿れば東日本大震災での東電原発事故による放射能汚染だ。あの当初、私は不安になりネットに釘付けになった。子どもにもその不安が見えたと思う。今までそんなことを言ったことがないあの子が「お母さんだぁい好き」と私を不意に抱き締めてきたのだ。幼稚園児だったあの子は私を安心させたくてそうしたのだろう。以後「大好き」と子どもが大人に伝えるということは、大人はその子に不安を与えている可能性も、時にはあるのだと気をつけるようになった。

しかしだ。このコロナ発症の苦痛をなるべく子どもに気取られたくなかったが、土台無理な話だった。よれよれのボロボロでフラフラとマスクをいつも外さずあちこち消毒しつつ家事のために居間に時折出てくる私。
一度、呼吸困難で、救急車を呼ぼうかどうしようか携帯を握り締め床でうずくまりながら怖くて泣いているところを目撃され、「お母さんどうしたの」と声をかけられてしまった。幼稚園の頃と違い、私を我が事のように心配してくれるようなことも幸いなくなっていたので、あまり子どもに精神的なダメージを与えないで済んだようだが、それでも、毎日コロナのことばかり話してしまう私は、子どもに悪影響だったと思う。家に大人は私たった1人だったし、これ以上どう耐えて良いかも耐える気力もなかったのだ。

5.親しい人たちへの自分の無力感。

村八分が怖くて、知人友人遠い親戚に、寝込んでいることを悟られないようにしていたが、一人だけ、親友と思っていた人から発症数日後たまたま連絡がきたので、感染し激しい症状に苦しんでいると打ち明けた。
「具合はどうか」など気にかけてはくれたのだが、現在、彼女との縁は完全に断っている。きっかけは、彼女の出身地に感染者が見つかった2020年12月、その感染者のことを「コロナに感染したバカ者」と表現してきたことだ。ということは、私のことを感染したバカ者と根っこで思っているのだ。
ずっと、

「感染した人は悪くない、政府の無策で感染させられた被害者だ」と私は彼女に伝えていた。

感染者の行動を責める風潮が世間にあるが、ロックダウンもろくな検査体制もない中、感染を防ぐのは不可抗力だと私は伝えていたのに。伝わっていなかった。

それまで、親友ということで、色々と見ないようにしてきた部分があったことに気づいてしまった。コロナ感染による急性期の激しい頭痛の日は、彼女の浮気の相談にメールで答えていた。「別れたら、呪われるかしら」とたいそう不安がっており、呪うなどという力はその人には無い、と真面目に返信した。今思うと、もしあの時私がキュッとうっかり死んでいたら、実際、キュッと死にそうな、身体が地の底に沈んでいき内臓の働きが静かにすっと止まりそうな体感が当時よくあったのだが、私の最後の言葉は、呪いがどうのという返答なわけで、あまりに愚かすぎて、生き延びることができたことに胸を撫で下ろしている。
あれが家族に見られていたら本当に情けなく申し訳なかったろう。だが、生死の境を度々感じる状況において、この世に健康に生きている人とのちょっとしたやりとりは、「生」に対して自然に静かに諦めを感じ、「死」を受け入れつつあった私にとって、唯一の、この世とのつながりの最後の一筋にすら感じられたので、必死にその一筋の糸を握りしめてしまっていたのだ。冷静な判断力や、思考力がうまく働かないのも当時の私の特徴だった。
その親友には、

「新型コロナには後遺症が起きて、なかなか治ってくれないし、その症状は、急に息が吸えなくなるなど、生命の危機を感じるようなものだ」

と伝えたはずなのだが、右から左に受け流されていたらしい。数ヶ月後、後遺症患者が携帯を握り締め、救急車を呼ぶかどうするかの体調の緊急事態に家で右往左往しているニュースの切り取り動画を「気の毒で涙が出た!」と、「見てみて大変だよ」というように、私に送ってきたのだ。「そうだよ」とだけ返信した気がする。

三月、ソフトバンクの孫さんが「PCR検査を用意できる」とツイートした時、検査難民の私が狂喜してそれを伝えると

「検査はしちゃダメだよ。検査したがる人が殺到して陽性者が増えて医療崩壊が起きてしまうよ!」

と、私を谷底に突き落とす意見を並べてきた。当時確かにそうした論調の人たちが、コロナは風邪と言い張る人たちなどから巻き起こっていたと思うが、それを私にそのまま投げかけてくるなんて。
また、「後遺症ってどんなのなの?」と説明したはずなのに聞かれた。その後も私の収まらない咳についても

「咳喘息だよね」

とか、そこはかとない具合の悪さも

「運動不足の自律神経失調症じゃない?」

とか、時おり言ってくることがあった。
親友をして、私の言葉が届かないのかと、なら誰に何をどう伝えればわかってもらえるのかと、うなだれたものだ。

実母にしても、「コロナに罹った、大変なのだ」とメールや電話で伝えても、もう70代も半ばで、いまさら娘の体調不良などに向き合う気力もないようで、話を逸らされる。実の母ですら聞きたく無い、面白くも何ともない話なのだなと認識した。

急性期中、突然死にそうな体感になる恐怖から、携帯のメモに、夫と子どもにメッセージを書き残した。遺書だ。最後に何か伝えておくべきと思った。

5月頃からか、私の状況を何も知らない友人から連絡があるたびに、

「実は私、検査難民だった」

という話を後遺症で困っていることと共に伝えてみるようになった。1人は良くなりますようにと寄り添ってくれた。1人は

「更年期障害じゃない?」

と、コロナに感染したという話をまともに聞いてくれなかった。1人は心配してくれている様子だったが、別の日に「親しい人や周りにコロナに感染した人は一人もいないから、私は感染対策を緩める」と言ってきた。私は親しい人ではなかったのか…。一人は、はなから話を逸らしてきた。一人は「今度検査難民だった時の話聞いて!」と伝えたらそこから返信がない。

また、SNS上で、知人が、「コロナはインフル程度!ただの風邪!」と連日発信しているのを見かけた。彼女は基礎疾患持ちで、私の病状も伝えてあったのだが。
人は恐怖に耐えられなくなると、その恐怖の元から目を背け、無いことにしたくなる
らしい。
そんな、親しい人の言動を次々目の当たりにしてしまい、怖くなってしまった。

結果、私から他の友人に連絡する勇気がなくなる。苦しみや不安も分かち合えず、起きている問題を軽視する人々を間近で見るのが耐えられなくなった。体調も悪く、気力がわかないからかもしれない。以後、このパンデミック下だし、交友も減らしている。

6.発症後一ヶ月半の4月、医師と初めて少しまともに話す

とうとう息が吸えないことが何度も起きすぎて、頭がおかしくなりそうになる。あと1ミリ線を超えたら、訳が分からなくなり精神病院に入院して出てくることはないことになりそうという予感がして怖くてたまらず、総合病院に電話をしてみる。
症状を話すと看護師さんはとても心配してくれたが、

「あなたはコロナではないので。
高熱がないなら大丈夫ですから家で療養してください」

と言われる。この言葉は何度言われても慣れない。地獄の底に突き落とされた気分になる。
とにかくこの頃は息が吸えなくなるのが頻繁で恐ろしくて、もう一度最初受診したクリニックに行ってみた。すると正常な血中酸素濃度であったので、面倒そうに

「心因性ですよ」

と言われる。面倒なのだろう、PCR検査もする気はないはずだ。確かに、感染者を見つけたクリニックが、周囲から疎外されるというニュースも聞くようになっていた。レントゲンを撮ってくれたが問題なし。
しかし、「味覚も変だし」とポツリと言うと、医師と同席した看護師と2人して、その場に動かずにいるのだが、気だけ数歩とびすさったのを感じた。
「引く」とはまさにこのことだ。味覚障害はコロナで有名な症状だったからか。そうか、味覚嗅覚障害のあのリアルな体感を話すと、少しだけ無視しないでもらえるのかもしれない。

味覚嗅覚障害。鼻水は一切出ておらずカラカラで、詰まってもいないのに、味も匂いも感じないので、食事が喉を通らない。無理矢理口に放り込むが砂を噛むようで苦痛なのだ。その頃抗ウイルス効果のある精油をよく焚いていたが、どの精油も酸っぱい匂いしかしなかった。使用期限が一斉にきて変質したのだろうと思っていた。翌週にはそれぞれの良い香りに戻っていた。

やはり息が吸えないし、激しい動悸で脈は飛ぶ感じ、咳もひどくてしゃべれないしで、何度か問い合わせしているが診察してもらえていなかった総合病院に金曜の明け方電話をすると、「土日になってしまうと救急扱いになって、受け入れできない可能性がある。この後これから受付時間内に来て、病院の前で症状を電話で告げてください。息吸えないと心配なのでできればタクシーで」と言われた。自分で運転して行ったが、言われたとおり病院の前で診察希望の旨を電話で告げると、初めてこの病院でまともに診察してもらえた。このあと知ったが、病院には本来、応召義務があるのだった。だから、追い返せなかったなかもしれない。
「時期が時期だけに、コロナも心配だからちょっと色々調べましょう」と言ってもらう。駐車場で待って、症状を受付の人に電話で伝えて、外で熱を測って…最初ニュースで見かけるような厳戒態勢だった。しばらく車内で待っていると院内に普通に入口から入ってくれと言われ、普通に看護師さんに検査に案内される。待合も他の患者さんと同じだ。
インフル、マイコ陰性。CTで肺はツルピカ。ざっと血液検査。ここで、何かしらのウイルスの感染歴が直近であったことを追えた。最後の医師の問診で「PCR受ける?」と聞かれ、コロナ疑いの検査が強制でないことを初めて知る。

「二ヶ月近く経っているのに、検出されるのですか?」

と聞くと

「出ますよ」

とのこと。
村八分にされてしまうと話し、怯えて悩んでいると

「そろそろ緊急事態宣言が出ると思いますよ。どうせ屋内退避要請が政府から出る。もうあなた今まで一人で頑張ったし、PCRで陽性が出て今更2週間隔離しなくてもいいでしょう」

と、PCR検査を受けない方向に流してもらう。PCR検査は発症からこの日まで一ヶ月半ずっと受けたかったが、別に受けなくてもいいなら、そして、この病態で死ぬわけではないなら、このまま受けないでもいいのかなと思えた。
医師から

「息苦しいのは心因性だと思う。あなたに足りてないのは運動!軽く散歩とか運動して。」

と言われる。のちに、運動は後遺症で慢性疲労症候群を誘発する危険が高いことを知る。私はたまたま運動で悪化には繋がらなかったようだが、医師たちがまだ何も知らなかったとはいえ、未知のウイルス感染に対し、悪化させる療法を患者に気軽に勧めていたのだ。憤慨する。

7.外に出始めたGW

医師や友人など周囲から運動をしろとたびたび言われたので、感染から一ヶ月程度くらいから、子どもを連れ立って散歩を始めていた。田舎のためうろついても人に出くわすことがほぼないのでそこは少し安心だった。
しかし、10分も歩いてしまうとその午後はだるくて寝たきりである。激しい動悸も起きる。起き上がれなくなるのだ。
私はたまたま運動が酷い悪化を引き起こさなかったようで、10分の散歩を時間かけて徐々に15分に伸ばし、20分に伸ばし。GWの頃には小走りくらいはしていた。帰宅後、絶望的に寝込むのであるが。

一体いつから人と接触できるのかわからなかった。咳も続いているし、眩暈動悸息切れヒステリー球呼吸困難肺のザラザラ感軟便。胸の痛み、異臭症やら不整脈。さまざまな異常を体に抱えているので、ウイルスが体内にまだたくさんいて、ウイルスを撒いていると思っていた。
スーパーには保健所の人が「行っていい」と断言したとおり、たまに行ってはいた。マスクをして必要なもの以外触らずフラフラの体を引きずって。
ウイルスをばら撒いているかもと想像しては怯えつつ、でも、誰にもバレていないから、私が感染源と追及されることはないはずだし、私だって誰からいつうつされたのかさっぱりわからずこうなっているではないか、だから別にいいのだ、大丈夫だと自身に言い聞かせていた。
ところが、Twitterで東京の感染した方の発信を見てみると、発症から2週間で検査陰性を待たずに隔離療養施設からどんどん退院させられていた。なら私も、もう二ヶ月も経っているのだから出ていいでしょうよと思った。
だがまだ人との接触に、感染させてしまうかもという不安があり、きっと効果があるだろうと想像していた近所の鍼灸院にも足を運べずにいた。

GWも過ぎたある日、突然左足首に蜂に刺されたような激痛を感じ、立っていられずほぼ倒れるような形でうずくまる。それから三日連続、1日に一度その激しい痛みが同じ足首を襲った。「待ったなしだ」と思った。やはり、血栓症か何か、身体の中で何か起きている。病院は異常なしとして何もしてくれないが、異常がないわけがない。放っておいて良いはずがない、と、かつて腰痛の時に嘘のように治してくれた鍼灸院に連絡する。もうたぶん私には感染力はない、と信じるしか無かった。「例のあの病気だった気がするけれど、体の調子が治りません」と受付の奥様に話すと

「大丈夫ですか。その胸につかえた苦しさ、ぜひ和らげにいらしてください」

と力強く言ってくださり、こんなに魂に響く優しいいたわりの言葉を発症からいままで人からかけられたことがなかったので、切った電話を握り締め安堵して泣いた。


8.その後の私のリアルへの発信

県のコロナ相談に何度か「後遺症が治りません」と訴える。2020年の2月から3月にかけて何度も保健所に問い合わせ、検査を受けさせてくれと懇願するも、

「武漢と濃厚接触なし、海外渡航歴無しは対象外」

と言われ続けた酷い過去も訴える。しかし、あまり真剣に話は聞いてもらえない。

「はあ。そうですか。はあ」

そんな感じである。

「そういった悲劇が起きたと言う話は聞いております」

とは言うものの、だからといって何をしてくれるわけでもないのだ。

友人に、コロナにかかったと話すと、私が検査陽性判定を持っていないからか、「更年期障害じゃない?」と言われる。止まらない咳も「咳喘息だよ」と、後遺症のことを3月から話している親友にもまともに取り合ってもらえない。家族も上の空でしか聞いてくれない。
経験した者とそうでない者の温度差が原因だ。
周りの親しかった誰にもわかってもらえない辛さが悲しみや怒り、絶望となって私を苦しめた。

内容を理解して受け入れてくれているかどうかは謎だが、遠方の夫だけは淡々と私の話を受け止めて聞いた。「なってないからわからない」と正直に感想を言いつつ、否定せずただ、うんうん、と私の話を聞いた。


9.まとめ

「死にそうになるまで検査してもらえない現実を知らない人だらけでどっと疲れる。」

Twitterの私のトップに固定してあるツイートだ。あれからずっとこれを貼っている。国が何とかしてくれるに決まっていると思っている人たちからの心無い言葉に疲れ切って貼ったのだ。

一年半経ち、知人がコロナ陽性者となったことをTwitterで明かしていた。その方のフォロワーさんが、コロナ感染者には禁忌である療養法を伝えたりしていたので、危険を感じた。DMで、検査難民であることを打ち明け、私が誰かにして欲しかった「寄り添う」ということを試みてみた。「お節介は禁物」というのも胸に刻みながら。たぶん、少しだけ、ほんの少しだけ、一人で耐えたあの経験が役に立ち、力になれたかもしれない。
その方は、保健所から安否確認してもらったり、支援物資を受け取ったり。「保健所の方に感謝」と言っている。私にはその保健所の方への感謝は一切理解ができないまままだ。
死にそうな私に

「あなたはコロナではありません」

と最後の一太刀を振り下ろしたのは保健所の人だ。
死ななかったけれど。死にそうに辛いから問い合わせているのに電話口の向こうでは何か雑談なのかキャッキャと楽しそうに笑う声が聞こえてきた。私はその時発症から一ヶ月半、一度も笑っていなかった。だから、それに気づき悲しくて悔しくて電話口で号泣してしまった。面倒そうに応対された。
検査してもらって入院して医療従事者に感謝する感染者の皆さんが羨ましいというより、なんだか別世界すぎて、私は取り残されたのだなと実感した。

2021年夏頃、後遺症もかなり落ち着いてきて気力が出てきたので、かかりつけの医師や健診の際の保健師に当時のことを打ち明け、医療機関のことをもう信用できないと伝えたりしている。が、やはり彼らは検査難民の経験をしていない。「大変でしたね」とは言うものの、そう言うしかないから言っている、と言った感じだ。私はことあるごとに、彼らに

「病院も行政も何もしてくれないのは知っている。私はあなたたちを私のやり方で利用することにしている。
治療は鍼灸に任せている。
命の危険を感じなければPCR検査など受けるつもりはない。無症状者への無料検査拡充がなされれば受けてもいい」

といった旨を伝えている。今後もそのスタンスでいく。

願わくは、鍼灸や漢方など、代替え医療と下に見られているが実は効く治療について、保険診療で安く手軽に受けられる体制が整うといいなと思っている
現在もコロナ後遺症についてはふつう病院では「異常無し」と治療をまともにしてくれない。できないのだろう。が、

私は鍼灸で初めて「おかしいですね」と体調がひどいことを理解して治療してくれる人に出会えた。私の頭がおかしいのでも何でもなく、ただひたすら体がめちゃくちゃだとわかってくれたのだ。

客観的に体調を確認してもらい、親身に治療で支えてもらえたから、おかげでここまで治ったと思っている。後遺症で長期辛かった身としては、検査で異常が出なければ心因性と追い返す現代の医療に大きな疑問を抱いている。
LINEの無料医療相談のようなものが当時あった。無意味だからもう二度と絶対使わないから今もあるのか知らないが、体調を記して相談したところ「病院に行って医師の診断を受けてください」で応答が切られた。

ちなみに、私は新型コロナがニュースに取り上げられるようになっていた2020年1月から、警戒していたのでマスク手洗いうがいをしていた。しかし、世間ではマスクをしている人はまだ少なく、例えば飲食店ではノーマスクで「〇〇料理はどちら様ですか」と料理に飛沫をかけて給仕している状況で、隣の席ではマスクせずにゲホゲホ咳をするお客さんが、お友達と談笑していると言う有り様。みんな気にしてないのだなあ、でも感染しても重症化は1割か…その中で亡くなるのはさらに1割らしい。私がもし感染したらどういう発症するのだろうと思っていた矢先の発症だったのだ。

2021年秋、紆余曲折乗り越えて、生活に困ることはない程度に回復。完治と思っている。が、未だに、胸板が痛くなったり、上半身の一部にピンポイントで筋肉の痛みが続いたり、口腔内に痺れや違和感が現れたり、薄い後頭部の頭痛が出たり、左首肩や坐骨に神経痛が襲ったり。一生付き合っていくであろう症状は時折顔を出す。二度と感染したくない。

「コロナはただの風邪」と吹聴する有名人に対し、2020年上半期、急性期と後遺症初期を闘っていた私は、「お願い、気をつけて、恐ろしい病気だから感染しないで」と祈りを捧げてすらいた。あの世に片足を突っ込んでいると、何か偉大なるものにでも触れるのか?今思い出すと自分の発想とは思えず信じられない。が、当時私の心境は本当にそうだったのだ。なんとか周りの人たちにコロナの危険性を知ってもらいたかったが、私の声にほとんどの知人が耳を傾けなかった。
この経験から、そのうち「私にとって一番大切な夫と子どもだけ守れればあとはどうでもいい。知らない」と意識しようと考えるようになった。私は元々他人に対して、無碍にできない性格で、困っている人を見捨てられないお人好しだったが、そんなお人好しの部分は現在脱ぎ捨てるように気をつけている。まだ心身に余裕がないので、人の安全を願っている場合でもないのだ。

前は向いている。前進もしている。しかし、以前と違う場所を進んでいる感じがする。ひとつだけ。こうした手記が、たった今必要としている人にたまたま届き、なにか参考になれば、それが良いと思う。
ちなみにワクチンは打った。感染したか調べられる最後のチャンスだと思ったからだ。もし一回目接種後に抗体価が高く出れば、感染履歴を示すものとなるかもしれないからだ。しかし、一回目接種2週間後の抗体価は1U/mlと、検出下限値ギリギリの陽性であった。もう感染で得られた抗体などとうに消え果てていたからだろう。以後抗体を定期的に調べているが、マックスで52U/mlである。二回目接種二ヶ月後には半分に減った。この状態でワクチンが本当に効いているのか知りたいが、感染してPCR検査を受けてみないとわからない。

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