コロナ禍で存在を消された私たち 学生最後の年の悪夢

検査難民
発症月:2020年5月
ペンネーム:かんきつ
居住地:関東

慌ただしい日々と始まり

2020年の春、学生最後の年を迎えた私は研究に就職活動に慌ただしい日々を送っていた。といっても、感染対策として登校の制限や就職活動のオンライン化がされていたため、多くの時間を大学近くのアパートで過ごしていた。緊急事態宣言が発令されてからは、研究室での実験、週2回程度のスーパーでのアルバイト、買い物で外出するくらいであった。スーパーではレジ打ちや掃除などを担当しており、国内で感染が拡大するにつれて感染を恐れるようになった。ただし、若者は重症化しにくいと聞いていたことから、症状そのものよりも周囲への影響や大事な時期に身動きが取れなくなることを心配していた。GWは就職活動の予定がほぼなかったが、人手不足からアルバイトが週5回になり、研究室の教員と会う機会もあったため、忙しいのは変わらなかった。

振り返ると、最初の異変は5月4日の夜だった。声が枯れ、体がやたらと重く感じた。しかし、この時点では声の出し過ぎや疲れのせいだと考えていた。体調不良をはっきりと自覚したのは、5月6日だった。朝起きると37.3℃の微熱と下痢があり、倦怠感、喉の痛み、頭痛、関節痛も気になるようになったため、慌てて自主隔離を始めた。もし感染していても、一人暮らしなので家族にうつす心配がないのは安心だった。一方で、5月5日までは外出していたため、アルバイト先の店員やお客さん、研究室の教員や家族に拡めていたらどうしようと考えていた。「味覚・嗅覚はあるから大丈夫かな」と自分に言い聞かせていたが、レトルトのおかゆがやたらと塩辛く感じたり、口の中が苦いと感じたりした記憶がある。

「コロナは症状が長く続くのが特徴」と聞いていたので、微熱4、5日目から焦りが強くなった。この頃から咳も出るようになっていた。5月8日に受診の目安から「37.5℃以上の発熱が4日以上」が削除されたこともあり、5月9日に県の窓口に電話をかけてみたが、週末で窓口が減っていたこともあって繋がらなかった。数年前に受診したことのあった近所の医院に事情を説明した結果、受け入れてもらえることになった。ほかの患者さんがいない時間帯を指定され、待合室ではなく入り口で順番を待った。風邪向けの薬、鎮咳去痰薬、抗炎症剤、うがい薬を5日分処方され、水分をよく摂って自宅待機するよう言われた。週明けの5月11日を待って、受診報告と今後の相談を兼ねて保健所に電話をかけてみた。

「37℃台前半の微熱や喉の痛みなどの風邪症状が1週間続いている」
「5月9日に近所の医院に電話をかけ、受診した」
「処方された風邪薬などを服用しているが、よくなっている気がしない」

以上の内容をていねいに伝えたところ、以下のような回答があった。

「検査などは、どうしても症状の重い方が優先になってしまう」
「今後悪化したり長引くようなら医院に相談してもらって、必要だと判断されれば検査などをする」

きつい対応をされずほっとしたと同時に、受診の目安が変わっても検査までの道のりは遠いと感じた。5月12日まで微熱がだらだらと続いていたが、5月13日の朝に36.7℃まで下がった。この時は「このまま治るかも」と思っていた。

症状悪化、PCR検査へ

しかし、5月13日の夜にまた体温が37℃を超え、咳がひどくなってきた。痰もからむようになった。5月14日にはこれまでの症状が強まっただけではなく、チクチクする胸の痛みや息苦しさが気になり始めた。横になると、胸の上あたりを軽く押されているような感覚があった。寝汗をびっしょりかいて、夜中に目覚めるようになった。頭を高くしたり、横を向いてうつぶせ気味になったり、楽なポジションを探して眠った。5月6日以来なかった下痢も復活した。毎日のように鼻血が出た。空腹を感じなかった。37.5℃くらいまでの微熱なのに、やたらとしんどい。症状悪化までは予定が入ってしまっていたオンライン会社説明会や面接に参加したこともあったが、諦めて療養に専念することにした。
処方された薬がなくなり、親や研究室の教員の勧めもあって、また医院を受診しようと考えた。前回の受診前の医院への電話で「保健所に連絡したか?」と聞かれていたため、念のため5月15日に再び保健所に電話をかけた。これまでの経過や症状が悪化していることを伝えたが、やはり前回受診した医院に相談するよう言われた。「根回しのように保健所に相談しなければならないのは効率が悪い」と感じた。
翌朝、医院に電話で状況を説明し、2回目の受診をした。喉の痛みがかなりあったにも関わらず、「喉やリンパ腺はそれほど腫れていない」と言われたのが不思議だった。解熱鎮痛剤、抗炎症剤を5日分処方され、また様子を見るように言われた。今回は簡単な血液検査もしたが、「貧血気味だが気にするほどではない」とのことだった。Twitterで#微熱組のハッシュタグを見つけ、全国に似た症状の人がたくさんいると知ったのはこの頃だった。

5月18日になると、また新たな症状が出た。喉奥が干からびた感じがして、水分を取り続けても落ち着かない。手足がしびれ、力が入りにくい。体温は37℃前後と少し下がっていたが、しんどさは増していた。ただし、頭痛、関節痛がひどくて解熱鎮痛剤を飲み続けていたので、本来の体温はもっと高かったのかもしれない。
5月19日の朝はトイレに行くだけでも息苦しく感じた。実家から送ってもらったパルスオキシメーターを使ってみると、酸素飽和度は96~97%、動いたり咳をしたりした後は95%くらいであった。1週間前の98~99%より下がっていたが、それなりに酸素を取り込めていると分かった。実家からパルスオキシメーターが送られてきた時は「大げさだなあ」と思っていたが、このときは「あってよかった」と感じた。自力で往復3km以上移動するのはしんどかったが、親の強い勧めで3回目の受診をすることになった。新たな症状が出たこと、息苦しさが強くなったことを伝えた後、こんなやりとりがあった。

先生「それは、コロナが怖いってこと?」
私「それもありますが、長引く体調不良の原因が気になってしまって…」
先生「それなら、今日レントゲンと詳しい血液検査やってみる?血液検査の結果は来週になるけれど」
「あと、こちらから保健所に連絡して、PCR検査受けてみますか?枠も空いているし」
私「症状軽めなのにいいんですか?」
先生「だって怪しいもん!」

いつもは優しい雰囲気の先生のピリピリした空気とあまりの急展開に驚いた。「レントゲンは問題なさそうだが、長引いているし、怪しい症状もある」ということで、5月20日の昼ごろにPCR検査を受けることになった。採血中には、こんなやりとりがあった。

私「軽い症状なのに、騒ぎすぎたかもしれません」
看護師「そんなことないですよ…この状況で体調不良が長引いたら不安ですよね」

優しい声がけがいつも以上にありがたく感じた。帰り道、保健所から電話があり、症状の確認や今後の流れの説明があった。この日の夜も、ひどい喉の乾きと胸の違和感でなかなか寝付けなかった。

5月20日の体温は37.2℃、息苦しさはきのうより少しマシになっていた。検査場は総合病院の屋外だった。連絡先の確認や「検査は100%ではないので、陰性でも症状があるうちは外出を控えるように」という説明があった後、鼻からの検体採取が行われた。往復で5km近く歩いたことや気疲れもあり、帰ってきてすぐに昼寝してしまった。5月21日の午後、総合病院から検査結果の連絡があった。発症17日目のPCR検査は陰性だった。

5月19日をピークに、体調は少しずつ改善していった。動かなければ息苦しくならず、深呼吸をしても咳が出なくなった。5月22日の深夜にひどい腹痛があって驚いたが、5月24日からは体温が37℃を超えなくなった。5月26日には久しぶりに研究室のオンラインゼミに参加した後、5月19日の血液検査の結果を聞きに行った。総ビリルビンがやや多め、尿素窒素が基準値の半分だったが、「軽い脱水や栄養不足が原因だろう」とのことだった。5月16日に基準値内だが少なめだった白血球、リンパ球、血小板は少し増えていた。症状が落ち着いてきていることを伝えると、「もう安心して大丈夫」と言われた。この日をもって、約3週間の自主隔離を解除した。

長い回復期

就職活動中の大学院生なのに3週間も休んでしまった私には、やるべきことが山積みになっていた。体力は落ちていたが、さっそく活動を再開した。いつも体調を崩したときのように、すぐに元の体に戻ると信じていた。しかし、1週間もしないうちに異変に気付いた。平熱より高めの体温が続き、動き回ると37℃を超える。だるさが抜けない。寝ても寝ても眠いので、10時間睡眠もざら。疲れてくると、喉元が詰まるような息苦しさを感じる。朝晩や話した後に咳が止まらない。すぐにお腹がゆるくなる。時々、手足のしびれやぴくつきが出る。立ちくらみや動悸がする。頭痛や体の痛みもある。「キーン」と耳鳴りがする。ゼミの発表内容が全然頭に入ってこない。就職活動用の自己PR動画を撮影しようとしても、話す内容を覚えていられないし、滑舌が悪くすぐにかんでしまう。何かがおかしい、治った感じがしない…

体調が安定せず、予定を詰め込める状況ではなかった。休みがちになってしまう以上、研究室のメンバーにまだ本調子ではないことを説明せざるをえなくなった。返ってきたのは、こんな言葉だった。

「ストレスじゃないの」
「もっと気楽に考えなって」
「よく食べて運動しなよ」

心配そうな私を励ますつもりだったのかもしれない。しばらく対面で会っていなかったこともあり「就職活動で忙しい同期に心配をかけ過ぎたくない」と考え、症状を軽めに伝えていたせいもある。それでも、「明らかにストレスだけじゃない」と感じていた私は複雑な気持ちだった。もしかしたら、辛さを伝え続ければ理解が得られたのかもしれない。だが、当時は面倒な人扱いされて研究室での居心地が悪くなることが怖かった。私は理解を諦め、周りに負担をかけてしまう時のみ体調の話をすることにした。

一方で、冗談っぽくこんなことを言ってきた人もいた。
「それ、コロナだったんじゃね?」

「笑い事じゃないのに」と思ったし、これはこれで返答に困った。

周囲から「いつまでゆっくりしているのか」という空気を感じていたこともあり、6月はついつい無理をしてしまった。すると、7月に入ってから連日体温が37℃を超えるようになった。動いた後の倦怠感や体の痛みがひどくなった。咳もよくなる気配がなかった。「まずい」と思った私は5月にお世話になった医院を再度受診した。微熱が出ると伝えたため、手短に済ませようとする雰囲気になったのが辛かった。念のためと対応とはいえ、「ここ数日に始まった症状じゃないのにな」と思った。微熱や倦怠感については「そのうち治ると思いますよ」と言われてしまったが、咳については吸入薬を試してみることになった。これまで喘息になったことはないので驚いたが、咳や息苦しさ、胸がピリピリするような違和感が多少和らいだ。Twitterを見て「だるいのに動き続けると悪化するかも」と考え、7月はとにかく休んだ。そのおかげか、8月になると体温は36℃台で安定し、だるさを感じない時間帯も増えてきた。何とか踏みとどまった感じがする。就職活動では多くのチャンスを逃してしまったが、健康第一だ。

秋からは対面でのゼミが再開され、実験などで学校に出入りすることも増えた。すると、周囲とのコロナへの意識の差を感じることが多くなった。大人数での飲み会は控えていても、旅行や外食はふつうにしている人が多かった。SNSには知り合いの元気で楽しそうな写真が並ぶ。「周りになった人いないし、大丈夫でしょ」という楽観ムードを感じる。診断がないので説得力はないけれど、厳しい現実を知ってしまった私としては同調できない…

「出歩いている人はたくさんいるのに、どうして私が?」
「ほんとにみんな元気?」

良くないと分かっていてもこんな気持ちになってしまったが、痛みを共有できたTwitterの仲間に救われた。

この頃から、付き合いの長い研究室同期やサークル仲間に5月からの出来事について少しずつ話し始めた。私の話を否定せず、寄り添ってくれたことには本当に感謝している。

体温が安定してからも、疲れたときの体の重さや痛みに悩まされていた。かつてより呼吸器も敏感になっていた。キャパが全然足りない。研究はずるずる遅れていき、とにかく焦っていた。「今年はだめかも」と思ったが、修士論文提出まで1か月に迫った2021年1月、平日に動き回っても週末は休めば回復するようになった。いろいろやらかした覚えがあるし、綱渡り状態だったが、ぎりぎり間に合った。2021年3月、私は大学院を修了した。

2021年4月からは社会人になった。仕事中に頭痛や体の痛みが出てしまうことがあったが、もはや自分にとって普通のことになっていた。立ち仕事ではなく、不規則な勤務や長時間残業もなかったからこそ、続けられたと思う。
2021年秋ごろになって、「かつてよりちょっと敏感?」くらいの不調が気にならない状態に落ち着いた。2020年に無理していたことを実感して怖くなったが、ここまで回復してくれた体に感謝の気持ちでいっぱいだ。

就職に伴って学生時代に住んでいた街を離れたことで、心境の変化もあった。学生時代は、コロナ疑惑について公表しようとは思えなかった。周囲からの態度が変わることを恐れていた。大学に近く、多くの学生や地域住民が来店するアルバイト先のスーパーに迷惑がかからないとも言い切れなかった。しかし、所属先が変わったことで、「何もなかったように振る舞うのが心苦しい」という気持ちが上回った。

2021年5月には、Facebookで大学院修了の報告とともに1年前から体調不良が続いていたことに触れた。2021年9月には「最近はコロナそのものが怖い」という友人とのやり取りをきっかけに、リアルのTwitterアカウントで症状、経過についてつぶやいた。「疑いになり、気軽に受診できない不安」や「長引く体調不良のしんどさ」も伝えた。

「後出しはずるい」、「PCR陰性だったくせに、大げさ」などと思った人もいるかもしれないが、一人でも多くの知人が自分事として考えるきっかけになっていたら幸いである。

思うところと願い

振り返ってみると、私の後遺症(疑い)は軽いほうだったと思う。実際に、大学院を休学や留年することはなかった。「無理ない範囲で、将来に向けて経験を積む」という選択ではあるが、就職もした。だが、症状が軽めで復帰が早かったからこそ、周囲との壁を感じることが多かったとも思う。

似た境遇の仲間と支え合うため、リアルとは別のアカウントを作成して始めたTwitter。同じ後遺症(疑い)の方にも、さまざまな背景を持った方がいた。長年にわたって重い病気を抱えながらも、前向きに生きようとしている人も見かけた。病気に限らず、それぞれの困難に直面している人がいた。

身近でも、コロナ禍の難しい状況で苦しむ人がいた。学生時代にアルバイトをしていたスーパーは、昨年会社ごとなくなってしまった。長年の職場を失った人も多かったはずだ。大学の後輩たちは行事や課外活動を大幅に制限されている。私が後輩の立場なら「どうしてこの学年に生まれたのだろう」などと思ったかもしれない。

人はそれぞれの苦しみを抱えながら生きている。生きている世界も価値観も異なるからこそ、互いに理解できないことばかりだろう。だからこそ、相手の苦しみを理解できなくても、否定はしない人でありたい。先の見えない不調に苦しんでいたとき、話を聞いてくれた家族や研究室の教員、友人に救われたからこそ、そう思う。

そして、見た目では分からない苦しみの声に耳を傾けようとする人が増えること、コロナ後遺症をはじめとする感染後の症状の研究が進むことを願っている。

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