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私たちには誰かを裁くことより、他にできる事がある筈だ。

今日、初めて息子に本気でイラついた。まだ11ヶ月の息子にイラつく事なんて無いと思っていた。

離乳食を投げられる、食べない、ずっとなにかをぐずって叫んでいる。たったそれだけのことで、だ。

生理中というのもあったかもしれない。
イライラしつつも「じゃあもうご飯おしまいねー」と言いながら
とりあえず息子をチェアから下ろし、バタバタ暴れるのを抑えつつマットの上に置いたら勢い余って息子が後ろに転んで頭を打ってしまった。
更にギャン泣き。慌てて抱き上げて宥めていると、旦那が起きてきて代わってくれた。
旦那が来てくれた事と、旦那を見た瞬間気持ちが切り替わったのか大人しくなった息子に安堵してか一気に気持ちが緩んだ。

瞬間、「もうヤダ!」って子供のように叫んでいたのは息子ではなく31歳の私のほうだった。

旦那は私を怒らなかった。呆れもしなかった。
ママ頑張ってるね、よしよし。
って、私がその時最も欲しかった言葉を言ってくれた。
そして、俺がご飯食べさすからお風呂入っておいで、と息子と離れる時間を与えてくれた。


そして思ったのだ。私の育児環境は、きっととても恵まれているのだと。一人じゃない、ということがこんなにも心強いのだと。

もしシングルマザーや、そうでなくても旦那が育児に非協力的でいるかいないか分からないような存在なのに一丁前にやれ家事しろだのやれ飯作れだのと文句だけはつけてくるような存在だったとしたら。
そんな状況で子育てしていたら、自分なら耐えられるだろうか。パンクするのではないか。そして今よりもっと、自分を責めるのではないか。


最近のニュースで見た衝撃的な虐待事件。

3歳の女の子を8日間自宅に一人置き去りにして殺した母親、
山田詠美の小説「つみびと」のモデルとなった大阪二児虐待死事件を思い出す。

母親自身もネグレクトを受けていた
若いシングルマザー
父親の存在消えがち 
頼る人がいない
男に依存しがち
家はゴミ屋敷
SNS(大阪はブログ)でのリア充アピール、虚言

全てが同じパターン。

元気に遊ぶ息子を見ながら、亡くなった子を思うと言葉にならない。思わず息子を抱く腕に力が入る。自分や息子の平凡さが、後ろめたくすら感じる。

この虐待母親も、元は被害者なんだろう。
運良く生き残って大人になったかつての被虐待児が、大人になって子供を産み、「かわいそうな子」から一転、世間からは鬼母と呼ばれる。
この構造なんとかならないのだろうか。

でも、愛された事がない人は愛し方を知らないのは当然で、こういう人が、周りの協力がない中で子育てをするのは不可能に等しい。

大阪二児虐待事件もそうだけど、彼女達は決して我が子を最初から可愛がっていなかったわけではないのだと思う。だからこそ子供も懐いていて。大切にしていた瞬間も、心から愛おしく思った瞬間も確かにあった筈なのに。

こんな事言ってはいけないのだろうけど、今まで虐待されて亡くなった子達が、もし生き延びて大人になってたら、同じように事件を起こさなかったっていう保証は無い。
だから亡くなった子達はそれで良かったとか、全くそういうことではなくて、
絶対罪もない子を一人も死なせちゃいけないんだけど、この母親を責めるのは簡単で。

「シングルマザー」
親はこの世に二人いる。
それなのに、父親である男の存在が一切感じられないこの言葉に違和感を持つ。

死別でもない限り、この地球上のどこかにいる筈である。もう一人、責任を取るべき大人が。

別れた父親である男が全く関与しなくても(養育費を踏み倒したり認知しなかったり別れたからと言って子供にノータッチだったり)、特にペナルティもなく成り立ってしまうこのシステムや、密室育児をなんとかしない限り終わらない負の連鎖。2人の子供なんだから父親だって他人事じゃないのに、そうはならないね。

親権は基本的に無条件で母親、というのは普通の母親には良いかもしれないけど、そうじゃない母親は育てられないなら育てられないと主張するべきだ…

SNSも要因の一つではと。まだ24歳。十分な愛情や教育を与えられず精神的に幼いまま大人になってしまった人が、閉鎖的な育児生活で、でも画面を通して友人や見知らぬ誰かの楽しそうな写真だけは目に入ってしまう状況というのは私たちが思っているより本人には耐えられないのかもしれない。

SNSと近過ぎる人って現実を生きれてない。最後の数ヶ月、あるいは数週間は、そもそも家にいる我が子が視界にすら入ってなかったのでは。
SNSはそれが全てではないし、あくまで事実をもとにしたフィクションくらいに思わないと…

周りも気付けなかったかな…シングルマザーで頻繁に昼夜遊んでる上で、言い訳が「預けてる」の一点張りは嘘だと思った方がいいな。

大阪二児もそうだけど、こういう人って何故か託児所利用はしない。お金が勿体ないとかもあるかもしれないけど、子供を他人に見られたくない、って気持ちが強いんだと思う。
虐待してたら尚更。やたら痩せてたり発達が遅れてたりと、色々突っ込まれるのが面倒なのだろう。
基本的に家族とも疎遠だったりするから預けられる人なんて本当はいないんだよね。仮にいても「また?」って責められるのが耐えられないだろうからそれなら家に置いとこう、みたいな。

私も結構前に児相が訪ねてきた。
泣き声がするという理由でマンション回ってるようだったけど、話を聞いたらウチではなかった。
その泣き声は、ごめんなさいごめんなさいって男の子の泣き声が聞こえるっていう通報だったらしいけど、これが虐待であってもそうじゃなくても通報する人の勇気に拍手した。

何か怪しいと思った時、なかなか通報に手が伸びないけど、でも我々一般人が虐待かどうかを判断する必要はない、と聞いて、そうだなと思った。

匿名だし、とりあえず相談してみて、プロの判断に任せる。それでいい。最優先するべきは子供の命なんだから間違いかどうかは二の次。結局こんな事で逆上する親は他人に踏み込まれては困る、何かやましい事があるのだ
私は自分が疑われた時、全然嫌な気持ちにならなかった。むしろお仕事ご苦労様ですって思った。夜だったし。
私ももし何かあれば即通報して虐待親はブタ箱にぶち込んでもらおうと思った。


罪を犯した人間を糾弾するのは簡単だ。でもその前に、自分自身は誰かの為に何かできただろうか。誰かの発する小さなシグナルをひとつもとりこぼさずに生きられているだろうか。
誰かを傷付けてはいないか、
裁こうとしていないか、
気付かないうちに加害者になってはいないか、
自分の正義を振りかざしてはいないか。

私はバカなので、定期的に確認しないとすぐに道を外れてしまう。自分の中の「正しさ」が最も最良だと勘違いしてしまう。でも時にそれが誰かを追い詰める。無意識のうちにありふれた日常の中で、何かを、誰かを、裁こうとしてしまう。

そういうことはもうやめたい。やめたいし、見たくもない。
息子にもそうやって教えて育てていきたい。
そして今後もしシングルマザーの方と知り合う事があれば、子供を預かったり、話を聞いたり、私にできる事なら全力で力になろうと思う。


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