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WEB Re-ClaM 第16回:短編試訳⑤ドロシー・L・セイヤーズ「苦いアーモンド」

さて、久しぶりに短編の翻訳を掲載します。ドロシー・L・セイヤーズの "Bitter Almonds" (In the Teeth of the Evidence: And Other Mysteries 所収)です。色々な作家を試しているのですが、やはりセイヤーズは抜群に訳しやすい。文章が肌に合うといいますか。今回は、モンタギュー・エッグ君が「社の道義的責任」を取るべく奮闘します。例によって事前に示されていない手がかりがあるため、本格ものとは言い難いですが、「ある事実」を示した瞬間、ばらまかれた伏線を回収しながら仮説を立ち上がていく手筋の鮮やかさが素晴らしい佳品です。ぜひお楽しみください。
【お詫び】
本編は、井伊順彦編『世を騒がす嘘つき男』(風濤社、2014)にて「ビターアーモンド」として既に翻訳があるものでした。「未訳」としてご紹介しましたこと、失礼いたしました。また、上記翻訳に携わられた訳者の方にもお詫び申し上げます。

「なんだって!」 モンタギュー・エッグ氏は驚倒した。「あのお客様が、お亡くなりになられただなんて」
 彼が睨みつけている朝刊には、バーナード・ウィップリー氏の検死審問が近日中に開かれる旨の記事が載っていた。健康的で、いささか風変わりな老人であるウィップリー氏はプリュメット&ローズ商会から、かなりの量のヴィンテージ・ワインや良く熟成された蒸留酒、そしてリキュールを頻繁に購入していた。
 モンティ自身も一再ならずチェダー・ローン屋敷に招かれて、商品のサンプルを持参したことがあった。ウィップリー氏が自らセラーから慎重に持ってくる年経たポートワインや、アルコーヴに据えられた背の高いマホガニーのキャビネットから取り出されるブランデーを、居心地のいい書斎で御馳走になったこともある。
 ウィップリー氏は自分以外の誰にも、屋敷内の酒類を触らせなかった。彼は「召使を信じることなどできん」と常々口にし、使用人による盗難や、キッチンの棚に頭を突っ込んでいる料理人をに出くわすことを忌み嫌っていた。
 かくてエッグ氏は眉を顰めてため息をついたが、記事を続けて読むうちに、ウィップリー氏が晩餐後のクレーム・ド・マントを飲んだ後に、明らかに青酸を服用したために死んだことを知り、さらに苦い顔をした。
 顧客が供された飲み物に入った毒物で急死した、というのは歓迎すべからざる事態だ。その風聞がビジネスに良い影響を与えるはずもない。
 エッグ氏は腕時計を睨みつけた。今この瞬間に滞在していて、新聞を読んでいる町は、故ウィップリー氏の在所からわずか15マイルほどの距離のところにある。今出発すれば検死審問に間に合うかもしれない。彼は、プリュメット&ローズ商会の提供するクレーム・ド・マントはまったく害のないものであるという宣誓証言を、どんなことがあっても提供しなければならない立場にあるのだ。
 それゆえ、朝食を終えるとすぐに出発した。検死官に事前に名刺を渡し、検死審問が開催される学校の、混みあった小さな教室に簡易な席を確保してもらった。
 最初の証人は女中頭のミンチン夫人。お堅くて立派な、ずんぐりとした年かさの女性である。彼女は、自分は過去二十年間にわたってウィップリー氏を世話してきたと語った。八十歳近い老齢である彼は、非常に活動的かつ健康だったが、その危険が考えられる場合には、心臓に気をつけなければならなかったそうだ。
 彼女は彼を完璧な雇用主だと考えていた。時折金銭面にひどくうるさかったり、家政全般に厳しい目を注いだりしたが、彼女がそうするのと同じように自分の利益に注意を払う彼の態度は、個人的には彼女にとって恐れるようなものではなかった。彼女がこの家の家政を取り仕切るようになったのは、彼の妻が死んで以来のことだという。
「月曜日の晩も、いつも通り健康にとても気を遣っていらっしゃいました」とミンチン夫人は続けた。「レイモンド・ウィップリー様から午後にお電話があり、今日は晩餐を召し上がりにいらっしゃると……」
「ウィップリー氏の息子さんですな?」
「ええ、あの方のたった一人のお子様です」と言い、彼女は痩せて生白い若い男にちらりと目をやった。男はエッグ氏の座っている傍に設けられた証人用のベンチに座っており、何やら意味ありげに鼻をクンクンと言わせた。「それから、セドリック様ご夫妻が当家に滞在しておられました。セドリック・ウィップリー様はウィップリー様の甥御さんです。あの方にはそれ以外の親戚はいらっしゃいません」
 エッグ氏はセドリック・ウィップリー夫妻の姿を確認した。お洒落に黒い服を着こなした若い男女で、レイモンド氏の反対側に座っている。証言はさらに続く。
「レイモンド様はご自分のお車で六時半に到着され、すぐにお父様にお目にかかりに書斎へいらっしゃいました。出ていらしたのは、ディナー前のお召し替えの鐘が鳴った時でした。はい、七時十五分でございます。ホールですれ違いましたが、少し気が転倒していらっしゃるようでした。ウィップリー様が出ていらっしゃらなかったので、声をお掛けしようと書斎に入りました。書き物机に向かっておいでで、私には法律用箋のように見える何かをお読みになっておられました」
「『失礼いたします。ウィップリー様。鐘はお耳に入りましたか?』と声をお掛けしました。少し耳が遠い時があるのです。もちろん、お年を考えればどの能力も非常に優れていらっしゃるのですが。ご主人様は目を上げてこう仰いました。「分かったよ、ミンチン夫人」と。そしてご自分の為さっていたことにお戻りになられました。その時、心の中で思いました。『レイモンド様のことでまたお困りなんだわ』と、それから……」
「少しいいですか。レイモンド氏について、あなたがご存じのことを教えてください」
「いえ、大したことではありません。ただ、ウィップリー様はレイモンド様のお振る舞いに必ずしも賛同していらっしゃらず、時折言葉をぶつけ合っておられました。ウィップリー様はレイモンド様のお仕事がお気に召さなかったのです」
 そして証人は続けた。「七時半になりまして、ウィップリー様はお召し替えのために、書斎から出て来られました。その時もお元気ではございましたがお疲れのご様子で、歩みは重くていらっしゃいました。私は、何かお手伝いが必要だった時のためにホールで待機しておりましたが、すれ違った時に、明日の朝来てくれるようホワイトヘッド様に電話で頼んでおくように、とお話しになられました。ホワイトヘッド様は弁護士でいらっしゃいます。その理由は仰いませんでした。仰られた通りにいたしまして、ウィップリー様が降りていらっしゃった時、ええ、八時十分前です、ホワイトヘッド様は明日の十時に訪問されると仰っていた旨、お伝えいたしました」
「その言葉を聞いていた人はほかにいましたか?」
「はい、レイモンド様、それからセドリック様ご夫妻は、ホールでカクテルをお飲みになっておられました。声は聞こえていたに違いありません。晩餐は八時に始まりまして……」
「あなたは晩餐の席にはいらっしゃった?」
「いいえ、自室で食事を摂りました。そして晩餐は九時十五分前に終わり、パーラーメイドがコーヒーを、居間にいらっしゃったセドリック様ご夫妻、それから書斎にいらっしゃったウィップリー様とレイモンド様にそれぞれお出ししました。私は九時まで自室に一人でおりましたが、その時、セドリック様ご夫妻が少し話をしにいらっしゃいました。九時半前まで一緒におりましたが、その時に書斎の扉がバタンと乱暴に閉じられる音を耳にしました。数分後、レイモンド様がいらっしゃいましたが、ご様子がとても奇妙でした。帽子を手に取り、コートを纏われたのです」
「セドリック様は仰いました。『おい、レイ!』と。しかしレイモンド様はそれにはお応えにならず、私にこのように仰いました。『今夜は泊まることができなくなったよ、ミンチン夫人。すぐに町に戻らなくては』と。『承知いたしました、レイモンド様。ウィップリー様はこのことをご存じなのですか』とお尋ねしたところ、妙な感じでお笑いになられて、『ああそうだな、あの人は何でも知っているからな』と仰いました。そしてレイモンド様は部屋から出ていかれ、セドリック様がそれを追いかけました。その時、『髪を失うなよ、ご老人』とかそんな風な言葉が聞こえました。セドリック様の奥様は、きっとレイモンド様は老紳士と口論になったのに違いない、と仰いました」
「大まかに十分後、若い紳士お二人が上階から降りてきましたが、その時のレイモンド様は先ほどとは違って態度に含むところはなく、そのことをむしろ忘れようとしているようでした。あの方はセドリック様と一緒に玄関のドアから出ていきました。ホールのコート掛けにスカーフをお忘れでしたので、走って追いかけました。レイモンド様は車を勢い良く走らせてお帰りになられ、私はセドリック様と一緒に屋敷に戻りました」
「書斎の扉の所まで来た時、セドリック様は『おじさんは多分……』と仰いかけて言いよどみ、こう言い直されました。『いや、明日まで一人にしてあげた方がいい』と。そこで私たちは私の部屋に戻りました。セドリック様の奥様がそちらでお待ちだったので。奥様は『一体何だったの、セドリック』とお尋ねになられたのですが、セドリック様は『ヘンリーおじさんはエラのことに気が付いたようだ。レイには気をつけるように言っておいたんだが』と仰いました。奥様は『まあ、なんてことでしょう』と仰いましたが、その後は別の話題になりました」
「セドリック様ご夫妻は十一時半頃まで私と一緒に起きていましたが、その後ベッドに向かわれました。部屋を綺麗に片づけた後、私はいつもの巡回をいたしました。ホールの明かりを消した時に、ウィップリー様の書斎の明かりがまだついていることに気が付きました。あの方がこれほど遅くまで起きていることは普段はありません。なので、本を読んだまま眠ってしまったのではないかと、確認してみることにしました」
「ノックをしても応えがありませんでしたので中に入ったところ、椅子の背に体を延べたままお亡くなりになっておられました。テーブルの上には空のコーヒーカップが二つと空のリキュールグラスが二つあり、さらに半分ほど減ったクレーム・ド・マントのフラスクが置かれていました。すぐにセドリック様をお呼びしたところ、何も触らず元のままにしておくようにと、さらにベイカー医師に電話するようにとお命じになられました」
 次の証人は、食卓に侍っていたパーラーメイドである。彼女は晩餐の間は普段と違うこと何も起こらなかったと言った。ただ一点、ウィップリー氏とその息子が妙に静かで、何かに気を取られているようだったことを除けば。
 食事が終わった時、レイモンド氏は「いいかい、父さん。このままにしておくことはできないんだ」と言い、それに対してウィップリー氏は「もしお前の心が変わったら、すぐに言うのだな」と答えた。そして、書斎にコーヒーを持ってくるように命じたそうだ。その後、レイモンド氏は「私の心は変わらない。でももし話を聞いてくれるなら……」と言ったが、ウィップリー氏は何も答えなかったという。
 書斎にコーヒーとリキュールグラスを持っていった時、パーラーメイドはレイモンド氏が椅子に座っているのを見た。ウィップリー氏はキャビネットのところに立って息子の方に振り向きながら、明らかにリキュールを取り出そうとしているところだった。
 彼がレイモンド氏に「お前は何を飲む?」と尋ねたところ、氏は「クレーム・ド・マントを」と応えた。ウィップリー氏は「お前がそうしたいのなら……しかし、あれは女の飲む酒だ」と言ったという。パーラーメイドは、自分はそこで退出し、その後はどちらの紳士のことも見ていない、と証言を締めくくった。
 エッグ氏は証言を聞いてニヤリとした。ウィップリー老がそう口にする声が耳に聞こえるようだ。
 検死官が、続けてセドリック・ウィップリー氏に証言を行うように命じたので、エッグ氏は緩んだ顔を少し引き締めた。
 セドリック氏は女中頭の証言を裏付けた。自分は三十六歳で、出版業を行っているフリーマン&トップレディ社のジュニアパートナーであると述べた。ウィップリー氏と息子の間の諍いについては知っている。実際のところ、ウィップリー氏はその点について話し合いをしたいので、彼とその妻に屋敷に来てくれるように頼んだのだという。その問題とは、レイモンドとさる女性の間の婚約についてであった。
 ウィップリー氏はレイモンドの意志を変えさせようと強く迫ったが、しかし彼(セドリック)はもっと穏やかにこの問題について考えようと説得したという。悲劇の起こった晩、レイモンドと上階で話をし、ウィップリー氏がその「評判のシリング貨」を息子に遺さず苦しめようとするかもしれないことを理解させた。彼は、レイモンドにもっと落ち着いて話をするように諭し、ご老人もそのうちに「沈静化する」だろうと言った。レイモンドは己の悪い状況への助け舟を受け入れた。
 レイモンドが屋敷を出発した後、老人を一人にしておくのがいいだろうと判断した。妻と一緒にミンチン夫人の部屋を出てから上階に上がるまでの間、書斎に立ち入ることはしなかった。約十五分後だと思うが、ミンチン夫人の呼び出しに応えて降りていき、おじが死んでいることを知ったのだそうだ。
 死体の上にかがみこんで確認した時、唇から微かにアーモンドの香りがしたように思う。リキュールグラスの匂いをグラスには触れないまま嗅いでみると、そのうちの一つからアーモンド臭を感じたそうだ。その後、ミンチン夫人にすべてを元のままにしておくように伝えた。その時、おじは自殺したのかもしれないと考えたという。
 レイモンド・ウィップリーが検死官のテーブルの前に現れた時、小さな会場にざわめきが起こった。彼は細身で繊細な、いささか不健康そうな顔立ちをした男で、年恰好は三十絡みと見えた。
 彼は、自分はプロの「写真芸術家」であると名乗った。ボンドストリートにスタジオを構えている。著名人の男女を捉えた彼の「印象主義的実験作」は、ウェストエンドで上々の評判を博しつつある。父親はその活動を快く思ってはいなかった。彼は古めかしい偏見を抱いていたのだ。
「私の理解するところでは」と検死官は言った。「青酸は、写真術において頻繁に用いられるそうですね」
 レイモンド・ウィップリー氏はこの不吉な質問にも勝ち誇ったような笑顔で答えた。
「青酸カリのことですね、ええ、よく使いますよ」
「あなたはお仕事でそれを使うことに習熟していらっしゃる?」
「ああ、いいえ。私はあまり使いません。しかし、いくらかは用意しています。あなたはそれをお知りになりたいんでしょう」
「ありがとうございます。先ほどの証言で述べられた、お父上との意見の相違について、話していただけませんか」
「分かりました。父は私が舞台に関係している女性と結婚を約束したことを知りました。誰が彼にそれを伝えたのかは分かりません。おそらくいとこのセドリックでしょう。当然、否定することでしょうが、犯人はおどけ者のジェリーに違いないと確信しています。父は私に手紙をよこし、この婚約について激しくなじりました。まったくなんという偏見でしょうね。私たちはディナーの前にも少しく口論しましたが、彼はずっと攻撃的だった。とても我慢がならなくて感情的になってしまったので、街に帰ることにしたんです」
「彼は、ホワイトヘッド氏に連絡することについて何か言っていましたか?」
「ええ。もし私がエラと結婚するようであれば、遺言状から名前を削除すると脅してきました。まったくなんて厳格な父親でしょう。それに対して私は、好きにすればいいと言い捨てました」
「新しい遺言状をどのような内容にするか、言っていましたか?」
「いいえ、何も。多分セドリックが遺産を受け取ることになるのではと思います。何しろ彼は唯一の親戚なので」
「慎重に答えてください。ディナーの後、書斎で何が起こりましたか?」
「中に入り、私は暖炉の傍の椅子に座りました。蒸留酒やリキュールを仕舞っているキャビネットの方に行き、何を飲みたいか尋ねた父は、クレーム・ド・マントをと言った私に、実に彼らしい冷笑的な言い草を投げかけました。フラスクをこちらに寄越し、好きに飲むがいいと言ったので、私はメイドが持ってきたグラスでそうすることにしました。私はコーヒーとクレーム・ド・マントを飲んだのですが、彼は私がいる間は何も飲みませんでした。ひどく興奮してうろうろ歩き回った彼は、あれやこれやの言葉で私を傷つけました。
「少しして、『コーヒーが冷めてしまうよ、父さん』と声を掛けたところ、『地獄に堕ちろ』と言われたので『お好きなように』と応えました。彼が婚約者をひどく侮辱したので、いささか度を失い……子供が親に使うにはふさわしくない言葉を使ったかもしれません。書斎を出て、ドアをバタンと閉めました。私が部屋から出た時には彼はテーブルの向こうに立っていて、私と向かい合っていました。
「その後、ミンチン夫人に街に帰ると伝えました。セドリックが嘴を突っ込もうとしてきたのですが、自分はこのトラブルを歓迎すると、そしてあの老人の遺産が欲しいのであれば好きにすればいい、と言ってやりました。私が知っているのはそれがすべてです」
「もし、あなたが一緒にいた時に彼が何も飲まなかったというのであれば、双方のリキュールグラスとコーヒーカップが使用済みであったという事実をどのように説明しますか?」
「私がいなくなった後、使ったのではないかと思います。私が帰るまで彼が何も飲まなかったのは間違いありません」
「そして、あなたが書斎を出た時、彼はまだ生きていた?」
「まさしくその通りです」
 弁護士のホワイトヘッド氏は、故人の遺言について説明した。セドリック・ウィップリーに二千ポンドの年金が、それに対してレイモンドにはその残りが遺贈されるという。
「故人は遺言を変更する意志をあなたに伝えていましたか?」
「はい。死の前日、彼は息子さんの行動にひどく不満を持っていること、そして言い聞かせても聞かないようであれば、遺産を千ポンドの年金に限定し、逆に残りをセドリック・ウィップリー氏に与えるつもりだと仰いました。彼はレイモンド氏の婚約者を嫌っており、将来的にその女性の子供が自分の財産を受け継ぐようなことは許せないと考えていたようです。私は彼を何とか説得しようとしましたが、どうも彼はこの話を聞けばその女性は婚約を破棄するだろうと、そう考えていたようです。問題の夜、ミンチン夫人が私に電話してきたときには、いよいよ彼は新しい遺言状を作ることに決めたのだろうと、そう考えました」
「しかし、彼にその時間はなかったため、レイモンド・ウィップリー氏に対して有利なこの遺言状は現在も有効である、ということになりますね」
「その通りです」
 その後、地方警察のブラウン警部が証拠となる指紋について証言を行った。一方のコーヒーカップ、そして一方のリキュールグラスにはレイモンド・ウィップリー氏の指紋が、もう一方のカップと毒の入ったグラスには老ウィップリー氏のそれが付着していた。当然ついていてしかるべきパーラーメイドの指紋を除けば、カップやグラス、クレーム・ド・マントの入ったフラスクには、父と息子の指紋だけが残されていたという。
 自殺の可能性も計算に入れた上で、警察は毒が入れられていた可能性がある瓶を求めて、室内を徹底的に捜索した。しかし、キャビネット他のどこにもそれらしいものは見つからなかった。であれば、と暖炉の中を調べたところ、半ば燃え尽きたワインボトルのシールの断片が見つかった。その縁の部分にはこのような文字が記されていた。「...AU...tier & Cie」 大きさから判断すると、このシールがハーフリットルのボトルに被せられていたことは明白であった。しかし、意図的な自殺であればわざわざハーフリットルのボトルに青酸を入れるのはおかしいし、そのボトルがシールを外したばかりの、新しく開栓したものであったとすればなおさら辻褄が合わない。
 ここに至って、エッグ氏の内なる意識より、恐ろしい想念が浮かび上がってきた。以前に本で読んだ内容がぼんやりと蘇ってきたのだ。ブラウン警部の純粋に形式的な証言を聞き逃した彼が次に意識を取り戻したのは、一晩中一緒にいたと料理人とハウスメイドが互いに証言しあった後、医師が医学的な観点からの証言を求められた時であった。
 故人は疑いなく青酸中毒で亡くなっている、と彼は述べた。胃の中で発見された青酸はごく少量だが、彼のように年を取り身体が弱くなっていては、その量でも致命的であったのだろう。青酸は、知られている中でもとりわけ素早く死に至る毒物で、飲み込んでからわずか数分で昏倒し、死亡する。
「あなたが最初に死体を確認したのはいつですか、先生」
「私は零時五分にあの家に到着しましたが、その時点でウィップリー氏が亡くなってから少なくとも二時間、あるいはそれ以上経過していました」
「あなたが到着する半時間前に、彼が亡くなったということはあり得ますか?」
「あり得ません。私は、死が訪れたのは午後九時半から、どれほど遅くとも午後十時三十分までの間だと診断しました」
 次に分析官の報告が行われた。クレーム・ド・マントの入ったフラスク、そしてコーヒーカップに残ったコーヒーは、完全に無害なものであったと確認された。両方のリキュールグラスにはほんの数滴ずつクレーム・ド・マントが残されていたが、老ウィップリー氏の指紋が付いたグラスに入った方には、明白な青酸の痕跡が発見された。
 検死官が最後のまとめに入る以前の段階でさえ、状況がレイモンド・ウィップリーに極めて不利なことは明らかであった。動機があり、彼のみが恐ろしい青酸を容易に入手することができ、また死亡推定時刻は偶然にも彼が大騒ぎしながら逃げ帰ったのとほぼ同時であった。
 自殺の可能性は除外されたように思われた。家の中にいた人びとはそれぞれ互いにアリバイを主張でき、また外から侵入者が現れたことを示唆するものもない。陪審員たちは必然的にレイモンド・ウィップリーに対して殺人の評決を与えたのであった。
 エッグ氏は大急ぎで廷内から退出した。二つの事柄、すなわちミンチン夫人の証言、そして以前本で読んだらしきぼんやりとした記憶が彼を悩ませていた。彼は村の郵便局へ行き、雇い主に電報を打った。そして地元の旅籠に歩みを向け、ハイティーを注文してゆっくりと食べながら思考をそこここへと転がした。今回の事件はビジネスに悪影響を及ぼす可能性があるかもしれない。
 約一時間後、彼の手元に電報の返信が届けられた。そこにはこうあった。「1893年6月14日。フリーマン&トップレディ社、1931年」。そしてプリュメット&ローズのシニアパートナーが署名している。
 エッグ氏の丸くて陽気な顔は当惑と苦痛の雲が投げかける陰で曇ってしまった。彼は女将の私室に閉じこもり、高額な長距離電話を街(ロンドン)にかけまくった。当惑した表情はやや収まったものの、なお憂鬱そうな顔をして彼は車に乗り込み、検死官を捜しに出発した。
 検死官はエッグ氏の訪問を歓迎した。彼は心温かく血色の良い、鋭い目をした男で、その態度は実にテキパキしたものであった。モンティが彼に会った時には、ブラウン警部と巡査部長もすぐそばで待機していた。
「よろしいでしょう、エッグさん」と検死官は言った。「今回の事件をきっかけに、あなたの会社が販売した品物に疑いを向けるような噂が起こらないようにしたいとおっしゃるのですね」
「あなたのところにやってきたのはそれが理由です」とモンティは言った。「仕事は仕事です。しかしそれはそれとして、事実は事実であり、我々はそれに向かい合う覚悟があります。私はプリュメット氏に電話をしたところ、氏は私に、あなたの前に事実を提示する許可を出しました。
「もしそうしなければ」とエッグ氏は率直に言い添えた。「誰かが、そしてこの問題は不利益を被ることになるでしょう。不愉快な事実の暴露を、爆発するまで待ってはいけない。もし真実が語られるべきなのであれば、自らそれを買って出るべし。セールスマン語録に書かれている金言です。良識的な事柄が山ほど詰め込まれた、素晴らしい本ですよ。良識をもって語るという、この一点を貫く限り、私たちの若い友人を傷つけることはないのではないかと思います」
「あなたはレイモンド・ウィップリーのことを言っているのですかな?」と検死官は尋ねた。「あの若者はいささか病的であった、と言ってもいいでしょうね」
「その通りです、閣下」と警部は頷いた。「愚かな悪党どもを随分見てきましたが、奴はその遥か上をいきます。奴は馬鹿者ですよ。父親と喧嘩をし、あんな疑わしい状況で逃げ出すなど……「私がやりました」という電光看板を出しているも同然です。しかし、あなたがおっしゃるように、私は奴がすべてを行ったとは思っていません」
「ええ、おそらくそうでしょう」とモンティは言った。「そしてもう一人、舞台の上にいたのは老ウィップリー氏です。紳士の皆様、ご承知の通り私は顧客すべてを把握しています。それが私の仕事ですし、もちろん、皆さまのお好みも頭に叩き込んでいます。軽くてドライなシェリーをお好みの紳士に、1847年のオロロソをお勧めするのはよろしくありませんし、ヴィンテージなポートワインを取引する時にドイツ産の辛口ワインを押し付ければ顧客を憤慨させることになるでしょう。
「今回の件で分からないのは、故ウィップリー氏が一体全体なぜクレーム・ド・マントを口にしたのかということです。彼は女性に供するためだけに、それを保管していました。いかなる飲み方においても、彼がその味を好むことはなかった。レイモンド氏が彼に何を言われたかについてはご記憶かと思います」
「それは確かに問題です」と巡査部長は言った。「しかし彼はいずれにせよ毒を飲んだ。それは間違いありません」
「皆さんにお願いしたいのは、その結論は一旦脇に措いていただきたいということです。もし陪審が提示した通りのやり方で行われたというのであれば、この殺人は愚かさの極みと言っていいでしょう。しかし、このワインボトルのシールは見逃すべきではありません。これについて、説明をさせていただきます。検死審問の際にも私は口を出しませんでしたが、それは事実が不足していたからです。しかし、今ならお話しできます。さて、当然の理屈ですが、このシールがあの日書斎でボトルから外されたのであれば、必然それにぴったり合うボトルが存在するはずです。さて、それはどこにあるのでしょうか。そう、どこかに行ってしまったのです。ボトルが消えたという事実によってすべてが分かりました」
「よろしいですか、ウィップリー氏は私の雇い主であるプリュメット&ローズ商会と五十年以上にわたり取引がありました。弊社は一昔前に創業した会社なのです。そしてあのシールは、1900年に破産したフランスの輸送業者によって付けられたものでした。「プレラティエ・エ・シエ(Prelatier & Cie)」というのがその会社の名前です。弊社は英国におけるその会社の品物の販売業務を代行していました。さて、件のシールは彼らが出荷したノワイヨ(Noyeau)のボトルに付けられていました。そのことはシールに残された末尾の二文字から分かります。そして弊社はプレラティエのノワイヨのボトルをウィップリー氏にお届けしました。他のいくつかのサンプル品と一緒に、1893年6月14日に」
「ほう、ノワイヨですか」と興味深げに検死官は尋ねた。
「その意味は伝わったかと思います、先生」とエッグ氏は応えた。
「無論ね」と検死官は述べた。「ノワイヨとは、苦扁桃、また桃の種の精油の香りがついたリキュールだ。間違っていたら訂正してください、エッグさん。そしてそこにはごくわずかな青酸が含まれている」
「その通り」とモンティは言った。「当然のこと、普通の飲み方をすれば、グラスの一杯や二杯で人を死に至らしめるようなことはありません。しかし、そのボトルを十分に長く立てたまま放置していれば、精油は分離し、ボトルの上方に溜まることになります。つまり、古いノワイヨのボトルから注いだ一杯目は猛毒なのです。私は『食事と毒物』というフリーマン&トップレディ社から二、三年前に出版された本を読んでこの事実を知ったことを、ふと思い出したのです」
「セドリック・ウィップリーの会社ですな」と警部は言った。
「まさしくその通り」とモンティ。
「つまり厳密には、あなたは我々に何を言おうとしているのですか、エッグさん」と巡査部長は尋ねた。
「殺人ではなかった、ということです」とモンティは言った。「いやいや、事態がどのように進行したかを示しましょう。レイモンド氏が書斎を去った後、落ち着かず気もそぞろな老人は、少しく慌てた時にするだろうことをしたと考えられます。つまり、冷たくなってしまったコーヒーを飲もうとした彼は、一緒にリキュールを飲もうと考えたのではないか。
「キャビネットの中をひっかきまわして……その時は何も考えてはおられなかったのでしょうね……過去四十年間に渡って開栓されることなく立てられていた古いノワイヨのボトルを掴んだ。ボトルを取り出し、シールを取り除いて炎の中に投げ込み、コルクスクリューでコルクを引き抜いた。私は彼がそうするのを何度も見たことがあります。そしてグラスに一杯、危険だなどとはまるで考えずに注ぎ、椅子に腰かけたままグッと一口、そして亡くなった。助けを呼ぶ余裕はなかったでしょう」
「実に鮮やかな説明だ」と巡査部長は言った。「しかし、ボトルとコルク抜きはどうなったのでしょうか。また、どのようにしてグラスの中にクレーム・ド・マントが入ることになったのでしょうか」
「それですが、まずレイモンド氏が犯人でないことは誰の目にも明らかです。なぜなら、すべては彼が立ち去った後に起こったわけですから。想像してみましょう。午後十一時半を回った頃、ミンチン夫人は自室を整えていて、他の使用人たちはベッドに入っている。その時、ある人物が書斎に入っていき、ウィップリー氏が死んでいるのを発見する。ノワイヨのボトルが死体のすぐそばに置かれているのを見た彼は、何が起こったかを即座に察します。
「さて、その人物はコルクスクリューを抽斗に仕舞い、レイモンド氏のグラスに残った数滴のクレーム・ド・マントを亡くなったウィップリー氏のグラスへと移し替える。そして、ノワイヨのボトルを持ち出し、どことも分からぬ場所へと廃棄する……ざっとこんな感じです」
「しかしその人物はどのようにして、レイモンド氏のグラスに指紋を残すことなくそんなことをやってのけたのでしょうね」
「単純なことです。単にステムを指の股で挟んで持ち上げたというだけのことでしょう。きっとボウルの底にかすかな油汚れが残っていると思いますよ」
「では動機は?」と巡査部長は食い下がった。
「さて、それは私が言うべきことではありません。それにしても、レイモンド氏が父親を殺した罪で絞首刑になれば、その遺産は最近親のところに転がり込みますね……ノワイヨに関する知識を我々に与えてくれた本を出版された、あの方のところに。
「何とも残念なことです」とエッグ氏は言った。「弊社が問題の商品を提供していたなんて。もし事故が起こり世間から責められることにでもなれば、何とか醜聞にならぬように手を尽くさなければいけません。たとえ弊社が責任を負うものではなかったとしても、そういった性質の品物を提供していたという事実に変わりはありません。次回のカタログには、警告文を載せることになるでしょうね。
「それはそうと、みなさん。『プリュメット&ローズ商会百年史』が今度出版されるのですが、ご自宅にお送りしてもよろしいですか? どこの書斎においても恥ずかしくない、素晴らしい仕上がりになる予定ですよ」

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