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WEB Re-ClaM 第9回:短編試訳③ドロシー・L・セイヤーズ「午前の殺人」

WEB Re-ClaM 第9回です。今回はドロシー・L・セイヤーズの短編の翻訳を掲載します。セイヤーズの名探偵といえば貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿が有名ですが、彼女のもう一人の探偵役が、本作に登場するモンタギュー・エッグ氏。酒類のセールスマンをしている陽気な中年男性エッグ氏が旅先で出会った謎めいた事件を、いつも手放さぬ『セールスマン金言集』を引用しながら解決していくという趣向のシリーズです。今回は、一九三三年に刊行された短編集 Hangman's Holiday から "Murder in the Morning" という作品をご紹介します。
【お詫び】
本編は、井伊順彦編『自分の同類を愛した男』(風濤社、2014)にて「朝の殺人」として既に翻訳があるものでした。「未訳」としてご紹介しましたこと、失礼いたしました。また、上記翻訳に携わられた訳者の方にもお詫び申し上げます。

ドロシー・L・セイヤーズ「午前の殺人」(三門優祐訳)

「ディッチリーに向かう幹線道路を半マイルほど行って、道標のところを左に曲がるといい」とマングルスで会った旅人は言った。「しかし、時間の無駄だと思うぞ」
「いやいや」とモンタギュー・エッグ氏は陽気に言い返した。「老鳥に一発弾を撃ちこんでみようと思います。『セールスマン金言集』にも、「どんな小さな機会も逃すな、行動を起こせば何かが起こる」とありますから。実際、その男は金持ちなのでしょう?」
「タンスの中にソヴリン金貨がぎっしり、と近所ではもっぱらの噂だ」とマングルスの旅人は認めた。「とはいえ、面白ければあることないこと言うような奴らだがな」
「先ほど、周辺には家がないというような話をしていませんでしたか?」
「ん? ああ、確かに「隣近所に住んでいる者」はいないよ。言葉の綾さ。まあいい、幸運を祈るぜ!」
 エッグ氏は小粋な中折れ帽を振って感謝の意を示すと、静かにクラッチを繋いだ。
 幹線道路は六月の土曜日の朝らしい、賑やかな行きかいで混みあっている。休暇を取ってメルベリーの森へ、あるいはビーチャンプトンの浜辺へ出かけるに相応しい陽気だ。しかし、「こちら、ハッチフォード・ミルまで二マイル」という道標で曲がって細い小道に入った途端、深い孤独と沈黙が周囲に垂れ込め、生垣から時折飛び出すウサギが立てる葉擦れの音と、彼が乗っているモーリスのエンジン音以外何も聞こえなくなった。謎のピンチベック氏がいかなる人物であれ、間違いなく孤独な魂を抱えているに違いない。一マイル半ほど小道を下って行った末に、碌に手入れもされていない庭の真ん中に立つ小ぶりなコテージを見つけた時、モンティはマングルスの旅人が言っていたことは正しかったと思った。ピンチベック氏は確かに金持ちかもしれないが、葡萄酒や蒸留酒を提供するピカデリーのプルメット&ローズ商会の良き顧客にはなりそうもない。しかし、『セールスマン金言集』の第五条には「もし君が「セールスマン」の名に相応しくあるならば、剃刀からビリヤードの玉までなんでも売ることができる」とあるではないか。エッグ氏は庭の境界線のところに車を停め、歪んだ門を引っ張り開けた。錆びついたレールのあちこちがギシギシと軋む。車をでこぼこの道に乗り入れると、濡れた土の上に轍が刻まれた。
 コテージのドアは閉ざされており、モンティは気泡の浮いた表面を元気よくドンドンと叩いた。特に意外ではないが、中から答えは返ってこなかった。もう一度ノックした彼は、せっかくこんな遠いところまで来たのに目的を無為に放棄したくないと考え、建物の裏手に回った。だが、裏口のドアを叩いても何の反応もない。ピンチベック氏は外出中なのだろうか。仄聞するところでは、彼は外出をしないらしいが。生まれつき粘り強く好奇心旺盛な性質であるエッグ氏は窓に歩み寄って中を覗き込み、静かに口笛を吹いた。そして、裏口のドアのところに戻って建物へと入り込んだ。
 ウィスキーを一ケース、あるいはポートワインを一ダース売りつけようとしてある人の家を訪ねた時に当のご主人がキッチンの床で伸びていたら、なお悪いことに頭蓋骨が粉々になるほど殴られていたら、実に不愉快な気分になる。エッグ氏は西部戦線で二年間従軍したが、こういった状況にはついぞ慣れなかった。死体にテーブルクロスをかけた彼は、几帳面な人間らしく腕時計を見て時刻を確認した。一〇時二五分。一分間じっと考え込んだのち、彼は敷地から可及的速やかに退散して警察署へと駆け込んだ。

 翌日、ハンフリー・ピンチベック氏に関する検死審問が開かれ、「一人または複数の不明の人物による故殺である」という評決が与えられた。それ以降二週間というもの、モンタギュー・エッグ氏は毎日落ち着かない気持ちで新聞を眺めた。警察は手掛かりを追った結果、ある男を手配した。その男について、新聞はこう描写している。印象的な見栄えの男性で、赤っぽい色のひげを生やし、チェックのスーツを着ている、そして登録ナンバーが「WOE1313」のスポーツカーに乗っている、と。その男は発見され、告発された。そして三百マイル離れたところに暮らしているモンタギュー・エッグ氏も、実に不愉快ながら、ビーチャンプトンの裁判長の前で証言を行うために召喚された。
 シオドア・バートンと呼ばれた被告は四十二歳の職業詩人(モンティは詩人という存在をこんな至近距離で見るのが初めてだったので、じっくり観察してしまった)で、背が高く頑健な体つきをしていて色鮮やかなツイードを身に着けていた。そして、この不面目な疑惑も的外れではないのかもしれないと思わせる雰囲気がある。ロンドンの東部中央地区のバーをぶらついていそうな男だ、とモンティは思った。力強い目をした彼の顔の上半分はハンサムだが、たっぷりとした黄褐色のひげで覆われているせいで口は見えない。完璧に落ちつき払った彼は、話すのを事務弁護士に任せていた。
 モンタギュー・エッグは、死体発見時の状況について証言するべく早い段階で証言台に呼ばれた。死体を発見したのは六月十八日の午前一〇時二五分であったこと、彼が発見した時には死体にはまだ体温が残っていたことを彼は語った。正面のドアには鍵が掛かっていたが、裏口のドアは閉まってはいただけで鍵は掛かっていなかった。キッチンはひどく荒れていて、そこで粗暴な揉み合いが行われたかのように見えた。そして、血まみれの火かき棒が死者の傍らに転がっていた。警察に連絡する前に、彼は手早く建物内を確認した。上階の寝室にあった金属の箱は開けっ放しで中身は空っぽに、また鍵は錠のところに刺さったままになっていた。コテージの中にも庭にも誰一人隠れていなかったが、庭の裏手にある小屋にはつい最近車が停まった形跡があり、また、居間には二人が朝食を摂った痕跡が残されていた。彼(エッグ氏)は幹線道路から車で小道を下って来たが、その途中で誰ともすれ違わなかった。建物の中を調べるのにかかった時間は五分か十分かといったところで、しかる後、元来た道を戻って行った。
 ここでラメージ警部が補足の説明を行った。コテージへと繋がっている小道はさらにあと半マイルほど行くとハッチフォード・ミルへ辿りつく。また、そこで曲がればビーチャンプトンへの幹線道路の、ディッチリーに三マイルほど近い地点へと復すると説明した。
 次の証人は、ボウルズという名のパン屋である。彼は一〇時一五分に、二斤のパンを届けるためにコテージを自分の車で訪れた。裏口のドアをノックしたら、ピンチベック氏本人が対応したとのこと。老紳士はまったくの健康体に見えたが、いささか興奮し、またイライラしていた。キッチンには他に誰も見当たらなかったが、ドアをノックする前に興奮した二人の男の怒鳴り声が聞こえたような気がするという。ボウルズについてきた丁稚の少年もこれに同意し、さらにキッチンの窓の向こうに動いている男の姿が見えたような気がすると付け加えた。
 ハッチフォード・ミル在住のチャップマン夫人は、ピンチベック氏のコテージの掃除他の家事を済ませるために、ウィークデーは毎日訪問するのが日課であると証言した。彼女はいつも、七時半にやってきて九時に帰宅する。一八日の土曜日、いつも通りコテージにやってきた彼女は、前夜に思いがけず訪れた客に会った。被告人のシオドア・バートンこそその客であると彼女は確認した。どうやら居間のカウチで眠ったらしい彼は、その日の朝にコテージを出発した。彼女はまた、彼の車が裏手の小屋に駐車してあるのを目撃した。小型のスポーツカーのナンバー「WOE1313」を彼女ははっきり記憶していた。というのは不吉な数字であったからだが、この危難の予兆は現実のものとなった。小屋の中の様子は裏口のドアのところから見通すことはできない。彼女は二人のために朝食を用意した。牛乳配達と郵便配達人は彼女が立ち去る前にやってきた。そして食料品店の車も、彼女が帰ったすぐ後にやって来たに違いない。というのも、その車はミルを九時半に出発したことが分かっているからだ。彼女が知る限り、誰一人コテージに電話をかけてくるものはいなかった。ピンチベック氏は菜食主義者で、自分の庭で野菜を育てていた。未だかつて訪問客があったためしはなかった。彼女はピンチベック氏と被告人の間で交わされた言葉を聞き取ることはなかったが、老人は上機嫌とは言えない様子に見えたという。「何か悪いことがあったのではないでしょうか」
 その後に、ミル在住の証人が続いた。彼は一〇時半少し前に、ものすごいスピードで走り去る車の力強いエンジン音を聞いた。この通りで速い車を見かけることは滅多になく、一目見ようと家から走り出た時には道を区切っている木々に阻まれて何も見えなかったそうだ。
 ここで警察から、被告が逮捕された時に行われた尋問の内容が挿入された。彼は、自分は故人の甥であると述べ、あのコテージで一晩を過ごしたことを大人しく認めた。しばらくぶりの再会だったが、故人は彼のことを温かく迎えてくれた。甥の「日々の生活にも困っている」という訴えを聞いた故人は、詩人という職業の稼ぎの悪さを諫めた後に親切にも少額の融資をしてくれたので、彼はそれを喜んで受け取った。ピンチベック氏は寝室に置かれた箱を開け、かなりの枚数の紙幣を取り出したという。その中から彼は「五ポンド札十枚」を、勤勉と倹約を心掛けるようにというお小言と一緒にいただいた。それは九時四五分か、あるいは少し早い時間のことだった。少なくとも、チャップマン夫人はその時点で敷地の外に出ていた。箱の中には銀行券と有価証券が山のように入っているように見えたそうだ。ピンチベック氏はチャップマン夫人のことも、出入りの商人のことも信用していなかった(これを聞いたチャップマン夫人は憤慨のあまり金切り声を上げ、裁判長は彼女を宥めてやらねばならなかった)。証言はさらに続き、伯父との間にはいかなる類の諍いもなかったこと、そして、おそらくは一〇時ごろにコテージを立ち去ったこと、そしてディッチリーとフロッグソープを通ってビーチャンプトンに車で向かったことが記録されていた。そこで、彼は車を持ち主である友人に返却し、モーターボートを借りて、ブルターニュで二週間を過ごすべく旅立った。彼は、ラメージ警部が現れて己にかけられた容疑を告げるまで、伯父の死については何も知らなかった。彼は、当然ながら己の無実を一刻も早く証明したいと述べている。
 警察は、最後の商人が家を立ち去るとすぐにバートンは老人を殺害し、鍵を奪い取り、金を盗み、そして逃走したと推理した。死体はチャップマン夫人が月曜日の朝にやってくるまで発見されないと踏んだのだろう。
 それに対してシオドア・バートンの事務弁護士は、ラメージ警部から被告は逮捕された時に五ポンド札を六枚と数シリングに相当するフランスの貨幣しか持っていなかったという事実を引き出した。その時、エッグ氏は誰かが彼の後ろの首筋に激しく息を吹きかけているのに気が付いた。振り返った彼が目にしたのは高齢の女性で、彼女のギラギラ輝く眼は興奮のあまり、顔からポンと飛び出しそうに見えた。
「ああ」と女性は椅子の上で身をよじりながら叫んだ。「ああ、なんてこと!」
「もしもし」とエッグ氏は恭しく語り掛けた。「もしよろしければ、ご事情をお聞かせ願えませんか」
「え、ああ、ありがとうございます。ああ、私が何をすべきか教えてくださらないかしら。言わなければならないことがあるの。かわいそうに、彼はまったくの無実なのです。彼が有罪でないことを私はよく知っています。お願い、私が何をしたらいいのか教えて。警察に行くべきなのかしら。ああ、でも。ああ、でも。そんなところに行ったことなど一度もないのよ。ええ、皆で彼を有罪にしてしまうのだわ。お願いします。皆を止めてください」
「この法廷では、彼を有罪にすることはできませんよ」とモンティは宥めるように語りかける。「彼らにできるのはただ、彼を審理にかけることだけで……」
「ああ、でもそんなことだってすべきではないのよ。彼はあんなことしていないのだから。彼はあの場所にはいなかった。ああ、お願いします。何とかしてください」
 彼女の態度があまりに真剣なものに見えたので、エッグ氏は軽く咳払いし、ネクタイを整え、すっくと立ちあがって大きな声で呼びかけた。「裁判長閣下!」
 裁判長の、事務弁護士の、被告の、裁判所中の全員の目が彼に集まった。
「こちらにいらっしゃるレディが」 モンティは何とかやり遂げねばなるまいと考えながら話し続けた。「被告のために重要な証言を行いたいと仰っておられます」
 視線はたちまち、レディに移った。彼女は慌てて立ち上がり、ハンドバッグを取り落とし、涙ながらに語りだした。「ああ、本当にごめんなさい。警察に行かなくてはならないと思ってはいたのだけれど」
 驚愕と困惑と期待が綯い交ぜになった顔をした事務弁護士がすぐに進み出た。彼はレディをこの状況から救い出すと、囁き声でちょっとした協議を行った上で、以下のように述べた。
「閣下、ここまで私は依頼人の指示通りに弁護を進めて参りました。しかし、今この瞬間に初めてお会いしたこちらのレディが、今回の告発に対する完璧な応答となるだろう証言を行うべく、立ち上がってくださいました。彼女に証言台へと上がっていただいてもよろしいでしょうか」
 打ち合わせの後、もし被告が賛同するならばぜひ証言を聞くべきだと裁判長が決定を下した。それに伴って、レディは証言台に上がって宣誓を行い、ミリセント・アデラ・クイークと名乗った。
「私は未婚婦人で、ウッドベリー女子高等学校で美術の教師として働いています。十八日の土曜日はもちろん休日だったので、ひとりでメドベリーの森にピクニックに行こうと考えました。九時半ちょうどに出発いたしまして、ディッチリーに到着したのは三十分後といったところです。私は車を速く運転することはいたしません。この近辺は道路が混みあって危険ですので。ディッチリーを通り過ぎた後、ビーチャンプトンへの幹線道路を右折しました。そのすぐ後、車に十分な燃料が入っているかどうかが気になり始めました。車の目盛りというのは当てにならないものでございましょう? ですから、一旦停車して燃料を満タンにしておくべきだと思いました。そこで道端のガレージに立ち寄ったのです。正確な場所は分かりませんが、ディッチリーから少し行ったところ、あの町とヘルピントンの間のどこかです。ひどくみっともない建物で、屋根の波板鋼板は毒々しいほどの赤で塗られていました。そんな風にするなんて不適切だと思ったほどです。そこにいた男の人―とても背の高い若い男性―に燃料タンクを一杯にしてくれと頼んだのですが、その時、あの紳士―はい、そうです。私は被告人のバートン氏のことを言っています―が車を停めるところを見ました。彼はディッチリーの方角から結構なスピードで運転してきて、道路の左手側に車を停めたのです。ガレージは道路の右手側にあるのですが、彼を見た時強い印象を受けました。見間違いではありません。ひげも着ている服もとても印象的ですから。はい、あの時来ていたのと同じ服です。さらに、彼の車のナンバーに気が付きました。とても風変りなナンバーではありませんか、「WOE1313」なんて。ええ、彼はボンネットを開けて、何かのプラグをいじっていたようです。そして走り去りました」
「それは何時のことですか?」
「今言おうとしていたところです。その時に腕時計を見たのですが、止まっていることに気が付きました。何とも腹立たしいことです。きっとハンドルの振動のせいです。でも、ガレージの時計を見ると―ドアの上に架かっていたのですが―一〇時二〇分を指していたので、その時刻に腕時計を合わせました。そのあとメドベリーの森に行き、ピクニックを楽しみました。その時にもう一度腕時計を見たのは運がよかった。というのも、私の時計はまた止まっていたからです。でも、この紳士がガレージのところに車を停めていたのが一〇時二〇分であることは確かです。すなわち、一〇時一五分から二五分までの間に気の毒な被害者の方のコテージで殺人を行うことはできなかったはずですわ。だって、二十マイル以上も離れた場所にいたんですから……はい、私はそう思います」
 クイーク嬢は軽く息切れしながら証言を終え、勝ち誇ったように周囲を見回した。
 ラメージ警部は静かに考え込んでいるようだった。クイーク嬢は続けて、なぜ自分がもっと早くこの話をしなかったのかという説明を行った。
「新聞でこの事件の記事を読んだ時、手配されている車は自分が目撃したものに違いないと思いました。ナンバーが同じだったからです。でも手配されている人が、自分が目撃した男かどうかは判然としませんでした。新聞記事というものは誤りが多いものですから。そう考えると、警察と関わり合いになるのは避けたいと思いました。ご存じでしょう、学校というものは……生徒のご両親はそういうことを好まれません。でも思ったのです。裁判所に行って、自分自身の目でこの紳士を見れば、きっと確信が持てるはずだと。ワグスタッフ校長は親切にも、行っていらっしゃいと言ってくださいました。しかし今日は、本当はあまり都合が良くなかったんです。午後に用事がいくつもあって。でも生きるか死ぬかの問題ですから、万難を排して参りました」
 裁判長はクイーク嬢の公共精神に満ちた行いに感謝の意を述べ、そして新たな証言に基づく調査を行うために休廷とする旨を、検察側弁護側の両陣営に対して伝えた。

 問題のガレージをクイーク嬢に確認させることが至急の最重要課題となったので、彼女を連れてその建物を探しに行くことになった。ラメージ警部とその部下の巡査、そして依頼人に対してフェアな捜査が行われることを確認するためにバートン氏の事務弁護士がそれに付き従う。しかし、ここにきてちょっとした問題が持ち上がった。警察の車両は全員が快適に乗るためには大きさが十分ではなかった。モーリスに乗り込もうとしているところを呼び止められたモンタギュー・エッグ氏は、警部から協力要請を受けた。
「どうぞよろこんで」とモンティは答えた。「加えるに、あなたは私を見張っておくことができるというわけですね。もしあの男がやったのでなければ、次の容疑者は私になりますから」
「そんなことはない」と言った警部は、考えていることを読み取られたような気がしたのか、驚きを露わにした。
「そうお考えになるのは当然のことです」とモンティは微笑みながら言い、『セールスマン金言集』の中で一番好きな言葉、「いつでもニコニコ身綺麗にすれば、注文の方からやってくる」を思い出していた。そして彼は、ビーチャンプトンからディッチリーへと向かう道を、警察車両の列に続いて陽気に車をブンブン言わせた。
「そろそろだな」とヘルピントンを通り過ぎたところでラメージは言った。「現在、ディッチリーから十マイル、ピンチベックのコテージから二十五マイル離れた地点に我々はいる。進行方向左手側にある建物を見たまえ。どうやらあれだ」 やがて彼は付け加えた。「皆あそこに駐車するようだ」
 警察車両は見苦しい波板鋼板の建物の前に停まった。その建物は道端にポツンと佇んでいて、種々雑多なエナメルの広告看板でごてごてと飾り付けられ、また何台もの燃料ポンプが立ち並んでいる。エッグ氏はその近くにモーリスを停めた。
「この場所でしたか、クイークさん」
「ええと、良く分かりません。それらしい建物ですし、それらしい場所のようです。でも確信は持てません。こういう小さなお店はどれも似たような雰囲気ですし。でも……あっ、そうです。私ったらなんて馬鹿なんでしょう。もちろんここではありませんわ。時計がありませんもの。ドアの上には時計が架かっているはずです。こんな愚かな間違いをしてしまうなんてごめんなさい。もう少し行った先にきっとありますわ。この近くにあるのは確かなんですから」
 一行は再び道に沿って車を走らせ、五マイル進んだところで停車した。今回こそは間違いないと言い切ることができそうだ。ゾッとするような赤で塗られた波板鋼板造のガレージの周りには先ほどよりさらに多くの看板と燃料ポンプがあり、ドアの上には七時一五分を指す時計が架かっていた(自分の腕時計と見比べて、この時計は正しい時刻を示していると警部は述べた)。
「ここに違いありません」とクイーク嬢は言った。「ええ、あの人にも覚えがあります」 彼女が指さしたのは、客の用事を聞きに外に出てきたガレージの所有者だった。
 質問された所有者は、六月十八日にクイーク嬢の車に燃料を満たしたと、宣誓して証言することはできなかった。その前にもその後にも、彼はあまりに多くの燃料タンクを満たしてきたからだ。しかし、こと時計について彼は確信を持って話した。あの時計は今も、これまでもずっと正しい時刻を指してきた。ドアの上に架けてからというもの一度たりとも止まったり故障したりしたことはない。もし彼の時計が一〇時二〇分を指していたというなら、それは時刻が一〇時二〇分であったということであり、そのことは大英帝国のどの法廷で証言してもいいと請け合った。彼はまた、「WOE1313」という登録ナンバーの車を見たかどうか思い出せなかったが、それも無理からぬことだった。専門家の助けが必要なトラブルが発生した場合、故障個所を探そうとする運転手は彼のガレージの近くに車を停める。しかし、そんな出来事はあまりに日常的なものであり、注意を払う理由はない。忙しい朝には特にそうだ。
 クイーク嬢は、しかしながら確信を深めたようだった。彼女は従業員とガレージと時計の三つでそのガレージこそ自分たちが探しているものだと見極めたのだ。念のため一行はディッチリーまでの道のりをすべて確認したが、点在しているガレージの中には彼女の説明と完全に合致するものは一つも存在しなかった。そのいずれも、色が違ったり、建材が違ったり、または時計がなかったりした。
「やれやれ」と警部は悲しそうな雰囲気を漂わせながら言った。「一度は共謀を疑ったにしても(この女性を観察した限りありそうもないことだが)、その疑いはもはや晴れたと言っていいだろう。彼女がバートンを目撃したガレージは、ピンチベックのコテージから十八マイル離れたところにあった。そして、老人が一〇時一五分に生きていたことは確実だ。つまり、バートンには彼を殺すことは不可能だった……もし彼が時速二百マイルで車をすっ飛ばしたというなら話は別だが、そんなことは不可能だ。もう一度初めから捜査をやり直さなければならないな」
「ちょっと妙じゃありませんか」とモンティは朗らかに言った。
「そうは思わない。パン屋がキッチンで声を耳にしたと言っただろう? それが君の声でなかったのは分かっている。自分で君の当日の動きを確認したからな」と言ってラメージ警部はニヤリと笑った。「おそらく金の残りはどこかから出てくるだろう。一日仕事になるから、戻った方がいい」
 モンティは帰路の十八マイルを、思慮深げに黙りこくって運転した。時計の架かったガレージのところを通過した時(その時、警部は決まりわるげに拳を握りこんだ)、エッグ氏は「あっ!」と驚きの叫びを上げ、急停車した。
「おい、なんだ!」と警部も叫んだ。
「思いつきました」と言ったモンティは、懐中から手帳を取り出してそれを調べた。「ああ、思った通りです。ある偶然に気が付いたんですよ。ほら見てください。分かりますか? 「幸運を信じるな、小さな事実をコツコツ追い求めよ」という評言もあります」 手帳を元に戻した彼は車を発進させ、警察車両を追い抜いた。しばらくして、彼らは最初に確認したガレージのところまで戻って来た。そこは建物や周囲の様子は条件に合致したものの、時計が架かっていないという一点で除外された店だった。彼が停まると、彼を追う形になった警察車両も皆停まった。
 期待ありげに外に出てきた所有者が、先ほどのガレージで尋問を受けた男に似ているという事実に全員が驚愕した。モンティは礼儀正しく、相手にこの事実を指摘した。
「そりゃそうだ」と男は言った。「あいつは俺の弟だもの」
「ガレージの様子も似ていますね」とモンティ。
「同じ会社から買ったんでね」と男。「必要な部品を売ってくれるんだ。大量生産って奴だな。ちょっと手の器用な奴なら一晩で建てられるだろうさ」
「なるほど」とエッグ氏は納得したように頷いた。「規格化によって労働の手間も時間もお金も節約できるというわけですね。しかし時計は置いておられないようですが」
「まだな。この間注文したんだが」
「まだ手に入れていらっしゃらない?」
「ああ」
「以前にこの女性に会ったことは?」
 男はクイーク嬢を頭の先から足の先までじっくりと観察した。
「ああ、あると思うぜ。燃料を入れに、午前中に来たんだったな。二週間前かそこらの土曜日だ。俺は人の顔を覚えるのが得意なんだ」
「それは何時のことでしたか?」
「一一時の十分前か、その数分後だ。一一時のお茶のためにやかんでお湯を沸かしていたからよく覚えている。そのくらいの時間で、カップに一杯紅茶を飲むのが習慣なんだ」
「一〇時五〇分だと!」と警部の目が鋭く光る。「そしてこのガレージは……」 彼は頭の中で素早く計算した。「コテージから二十二マイルの地点にある。殺人が起きた時間から約三十分後とすれば、時速四十四マイルだ。スポーツカーなら十分に出せる速度だぞ」
「いや、しかし……」と事務弁護士が割り込もうとした。
「ちょっと待ってください」と言ったモンティは所有者に問いかけた。「あなたはここに、「点灯時刻」を示すための、自由に針を動かすことができる時計を模した看板を架けていたのではありませんか?」
「ああ、そうだ。しかし問題があって、いつでもドアのところに架けたままにしておくようにしておいたのを先週の日曜日に外したんだ。本当の時計だと勘違いして混乱する客が多くてね」
「そして六月十八日の「点灯時刻」は」と、静かにモンティは言った。「私の手帳によると午後一〇時二〇分です」
「なるほど!」と言ってラメージ警部は、腿をパチンと叩いた。「あんたは素晴らしく頭が切れるな、エッグさん」
「偶然のひらめきですよ」とモンティは答えた。「「セールスマンは、お脳を使えば苦悩から逃れられる」と、『セールスマン金言集』に書かれているんです」

訳者補足:イギリスでは日の入りの三十分後から日の出の三十分前までを「点灯時刻」(Lighting-up Time)と設定しており、その時間に明かりのない公道を走行するすべての車両に対してヘッドライトを点灯するよう法律で義務付けています(全国的にこの法律が導入されたのは一九〇七年)。現在では街灯のない公道は減ってきていますが、現実的にこの時間にはすべての車両がヘッドライトを点灯することを推奨されているようです。英語版ウィキペディアによると、二〇年代には「点灯時刻」をまさに作中説明されたような看板で示すことが各地のガソリンスタンド、またガレージで一般化したそうで、本作が発表された三三年には旅するセールスマンのエッグ氏にとって見慣れた風景となっていた可能性は高いです。
(参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Lighting-up_time)
 本作におけるアリバイの謎は犯人が弄したものではなく、老嬢の勘違いなど様々な偶然が合致して生じたものであり、これを解決することで犯人を絞り込めるようなものではありません(犯人が伯父を殺した確たる直接証拠はない)。しかし、陽気なエッグ氏が謎を軽やかに解く面白さは十分に堪能できると思います。
 本作に登場する町の位置関係が分かりにくいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。私の理解したところでは、「ビーチャンプトン→ヘルピントン→(この間10マイル)→ディッチリー→(この間15マイル)→ハッチフォード・ミル」という順に幹線道路沿いに町が配されており、コテージはハッチフォード・ミルから脇道に入ったところにあるようです。メドベリーの森は(明示はされていませんが)、おそらく海辺の町ビーチャンプトンの近郊にあると推測できます。

 なおトップ画像は以下のサイトからお借りしました。


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