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「半自伝的エッセイ(29)」どんぐりの経験

ある時、チェス喫茶「R」の常連さん達で、たまにはピクニックにでも行くかという話になり、マスターも含めて総勢十数人で都内の公園に出かけた。秋のことだった。

各自、数名分の食べ物やつまみ、それに飲み物を持参で現地集合ということで、三々五々集まってみると、女性陣はサンドウィッチやおにぎりや煮物といったピクニックに適したものを持ってきてくれたが、男性陣はスーパーで購入した乾き物が中心で、中には瓶ビールを一箱抱えてきたり、牛丼を十数個買ってくるという猛者もいた。

しばらく飲み食いした後、誰かが両手いっぱいのどんぐりを拾ってきた。別の誰かが、これチェスの駒になるんじゃないと言った。全員がチェス好きだから、だったらやってみようということで、実際にやってみることになった。

といっても、どんぐりはほとんど同じ大きさ同じ形なわけで、駒の区別がつかない。とりあえず、やや大ぶりなどんぐりをキングと決めて、そのほかはただ並べてみた。マスはないが、芝生の上に並べてみたら、だいたいこれでいけるだろうという初形ができあがった。

私は数局横で対局を見ていたのだが、対局者が時折その駒なんだっけ?みたいなことはあったものの、駒がどんぐりでも特に問題なくゲームは進行していった。実際に自分が対局してみても問題なかった。

その夜、自分のアパートに帰り、布団に入っても頭が冴えてしまい、なかなか眠ることができなかった。「チェスの駒の違いってなんだ?」と考え始めてしまったからである。どんぐりでゲームができるのなら、駒の見た目の違いは関係ないのではないか? そんなことを考え始めたら眠れなくなったのだった。

いつも私は頭の中でゲームの展開や手筋を考える時、チェスの戦術書で使われている駒の記号(図)を頭の中で動かしていた。ほとんどの人はそうではないかと思う。しかし、どんぐりの経験によって、記号が不要だと教えられた。だったらどう頭の中で駒を動かせばいいのか。

思いついたのが、というか、どんぐりでゲームをしていた時に気づいたのだが、あるどんぐりに付与された機能(動きと効き)だけを頭の中で動かせば、なんの問題もない。ということは、普段からそれでいいのではないか。

ということで、翌日から私は脳内盤で考える時、駒の図柄は思い浮かべずに、その機能だけを動かすことにした。すると、図柄を思い浮かべていた時よりもずっと高速で駒を動かせることがわかった。私の中ではコペルニクス的転回だった。なぜもっと早く気づかなかったのだろうか。

頭の中で高速で先の展開を読めるようになっただけでなく、局面を高速で戻せるようにもなった。私は旅行をしているような気持ちになった。どこかを訪ねるという意味での旅行ではなく、未来と過去を自由に行き来できる時間旅行である。私は有頂天になった。この能力を手に入れたからにはチェスでもっと強くなれるのではないか?

ところが、実際の盤と駒を前にして指すと、どうしてもその形にとらわれてしまい、高速で動かすことができない。だから、目をつぶって考えるのだが、目を開けると実際の盤と駒がそこにあり、頭の中で考えたことのかなりの部分消えてしまう。どうやっても折り合うことができなかった。

インターネットで対局するようになった今もこの状態に変わりはない。つまり、目を閉じれば盤上の時間旅行の能力を手に入れたかもしれないのだが、それによって目に見えるほどの棋力の上昇はおそらくほとんどなかったのだった。


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