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「半自伝的エッセイ(13)」強い自分

チェス喫茶「R」に豊島君と呼ばれている青年がいた。高校生だと聞いていた。私は盤を挟んだことはなかったが、何度か対局を側で見ていたことがあった。かなりの攻め将棋(チェス)の棋風で、どう考えても無理筋だろうという攻めを通したりしており、感心させられることもしばしばあった。

その豊島君がある日、詰襟姿で「R」にいた。それまではたぶん土日だったのだろう、私服で来ていたから学生服姿はその時初めて見た。学生服の豊島君は確かにまだ高校生に見えた。というより中学生と言っても通りそうな、幼い印象を受けた。

豊島君はカウンター席に座り、マスターとチェスを指していた。私は少し離れた席で別部屋でよく指していた人と盤を挟んでいた。あのことがあってからできなくなっていた賭けチェスをこっそりやっていたのである。精算は店を出てからしていた。

私の席からは豊島君の背中しか見えなかったが、いつものように背中をちょっと丸めてどこかおどおどした様子なのは変わりなく見えた。
「ねえ、こんな攻め筋、どこで覚えたのよ」マスターが豊島君に尋ねる声が聞こえた。
「どこって言われても」豊島君が小さな声で言った。
「そっか、ここで受けておかないと駄目なのか」
二人は対局を終えて感想戦をやっているようだった。

「なあ、藤井君、豊島君と指したことある?」マスターがカウンターの向こうから私に声を掛けた。
「いや、なかったと思いますが」
「じゃあ、指してみてよ」
言われて私は豊島君と対局することになった。

側で見ているよりも実際に指してみると、豊島君の攻めは厳しかった。自分のキングはほったらかしにして、とにかく攻めを優先していた。それが自分のキングを危うくすることを知っていても。
対局は私が勝った。さすがに自分のキングを放置している相手にはきっちり攻めを受けておけばいくらでも勝つ機会は巡ってくる。

対局を終えた豊島君の肩の辺りをマスターが軽く叩いた。
「もっと自分を大切にしないと」横に立って対局を眺めていたマスターが言った。
豊島君が丸めた背をさらに丸くした。
「ぼく、、、」
「うん?」
「ずっと、、、」
「うん、ずっと?」
「いじめられていたんです。引っ越しとか多くて」
「うん」
「チェスをやっている時だけ強い自分になれるような気がして」
「そうか。そうだったのか。これから君はいろんな知識や技術、経験を身につけていく。それはチェスの手駒と同じで、君を助けてくれる。でもな、キングを取られたらおしまいなんだ。わかるよな?」
豊島君は下を向いて泣いているようだった。

文中に登場する人物等は全て仮名です。


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