見出し画像

「半自伝的エッセイ(10)」目隠しチェス

チェス喫茶「R」では時折、余興的に目隠しチェス大会が開かれた。読んで字のごとく、対局する二人は目隠しをして、符号を言い合って指すわけである。マス目が引かれたホワイトボードに誰かが作った磁石付きの駒で対局する。

目隠しチェスで無類の強さを見せる人がいた。名前を森内さんと言った。まだ二十代そこそこで、すでに会社勤めをしていたが、雰囲気はまだ学生だった。その森内さんだが、実際の盤を挟んで対局すると際立って強いというわけではなく、なぜ目隠しチェスがそんなに強いのか謎だった。

盤を挟んでも目をつぶって考えればいいんじゃないかとアドバイスをする人もいたが、「立体の残像があるとうまく頭の中で動かせないんだ」と森内さんは言った。森内さんは自動車免許の実技試験に二度落ちたらしく、「俺、三次元が駄目なのかな」と落ち込んだ様子で話すこともあった。

今から数年前のことである。ネット対局をしていた私の相手がどうも森内さんに似ていた。チェスの指し手にも無くて七癖みたいなところがあって、案外と癖が出るものなのである。私は思い切ってチャットで尋ねてみた。
「間違っていたら申し訳ありませんが、森内さんではありませんか?」
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「藤井です」
「どちらの藤井様でしょうか?」
相手はかなり警戒しているらしかった。
「Rで指したことがあります」
「ああ、あの時の!」

そのことがあってからしばらくして二人で飲んだ。私には森内さんに訊いてみたいことがあった。三十年前に、現在のようにネット対局が盛んで、賞金のあるコンテストも頻繁に開催されていたら、森内さんはそれで結構やっていけたのではないかということである。三次元が苦手であってもモニター越しに指すチェスであれば森内さんの力が思う存分発揮されるはずだからである。

「あ、いやね、烏滸がましいけど自分でもちょっと考えたことがある。でもさ、絶対に夢中になってたよね、仕事とかそっちのけで。というより、仕事なんか辞めてたかもしれない。そうしたら女房は子供を連れて出てっただろうね」
「結婚されてたんですか?」
「うん、一人目の子供が産まれたばかりだったかな、Rに行ってたのは。子供も可愛かったけど、自分も可愛かったんだろうね、その頃は。なんか、チェスでもう少しやれそうな気がしてた」
「それからチェスは?」
「しばらくしてまったくやらなくなって、それから仕事漬けだったけど、子供も独立したし、ネットで対局し始めたんだよね、夜とか。そうしたら、そこで藤井君にまた出会った。で、なんで、俺だとわかったの?」

森内さんは目隠しをしてチェスを指す時に、ほとんど見事といっていいほど同じ間で指していた。具体的には相手が指してからきっちり五秒ぐらい置いて自分の手を指した。先日のネット対局でもそうだった。普通はどこかで悩んだりするものである。常に同じ間隔で一手を指せるというのはすごい能力としか言いようがない。頭の中に現局面が正確に再現されていなければ到底できないし、先々の局面をきっちりイメージできなければ決してできない超絶技巧である。

私は少し意地悪な質問を森内さんにしてみた。
「運転免許は取れたんですか?」
「すぐ諦めた」
運転免許はその気になれば誰でもたぶん取れるだろうが、私は運転免許よりも森内さんの脳内チェス能力のほうが羨ましかった。

文中の名前等は全て仮名です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?