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「半自伝的エッセイ(7)」フロッピーディスク

ほどなくしてマスターの思惑どおり私は野原ちゃんと親密な関係になった。そうは言っても、私のほうに警戒心があったせいか、どこか埋められない距離があったのも確かだった。

それでも時折聞く身の上話から野原ちゃんが現在の自分の境遇に不満を抱いているらしいことはうっすらとわかってきた。本当は進学校に行きたかった(それなりの学力はあった)けれど、父親の強い意向で商業高校に行かされた。卒業すると父親が知っている土木会社に経理として入社させられた。その会社には警察の天下りがいて、毎日出社してくるが日がな一日新聞を読んでいるだけで高給をもらっていた。父親の歳の離れた兄が警察務めだったから、その辺りが色々関係しているらしい、などなど。

野原ちゃんと逢う時はいつも少し飲んでからカラオケ屋に二人で入った。その頃はまだカラオケボックスという呼び名はなかった気がするが、今と同じく個室でカラオケができる店が増えてきた時期だった。金のない男女がラブホテル代わりに使ってもいた。コンドームが置いてある店もあったぐらいだから、店としてもそういう使い道を期待していたのだろう。野原ちゃんは実家住まいだったし、私のアパートの部屋は隣の部屋との仕切りがベニア板みたいな作りだったから、二人でカラオケ屋をよく利用した。

しかしその日は新宿のやや高級そうなラブホテルに行った。私には小金があったからである。昼間、立川競輪場に私はいた。最終レース、展開はシンプルだった。逃げる谷川の後ろが三人の番手争いになり、別線の捲りが決まるかどうか。谷川の脚力を考えると逃げ切りが濃厚だった。オッズもそれを裏書きしていた。だが、それまでとことん負けていた私は、捲りが決まり谷川が二着になる車券に残金すべてを投入した。そうしたところ、そのとおりになり、私はジーンズの後ろポケットが膨らむぐらいの金を手にして野原ちゃんと逢った。

私がタバコを吸っていると野原ちゃんがシーツを躰に巻いてベッドを降りていった。そしてバッグの中から何やら取り出して私に渡した。見るとそれはフロッピーディスクと呼ばれるものらしかった。
「これは?」
「藤井君たち、わたしのこと疑ってるでしょ」
「えっと、藤井君たちっていうのは?」私は警戒しながら言った。
「いいの隠さないで、知ってるから」
私が黙っていると野原ちゃんが続けた。
「裏でお金を賭けてチェスをやってること知ってるよ。でもわたしが誰かに言うわけないじゃない」
「と言うと?」
「わたしは警察とか大嫌いなの。協力するようなことするわけないじゃない。そのフロッピーの中に会社の裏帳簿のこととか全部記録してあるから」
私には野原ちゃんの話の繋がりが今ひとつ理解できなかった。
「本当は大学にも行きたかったし、こんな会社で働きたくなかった。ねえ、わたしとどっか遠くに行こう」
そう言うと野原ちゃんはベッドを降りてバッグからまた何やら取り出してきた。今度は銀行の預金通帳だった。開いて見せてくれたページには私が見たことのない桁が書き込まれていた。確かにそれだけあれば数年は暮らしていけそうだった。だが、どこかに逃げたとしてもすぐに見つかるのではないか。
私の不安を見透かしたかのように、
「藤井君には迷惑かけられないよね」
と野原ちゃんはぽつりと言った。

私は野原ちゃんのことを先崎さんに相談した。先崎さんなら何か知恵があるではと思ったからである。しばらくして先崎さんから連絡があり、野原ちゃんと二人で先崎さんの会社に赴くことになった。
「話がまとまったから」と先崎さんは切り出した。
先崎さんの話によると、野原ちゃんは今月末で退社することになる。今月末までの残りの十日ほどは有給を消化するから明日から出社しなくていい。野原ちゃんの通帳にある金は退職金として支払われたものとする。野原ちゃんは会社で見聞きしたことを口外しない。持ち出した資料などは破棄する。以上が条件だった。

翌年の春、野原ちゃんは大学生になった。一人暮らしも始めた。合格祝いに一緒に飲んだ。
「まだプロブレム作ったりしてるの?」私は訊いてみた。
「全然。わたしにとってチェスって現実逃避の手段だったのかも」
「そういえば、まだあのフロッピーディスク持ってるんだけど」
「持ってればいいじゃない。藤井君いつか警察の厄介になりそうだから、持ってるといいよ」

幸いなことに、そのフロッピーディスクを使うような事態に巻き込まれることはなかった。いつしかそのフロッピーディスクも処分してしまった。

(続く)

文中の名前等は全て仮名です。


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