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初恋の少女が歩いてきた道。

夏休みにて神奈川県相模原市の実家に帰省した。自分が世帯持ちなら家族を相模川に連れていったり、人工衛星で有名なはやぶさの古里、JAXAも近くにあるから連れていくことが出来る。しかし、私は世帯持ちではない。妻もいなければ当然家族もない。実家にいるのは、八十五を過ぎた父と近くのマンションで一人暮らしをしている兄の男三人と、なんとも寂しい家族だ。
そう私はもう五十を過ぎている。二十歳の頃、家庭に不幸があり、このままではいけない、と思い、バイトで貯めた十五万を握って新宿て部屋を探した。家賃は低ければ低いほどいい、と、三万円の四畳半、風呂無し共同便所を借りた。私はその頃から本気でテレビ局のシナリオ賞に応募し一旗揚げようとした。しかし結果は、三十年以上の歳月、辛酸を舐め続け、プロになることを諦めた。
実家に帰っても楽しいことはなく、どこかで狂った歯車。いや、運命の段階でこうなる運命だったのかもしれない。
でも、それでも、私は人生を好転させようと、悪循環の歯車を変えようと、資格の勉強をし、筆記試験を通り、技能試験を受けた。その結果が明日、Web上で発表される。
そんなこともあり、実家に夏休みで帰省するも何もやることがないので、実家近くにある氏神様に御参りに行った。
「資格が取れて、良い会社に転職し、人生が好転しますように」と。
それから、実家に帰省すると大体、通っていた中学校に行く。もとは米軍跡地だっただけに東京では考えられない広さ。外周1キロはある、と言われていたが、三キロ以内と行った方がいいかも知れない。その中学校の傍に二つ、小学校がある。その区画の東と西に生徒を分けるために。そして、中学校で一緒になる。
そこで、中学二年の時、初恋の少女と出会った。そして、三年の時、僕の隣の席に座った少女が凄い秀才で、しかも驚いたのは文化祭の時、その秀才の少女は部活動で演劇部の部長をしていて、体育館で演劇をしていたのだ。
初恋の少女と秀才少女は、共に上○部という地域に住んでいて、昔、「初恋詣で」というシナリオを書くときに住所を調べ、見に行ったことがあった。昭和の卒業文集には住所が乗っている。
そのとき、二人の少女の家を見に行った。頭の中の想像では、二人ともお洒落な家に住んでいると思っていたが、現実は普通の家。感慨深いものがあった。
その数年前、いや十年前以上の記憶を遡り、上○部に行った。行って思ったのは、誰も外にいない。夏の暑さのせいもあるのかもしれないが、それにしても居なさすぎる。そして、家が間違いなく昭和の家だ。たとえるなら「ドラえもん」ののび太の家が軒を連ねている。
また上○部は、とても道幅が狭く、要り組んでいる。町自体が迷路。しかし、苦にはならなかった。三十年以上前の想い人と気になる人の家を見に行く楽しさというか、あの頃まで帰れたら今の悪循環をもたらす人生の歯車を好循環の歯車に変えることが出来るのではないか?
そのための儀式、通過儀礼にも思えた。
散々歩き回り、逆に誰も歩いてない処に見知らぬおじさんが歩いていることに対して、「不審者がうろうろしてます」と言われるのでは、と危惧していた。それぐらい上○部は複雑に入り組んでいる。うろ覚えの記憶を辿りながら歩いていると、三年の時、出会った秀才の少女の家を見つけた。本名が後にも先にも彼女しか出会わなかったから覚えている。シナリオにも登場人物名として使ったことがあるかもしれない。決して忘れることのない、成績優秀でありながら、壇上で恥じることもなく堂々と演じていた姿にとてもインパクトを受けた。少女の家にはコンパクトカーの外車が停まっていた。おそらく、彼女か女兄弟がいればその人の車、と思った。
「成績優秀、眉目秀麗」
外車に乗る彼女は幸せを手にいれたのかな、と思い、初恋の少女の家を探した。目印はわかってる。
青い屋根の普通のお家。
迷路のような道を歩きながら探した。才女の家から距離はあるが同じ上〇部地区。家はそのままあった。エアコンの室外機が回っていたので、ご両親がいるのだろう。
彼女は、以前シナリオを書くとき、妊娠姿の彼女と母親が歩いているのを見た気がした。
家を見て、ご両親も私の父とさほど代わりは無いだろう。それは才女の彼女もまた同じこと。ただ違いがあるとすれば、私はこれから人の道といってはなんだが、資格を取得して新しい仕事先、普通の幸せ、家族、伴侶を手にいれるために、今から前に進まなくてはいけないということだ。
ほんと、何もかもどこか後手後手、自分がいやになる。
しかし、それが現実。
最後にまた来ることがあったら、と思い、道を覚えようと始めに見つけた才女の家に行こうとするも、また迷路に迷い混んでしまった。諦めて中学校に戻ろうとしたとき、才女の家が見えた。ふと、停まっていた車のナンバーを見た。相模ナンバーだった。俺はてっきり、夏休み、嫁ぎ先から車で遊びに来ていると思ったが、地元にいるのか、と思った。
そして、そこから、初恋の少女も秀才の少女も通ったであろう通学路を歩いて中学校に、そのとなりには小学校もある。二人ともランドセルを背負って小学校に通い、それから学生服を来て中学校に通ったんだな、結構な距離があるも、母に起こされ、友達と一緒に通ったんだな、と思うと、どこかあの頃の懐かしさ、素晴らしさ、輝く日々を感じた。
丈夫な体と元気しかない少年少女。それが何よりも得難いもので、
「もっとクタクタになるまで走っていれば良かった。フラれることや、照れなど関係なく心のままに、ガムシャラに、後先考えることもせず、想いのままにはちゃめゃに生きれば良かった」

中学校には誰もいない。この時期、昔は部活動をしていたと思う。校庭の外周にあるランニングコース、テニスコートに雑草がこんなに生えるまで放置してなかったと思う。これもまた少子化の波なのか、町に子供の声が聞こえない。我が家も今のままでは滅びの一途を辿っているが、そういう家庭は少なくないのかもしれない。アパートには老人が多く、訪問看護の看護士さんを良く見かけると父が言っていた。次を受け継ぐ子供が少ないのかもしれない。

三十年前、少女たちが歩んできた道を歩み、どこか感慨深いものがあり、郷愁もあり、あの頃には確かに青春があった。そう思い、図書館に行き、ここに書き記した次第です。

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