見出し画像

HATRA - AI時代のクチュールの復権

数年前からHATRAというブランドに注目している、何がきっかけで知ったのか覚えていないのだけど、確かネットでモデルさんが着ていた動画を見たのが最初だったと思う。その後音楽家(という狭い括りを超える人だけど)菊地成孔さんのバンド、”ラディカルな意志のスタイルズ”のコスチュームやビジュアルを担当したり自分の好きなもの同士が集結するような嬉しい感覚があった。

HATRAはデザイナー長見佳祐さんが2010年に立ち上げたブランドである。長見さんは3DCGで服を作るCLOというソフトウエアを使用したりAIなど先端的なテックを服作りに活用することで知られている。数年前に初めてネットで見た時は衝撃を受けた。僕の好きなSF的でサイバーパンクなビジュアルイメージが服に落とし込まれていたからだ、その後展示会で現物を見てそのテクスチャーに触れてみていやいや、もっと奥が深いぞという印象を受けた。確かにSF的ではあるのだが見ようによっては太古の昔の呪術的なエネルギーを感じるし、架空の民族衣装のようでもある。菊池成孔さんの好きなマイルスのアルバムでいうと『Bitches Brew』『Agharta』的とでもいうべきか、エレクトリックの未来感と呪術的エネルギー、神話的エネルギーの融合のような、、、、とにかくジャカードのニット一つ見ただけでもとてつもないスケールを感じた。

AI時代のクチュールの復権

クチュールとは仕立て、縫製を意味するファッション用語である。服作りにはデザイナーやパタンナー、縫製職人など実は多くの人が関わっている。しかしながら一般的にはデザイナーがクローズアップされることがほとんどだろう。イヴ・サンローラン、マルタン・マルジェラ、リック・オウエンスなどである。コレクションのランウエイでもデザイナーが颯爽と登場するのを動画などで見たことがある人も多いだろう。
僕らのようなファッション業界ではない一般人はどうしてもデザイナーに注目してしまうのだが、実際に服作りをしている人は縫製職人へのリスペクトは忘れないのだと思う。先日NHKプラスで『Holes/デザイナー川久保玲』という番組を見た。コムデギャルソンの川久保玲の穴あき(Holesルック)、黒の衝撃、こぶドレスなどをシンプルに回顧した良い番組であった。僕がおお〜と思ったのは、川久保さんが番組に寄せたコメントで、「自分のモチベーションは、縫製工場が頑張ってくれることだ」と述べたことである。コムデギャルソンが縫製に徹底的にこだわっていることはよく知られている。アヴァンギャルドはしっかりした技術に支えられているのだ。

それではなぜ僕がHATRAにクチュール(仕立て、縫製)の”復権”を感じたのかを書いてみよう。それにはファッション史を遡る必要があり少し遠回りになるがお付き合いいただきたい。ファッション批評の蘆田裕史『言葉と衣服』を参考文献としてこの問題について考えていきたい。

『言葉と衣服』によると(横道ですがこれ、フーコーの『言葉と物』インスパイアですよね)、

20世紀前半までのフランスではファッションデザイナーのことをクチュリエと呼んでいたが、プレタポルテ(高級既成服)が、オートクチュール(高級仕立て服)に取って代わる1960年代からはその呼称がスタイリストへ変わる

同書P.99

イヴ・サンローランの革命

オートクチュールはプレタポルテに取って代わったのである、これまではお金持ちの婦人などの注文で高級仕立て服を作っていたブランドが、いわゆる”吊るし”の高級既成服に変わったこと、この意味は二つあると考えられる。一つは参入のしやすさだ、極端な話仕立ての技術がなくてもセンスとアイディアがあればファッションデザイナーになれる。音楽で言うとパンクやヒップホップのように勢いとかアイディアで参入できるようになったことは大きい。もう一つは作家性である。クライアントの注文ではなく、デザイナーが自身の作家性を発揮して服を作ることになったのだ。これにより一気に美術作品的な価値を帯びてくる。
私事だが、マルジェラ期のエルメスにヴァルーズと言う”ウィメンズ”シャツの名品があり買おうとしたことがある。フロントボタンがなくザックリと開いたデザインになっているものだ。ウイメンズなのでどう考えてもサイズは合わない、腹部分などきっとパンパンになる。しかしどうしても”作品”として欲しくなり古着で買うかどうか悩んだ時期がある。10万超えの金額を出して着られない服を買うのもな、、と冷静になり結局買わなかったけども、この例などはマルジェラの”芸術作品”に、僕の身体が隷属している転倒した関係とも言える。

今ではいわゆる吊るしの服を買うのは当たり前になっているのであるが、プレタポルテの革命は当時としては相当インパクトがあったのではないか。
このようなファッション史の流れの中で、デザイナーの地位はどんどん上がってゆく一方でクチュリエ(仕立て屋)の存在は希薄化してゆく。もちろんデザイナー本人はクチュリエへのリスペクトは強いが購買層も含めたファッションシーン全体としてはデザイナーにスポットライトが当たる流れが続いただろう。

ファッション批評とは

ところで『言葉と衣服』の話に戻るが本書の主題は主に二つである、一つはファッション批評はなかなか立ち上がらないのだが、いかにして可能か?もう一つは身体と衣服の関係である。蘆田さんはそもそもファッション界の言葉の定義が曖昧であり、まずそこから構築しないとファッションに批評は成り立たないと言う強い問題意識があり本書を上梓したのだという。美術や映画などの分野では批評が成立しているのでファッション批評の立ち上げも諦めるわけにはいかないのである。確かに言われてみると美術の分野では美術批評はいかに可能か?など問うまでもなく美術批評は成立している。

欧米のファッション研究もようやくスタートラインに立ったところである。だがスタートラインに立ったということは、やはりファッションに関する言葉の定義がいまだ十分とは言えないのが実情である

同書P.21

僕がファッション研究を志した20年前から、もっと言えば1980年代の鷲田清一以降、他分野に比べるとファッション研究のアップデートが十分になされてきたとは言えません

同書P.170

蘆田さんの言うとおり、ファッション批評がなかなか立ち上がらないのは言葉の定義の曖昧さに起因しているとは思うが私見では他の要因も考えられる。そもそもファッション批評が美術批評のフレームを参考にすることが多いのだが、そこで取りこぼしてしまう領域の存在だ。それがクチュール(仕立て)の領域である。川久保さんが感謝を述べている通り、コムデギャルソンの服は仕立て職人の存在無しには世に出ないのであるが職人は作家ではなく無名であり、腕は確かだがフロントには出ない。美術作品の場合は固有名を持つ作家が作家の名前の元に生み出すのであり、それはたとえ大量消費財をコンセプトにしたウォーホルなどでも変わらない。そこには”大量消費財をコンセプトにしたウォーホル”という名前が与えられているからだ。そうなると作家主義を前提にした批評のフレームはファッションに当てはめにくいのだと思う。一般に美術批評というと哲学や文学理論、精神分析などの人文系諸学問のフレームを借りることが多いのだが、そのような諸学問はクチュール(仕立て)を語るのに適していない。なぜならクチュール(仕立て)とは概念的/抽象的に解釈する物ではなく、端的に針と糸で正確に反復して生み出す職人的作業だからである。針と糸で生み出すものについて、デリダがどうのとかバルトがどうのという余地があまりないのではないか。(多少はあるかもしれないが)

ファッションとは美術の要素と職人仕事の要素が不可分に一体化したモノであり、ファッション批評をするならば美術批評のフレームを借りずに独自の言葉を開発するしかないのではないか(僕にできるとは思えないが言うだけは言う)
また、ファッション界でもゴルチエやヴィクター&ロルフのようにオートクチュールへの回帰の流れも見られ、そうなるとますます美術批評とは別の道を歩むような気がする。

HATRA再び

さて、かなり回り道してしまったがHATRAの話である。HATRAは川久保玲とは別な意味でクチュールへの徹底したこだわりを感じる。これはもしかしたらオートクチュールからプレタポルテへの流れに匹敵する革命の予感がするのである。つまりこう言うことだ、かつてサンローランによるプレタポルテ革命は前述の通り、参入の門戸を開いたこと、芸術家としての作家性が出てきたことが成果だったと言える。一方で作品に身体が隷属する構造も出来上がったためオートクチュールにあったクライアントの価値観との一体感は損なわれ、乖離が生じてきた。
しかしながらAIの導入によって、オートクチュールのクライアント側への寄り添いと、プレタポルテの参入の門戸解放、作家性の両立ができる可能性がある。

AIは瞬時に多数のクライアントの個別のニーズにフィットできるだろう、しかもコストをかけずに。一方で全体をプロデュースするアルゴリズムの領域には作家の独自性がある。これはある意味オートクチュールとプレタポルテの”いいとこ取り”とも言えるのではないか。このことを自分なりに解釈しAI時代のクチュールの復権と考えたのだ。

長見少年、立体裁断に集中

ファッション批評誌『vanitas(ヴァニタス)』に興味深い長見さんのインタビュー記事があった、聞き手は編集委員の水野大二郎、蘆田裕史だ。

僕はパターン専攻だったんです。デザインは学ぶものではないだろうなと思って。街や生活から学ぶことはたくさんあったので、学業はデザインにおける「設計」に集中したい、それに時間を使いたいなと思って。ずっと、本当に何百時間も立体裁断だけをする授業があって。「ココ・シャネルと一緒に働いてました」みたいな先生がパターンの授業を担当してくださってトワルチェックを受け続けるんです。生徒はトワルを何反も買って、ひたすらトワルを組み続ける。

vanitas007

高校生の時にすでに明確なビジョンを持っていてパターン専攻しているのがが素晴らしい、特に”デザインは学ぶものではないだろうと思って”と言う発言はHATRAを考える上で重要だとおもう。長見さんにとってデザインは何百時間もひたすら立体裁断だけをする中で立ち現れてくるものなのだろう。僕は服飾系の学校に行ったこともないし授業内容もわからない全くの素人だけど立体裁断だけを延々とやってそこから何かを掴む大変さは想像できる。昔の人の話だけど毎日500回素振りを続けた王貞治を思わせるストイックさ!kolor の阿部潤一、sacai の阿部千登勢もパタンナー出身だったし何かアルチザン的な日本の伝統と先端的デザインが呼応しているのかもしれない。

身体性

蘆田裕史『言葉と衣服』にはファッションにおける身体論に一章が割かれている。ここでマクルーハン、鷲田清一の身体論をまず概括している。

人が衣服を着始めた理由に立ち戻ってみると「保護」「表示」「装飾」「呪術」といった理由があった、(中略)衣服を「第二の皮膚」とみるマーシャル・マクルーハン的な衣服観が出てくるのも頷ける。マクルーハン的なメディア観はあくまでも人間中心的なものであり衣服が身体を拡張すると言っても、逆に言えばあくまでそれは拡張でしかなく、、、

同書P.142

続けて鷲田清一によるマクルーハンへの批判、鷲田の概念である「身体=第一の衣服」とする考え方を紹介する。それら代表的な身体論を概括した上で蘆田さんとしては、両者は対立するようでいて身体と服が分離可能であることを想定している以上は実は共通しているのではないか、本当に服と身体は分離可能なのか?とラディカルな問いかけをする。エヴァンゲリオンの神経と接続されたマシンのアナロジーを経てヴァーチャル空間における衣服の話に及ぶ。なるほどと思ったのはヴァーチャル空間において身体と衣服の境界は判然としないと言う指摘である。確かにヴァーチャル空間内では同一素材で作られており境界はないと言えるだろう。そこでマクルーハン、鷲田の身体観をさらに推し進め「衣服=潜在的身体」、衣服が身体になり、身体が衣服になると言う概念を提出するのである。

個人的な話だけど、イヴ・サンローラン美術展を見に行ったことがある。まあ僕の審美眼のなさもあるだろうが期待の割に正直あまりエモくなかった、もちろんデザインの美しさ、歴史的価値は頭では理解できるが気持ちの上でエモくないのである。なぜなのか自分なりに考えると生身の人間が着ていないからなのではないかと思い至った、衣服=着てなんぼと言う感覚が僕にはある。上記で美術批評のフレームではファッションは語れないのではと述べたがこの「着てなんぼ性」にも秘密があるのではないかと思うのである。蘆田さんの言葉で言えば、身体と衣服の分離不可能性だ。

ひたすら立体裁断を学んだ長見少年の脳内はもちろんわからないのだが、きっとたくさんの人物を想像しながら作業に打ち込んでいたのではないかと思う、その過程でヴァーチャルな身体と衣服の分離不可能性にたどり着き、AIに繋がってきたのではないか。

部屋というコンセプト

HATRAの服作りのコンセプトは「部屋」である。とてもいいなと思う。「部屋」とは外界とは区分された私的空間でありつつも、自分自身から見れば外部の空間でもある。この内と外の境界線上にあるのが「部屋」だ。基本的にはリラックスできるし、無防備でいられる。一方で宅配の人が来るかもしれないしある程度外部を意識しているところもある。zoomで会議をやっていると多くの人がヴァーチャル背景をセットしている。ちゃんと数えたわけではないが架空の部屋のイメージ画像をセットする人が大半なのではないかと思う。人は部屋なしにはいられない、zoom会議なのだから別に宇宙空間でもジャングルでも好きに選べばいいとは思うが人は部屋を選ぶのである。服を着て人は外に出る、しかし衣服と身体の分離不可能性のテーゼが正しいならば外にいても人は部屋にいるとも言えるのである。外にいても衣服=身体は自分の部屋なのだ。美術作品はもちろん部屋で鑑賞することもあるけども案外いろんな空間で鑑賞できる。美術館という広い空間、渋谷駅の岡本太郎の「明日の神話」など公共空間、公園とか街中の壁などなど美術作品は私的空間にとどまっていられずに部屋から出て行きたいようである。

最後に - 未来のファッション批評

最後に改めて美術とファッションの差異について整理しよう。これまで見てきたように、クチュール(仕立て)、着てなんぼ性、部屋という3つの要素は美術作品には無い要素、あるいは語りにくい要素なのではないか。それ故に美術批評の言葉でファッションは語ることが困難なのでは無いかと思う。鷲田清一先生の本は、ファッション批評の古典であり自分も若い頃から読んできた。ただ批評のフレームが美術に依拠している点についてずっとモヤモヤしてきた。引き合いに出されるのは川久保玲やサンローランなどの”芸術家”であり、またカントの美学やフッサールの現象学、クレメント・グリーンバーグの美術論などである。これらのフレームは美術を語るのには最適であろう。しかしファッションのクチュール(仕立て)、着てなんぼ性、部屋という3要素は美術やそれに隣接する哲学の言葉では捉えきれない物である。
やはり新しくファッション批評のフレームを開発するしかないのではないか。浅学の僕にできるとは思わないが、ざっくりとしたアイディアはある。それは美学や哲学的批評の側面も持ちつつも、社会学者岸政彦さんが展開しているような生活史の質的社会調査の方法論や、企業経営論、社会階層の経済学、小説のような断章、身体についての映像、AIやデータサイエンス、ディープラーニングに関する論考、、、、などからなる複合体のイメージである。なんだそれは、、そんなものがファッション批評と言えるのかと思われるかもしれないがファションという対象自体が複雑な物である以上それを語る言葉も複雑になるのは仕方がない。
以上HATRAの服を見ながら、さらに『言葉と衣服』と言う本にインスパイアされ自分なりにファッション批評とは何かを考えてみた。いやなんか違うな、、、考えたと言うよりは、HATRAこそがクチュール(仕立て)、着てなんぼ性、部屋と言う3要素を僕達に具体的に見せてくれるのであり、一つのブランドであることを超えてファッション批評とは何かという根源的なテーマを考える契機を与えてくれたのだ。

<終わり>








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?