映画:撮影所システムの功罪

第35回東京国際映画祭で深田晃司監督が黒澤明賞を受賞しました。その時のインタビューで興味深いコメントがあったのでそのことをつらつらと書きます。
深田監督曰く、

日本映画の黄金時代は、撮影所システムによる雇用の安定があったけど、今は荒れた不安定な雇用環境で働くことを余儀なくされている

という趣旨のことをおっしゃっていて、自分が考えてきたことと同じ考えをプロの監督の視点から説明してくれていたので一度頭の整理をしてみたいと思います。

まずこの「撮影所システム」、、、スタジオシステムとも言います。映画好きであれば聞いたことがあると思いますがwikiの説明がわかりやすいので引用します

日本において撮影所システムが確立するのは1930年代(昭和初年)である。
撮影所システムの特徴は監督以下のスタッフがすべてその映画会社と専属契約していて、なおかつ監督ごとにスタッフが固定している点である。また、俳優もスターから端役に至るまで専属であった。撮影所では同時に並行して何本も映画が撮られており、俳優が1日の間に別の映画の撮影に参加することも珍しくなかった。1970年代初頭、映画産業の斜陽によって各社は軒並み自社の撮影所を貸スタジオにして独立プロやテレビドラマ、CFの撮影もできるようにし、専属スタッフや俳優も解雇して撮影所システムは崩壊した。

例えば僕の好きな黒澤明や、小津安二郎など邦画の黄金時代を支えた巨匠たちはこの撮影所システムとともにありました。黒澤明といえば東宝であり三船敏郎も、志村喬も東宝専属俳優です。小津安二郎は松竹であり笠智衆も松竹専属俳優です。
原則的に専属の監督が専属の撮影所で撮るのですが、もちろん例外もあり黒澤が大映でとった『羅生門』とか、小津が同じく大映で撮った『浮草』など、これはこれで名作です。俳優の方も他の撮影所の作品に出演することもあり、その時はキャストのところに京マチ子(大映)とかテロップがでるのが慣習でした。

日本映画の黄金期を支えたのが撮影所システムといっても過言ではないでしょう。東宝、松竹、東映、新東宝、大映、日活、各撮影所には独自の雰囲気があっていい意味で競争原理が働いていたと思います。深田監督のいうように雇用の安定にもつながっていました。
一方でマイナス面もありました。それが

五社協定

です。wikiの説明を引用します

松竹、東宝、大映、新東宝、東映が1953年に調印した専属監督・俳優らに関する協定。後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定となっていた。1971年をもって五社協定は自然消滅した。主な内容は
(1)各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する
(2)監督、俳優の貸し出しの特例も、この際廃止する

この協定にしばられて、俳優は例外はあるものの他の撮影所の作品には原則出演禁止でした。また当時映画業界の大敵であったテレビへの出演も禁じていました。ある俳優がテレビにでると干されてしまったこともありました。

五社協定には独占禁止法など法的にも問題があるし俳優たちは大いに不満があったようです。
この仕組みに反旗を翻したのが三船敏郎と石原裕次郎です。
『黒部の太陽』での三船敏郎(東宝)と石原裕次郎(日活)の大スターの競演、これは業界の掟を破る闘争でした。会社と相当もめて資金難にも陥りながらも結果的に三船プロ、石原プロの制作で作品は世に出ましたが、あの大スターですら俳優生命を賭けた闘争を余儀なくされたのです。

このように撮影所システム及び五社協定は、かつての悪しきシステムとしてネガなイメージがどうしてもついて回ります。

しかしながら、個人的には撮影所システムの良い面は残せなかったのだろうか、、、と思うことがあります。黒澤明映画と言えばやはり東宝のあの雰囲気なしには語れないと思うのです。監督から撮影や俳優陣までチームとしての一体感や、カルチャーの醸成、円滑なコミュニケーションなどなど、、、この撮影所システムなしには黒澤明も小津安二郎もあそこまで多くの傑作を残すことはできなかったのではないでしょうか。
また、他の撮影所に招聘されて撮る時の独特のアウェーの緊張感。それが作品に見事に表れています。例えば大映で撮った小津の『浮草』は王道である松竹の小津作品に比べ、俳優のエモーションも、絵の熱量も異なるものであり独特の味のある傑作です。何か予定調和を破るエネルギーに満ち溢れています。これも撮影所システムならではの面でしょう。

このシステムの良い面は残しつつ、悪しき面だけを改善したモデルはつくれなかったのかと今さらながら思います。
例えば、俳優の他社への出演問題についてはゼロ/100の議論ではなく、3年は他社作品に出演しないとか契約で規定できなかったのだろうか。ビジネスの場面では、期間を区切って競合避止義務を契約に盛り込むことはごく当たり前でありそのへんは契約の作り方で工夫できたと思うんですね。

かつていい意味での競争原理が機能していました。小津が松竹の巨匠であり、成瀬巳喜男は松竹から「うちには二人小津はいらない」と言われなにくそ~と思い東宝で傑作群を撮っています。東映のやくざ映画に対抗したり、東宝のゴジラに対抗したりという具合に各社はライバルの打ち立てたジャンルに対抗すべくいろんなアイディアを出しました。

1970年代に映画産業が斜陽化したため、撮影所システムも崩壊しましたが映画産業斜陽化の原因はテレビの普及だったり他の要因に求められると思うので、撮影所システムそのものが全部だめだったとも言いにくい。
まあハリウッドの方もスタジオシステムが崩壊しているので世界的な流れだったのかもしれませんが。

さて、現在では違う形でスタジオシステム風なものが復活しているように感じます。例えばマーベル、DCとかA24とかスタジオジブリとか、それぞれレーベルの個性があり観客もなんとなく作品のイメージがわきますよね。A24の映画なので見に行こうかな、、とか
ネームバリューだけで観客を呼べる監督や俳優は別として、そこまでいかない映画人は有る程度のゆるやかな契約に基づきレーベルに所属して安定的な雇用環境とかコンプライアンス環境の中で仕事をするというのがいいような気がします。

まあ素人の感想ですが、今回の深田監督のコメントで、そうだよな~撮影所システムのいい面もあったよなあと思い記事にしてみました

ではでは


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