【SSW15:STORY】音に、心に、真摯な職人・ 中山大之
シンガーソングライターとして、ギターやピアノでの弾き語りを中心に活動してきた、中山大之(なかやまだいし)。漫画家を夢見た幼少期、陸上に熱中した学生時代を経て、音楽の道へと進んだ彼の半生と、これから目指すところを聞いた。
何をやっても、長く続けられなかった
三重県津市出身の中山は、クラシックピアニストの母親のもとに生まれた。
「母は、コンクールで日本一になったり、世界3大難曲を弾きこなしたり、結構すごい人なんですよ」。
毎朝、母の奏でるグランドピアノの音で目覚める生活だった。
中山自身も、ピアノに親しんでいた。「子どものころは絶対音感があって、ぱっと聞いた曲を、なんとなく弾くことができました」。
しかし、本格的に練習することはなかった。
「僕が6歳になるころ、母は色々と楽譜を用意して、がっつり教えてくれたんです。それがどうにも嫌で、『もうピアノは弾きたくない』となってしまいました」。
代わりにサッカーと水泳を習ったが、いずれも楽しめず、小学校低学年のうちに辞めてしまった。次に始めた習い事は、絵だった。
「家の近所に、世界的に有名な画家さんが運営されている教室があったので、通うことになりました。あるとき船の絵を描いて、パキスタンとの交流展覧会に出展したところ、入選できました」。
絵を描くことが好きになった中山は、「将来は漫画家になろう」と考えた。
「そのあとは別の先生にも絵を教わって、小学校6年生のときには『キャラクター原案の仕事をしないか?』と、お話をいただいたこともあります」。
だが、絵の道を進むには至らなかった。
「絵を描くのは楽しかったけれど、どうしても陰気というか、ちやほやされる感じはなかったんですよね。当時の僕は友達も少なくて、スクールカーストでは下の方にいました。だから目立ちたい、もてはやされたい、って気持ちが強かったんです」。
中山には、もうひとつ、「足が速い」という特長があった。
「『中学に上がったら陸上部に入ろう!』と思いました。陸上なら一人でできるし、モテそうだから」。
しかし、進学先の中学校の陸上部は、廃部になってしまった。
「どうしようかと悩んでいたら、母の知人が『県内に全国大会常連の中学校がある』と教えてくださって、そこの練習に参加させてもらえることになりました。『強豪校へ練習に行く僕って、めちゃくちゃかっこいい!』と思ったんですよね」。
強豪と称されるだけあって、I中学校の練習は、厳しかった。先輩からの風当たりの強さもあり、中山は「辞めたい」と言い始めてしまう。
そんな彼に対し、母は「わかった。でも大之は、何も最後まで続かへんから、何か一個だけできるようになったら辞めてもいいよ」と答えた。
中山は、苦手としていた鉄棒での懸垂逆上がりの練習に精を出した。
「しばらくして、僕に辛く当たっていた先輩の前で、懸垂逆上がりを披露しました。そうしたら、意外にも褒めてもらえたんです。その日の夜、母に『I中へ転校させてください』とお願いしました」。
物心ついてからずっと、何も続けることができなかった中山が、ついに『辞めたい』という感情に打ち克った瞬間だった。
「音楽も、水泳も、サッカーも絵も、自分から『やりたい』と言って始めたのに、すぐに辞めたり、無気力になったりしていました。陸上では、初めて『続けてよかった』が上回って、『もっとがんばろう』と思えたんです」。
音楽への『新たな恋』
I中学校へ転入した中山は、一心不乱に陸上部の活動へ取り組んだ。
朝は4時半に登校し、朝練へ参加。それから授業を受け、昼練をした。放課後も夜遅くまで練習をして、家に帰ると20時をまわっていることもあった。
「休みの日も、ずっと練習していましたね。3年生ごろになって遊びを覚えても、朝4時に学校に集合して、ウエイトやランニングをして、そのあと自転車でカラオケに行って、みたいな感じでした」。
目標は、全日本中学校陸上競技選手権大会へ出場することだった。
「今もそうですけど、あんまり先のことを考えるのは得意じゃないんですよね。ただ『全中に出たい』という気持ちだけでやっていました」。
練習の日々は実を結んだ。3年生で400mの三重県チャンピオンとなり、全日本中学校陸上競技選手権大会への出場も果たした。しかし途中からは怪我に悩まされ、不完全燃焼のまま、中学生活は終わりを告げた。
陸上の成績で推薦入学した高等専門学校は、彼曰く暗黒時代である。
「どうやって練習をサボるかばかり考えるようになって、競技では全く記録を出せませんでした」。
その理由を、中山は「顧問の指導方法の違いだった」と分析する。
「結局、僕が中学で活躍できたのは、顧問の先生が導いてくれたからでした。高校の顧問の先生は、一人で戦っていく厳しさを教えてくれましたが、当時の僕にはそれが分からなかったんです」。
対照的な二人の教師に影響を受けた中山は、「将来は学校の先生になろう」と考え、またも陸上の推薦を受けて県内の私立大学に進学。教員免許取得に向けて勉強をしながら、陸上部での練習に励んだ。
しかし夏ごろになって、怪我が再発してしまう。
「1年を棒に振るって、バイトと治療に明け暮れるのか、と悩みました。さらに、社会人になっても陸上を続けたい、という気持ちがないことに気づいてしまいました」。
思いつめていたとき、友人が奏でるギターの音色に、心惹かれた。
「僕はカラオケが好きだったので、彼の演奏に合わせて歌いました。場所は大学の芝生広場です。すると、結構な数の学生たちが、拍手をしてくれたんです」。
その瞬間、中山は初心にかえった。
「元々、陸上を始めたのは、ちやほやされたかったからなんですよね」。
友人のギターに合わせて歌うことが楽しくてたまらなくなり、自宅や部室、路上や地域のイベントなど、あちこちで歌った。
「それまで陸上漬けの生活だったので、『世の中にはこんなにも楽しいことがあるんだ』と知りました」。
ほどなくして、自らギターを演奏しようと思い立つ。大学1年生の秋のことだった。
「みんなから笑われるくらい、本当に下手くそだったけれど、毎日8時間以上、ときには12時間くらいギターを弾いていました」。
最初に取り組んだ楽曲は、山崎まさよしの『One more time,One more chance』だった。
「『秒速5センチメートル』という映画が好きだったし、これを弾ければモテるだろうと思ったんです。でも、大変でした。セブンスやオーギュメントのような難しいコードが出てくるし、最初は指弾きだけど、途中からストロークになったり、いわゆる『ギター』という要素が全部入っている曲なんですよね」。
本を買い、YouTubeで動画を見るなどして、もくもくと練習を積んだ。苦労しただけあって、中山の技術はみるみるうちに向上した。
「Fというコードを一つ鳴らすのに、半年ほどかかりました。普通の人は1ヶ月くらいで弾けるようになるので、約6倍ですね。その代わり、1年後には、どんな曲でも弾けるようになっていました」。
いつの間にか、音楽にのめりこんでいる自分がいた。
「これまでの『表彰された絵』や『生まれつきの足の速さ』など、自分にとって得意な分野ではなく、寧ろみんなからバカにされるほどセンスのないものに熱中したんです」。
完全に陸上から心が離れた中山は、部活を辞めた。
同じころ、ギターマンドリン部に所属していた友人からの誘いで、さいくう平安の杜広場でのライブイベントに出演。
「ちゃんとしたステージで、対バンアーティストがいるイベントに出るのは初めてでした。4組出演するうちの一番手として、僕が好きなスキマスイッチの曲と、友達が好きなコブクロの曲、あとはRakeの『100万回の「I love you」』と、サスケの『青いベンチ』を演奏しました」。
楽しい一日のなか、共演者たちのステージに感動を覚えた。
「みんなオリジナル曲をやっていて、カッコよかったんです。そして、生意気ながら、『これなら僕もできそうだ』と感じました」。
シンガーソングライターを志した中山は、さらに練習を重ねた。2年生の夏には、ギターマンドリン部へ加入。冬になるころ、初めてオリジナル曲を作った。
「すごく好きだった彼女に振られてしまったんです。友達とその話をしていたら悲しくなってきて、『これは曲にできそうだな』と、勢いで作り始めました」。曲が出来上がるまで、さして時間はかからなかった。
「今思えば既製曲の真似事でしたが、いつの間にか、コード感覚は備わっていたんでしょうね。さらっと1曲できて、続けて2曲、完成しました」。
3年生になると、ますます積極的に、活動の場を広げていった。
「友人がギターマンドリン部の部長になって、僕も部を引っ張っていく立場として、イベントを企画するようになりました」。
学外でも演奏がしたいと、前年に出演した、さいくう平安の杜広場でのイベントの主催者に連絡をとった。「『今年は部活として一枠と、僕のソロで一枠とで、出させてもらえませんか』とお願いしました」。
イベント当日、中山がソロとして演奏したのは、自身のオリジナル曲ばかりだった。「後輩たちはもちろん、イベントの主催者さんも『1年で人が変わったね』と、褒めてくださいました」。
大きな手応えを得た中山は、ライブハウスにも出演したいと考えた。
「松阪M'AXAに出たくて、大学の知り合いの伝手を頼りました。マクサは、地元で一番大きな、プロの人も出るようなライブハウスです」。
また、さいくう平安の杜広場でのイベントから縁が繋がり、四日市市にあるライブバー・ドレミファといろはへの出演が決まった。
「初めていろはへ出させてもらったのは、3年生の11月でした。全国から音楽で食っている人が集まるライブバーで、まだまだ初心者の僕は、『超へたくそだね』と言われてしまいました。でも、全然へこたれなくて、むしろ『もっと上達できる』って思ったんです」。
ライブ後は猛練習し、一ヶ月後の12月26日に再出演。
「お店の人は『どんな練習したん?』と驚いて、良いライブだと言ってくださいました。ただ当然ですが、僕の中では、理想とする所には到達できていませんでした。それからは月1、2回、頻繁に出演させてもらうようになりました」。
念願の松坂M'AXAにも、毎月のように出演した。
「マクサで対バンした人が、『自分は名古屋でライブバーやってるから、よかったら出てよ』と声をかけてくださって以降、名古屋にも歌いに行くようになりました」。
シンガーソングライターとして本格始動
中山が音楽活動に本腰を入れた3年生の秋は、進路選択の時期でもあった。
「僕はずっと教師になるつもりで、音楽をしながら真剣に勉強していました。でも教育実習に行ってみて、教師という職業は、僕が思い描いていたようなものじゃないと気がつきました」。
母親に相談すると「もしいつか教師になりたくなったら、勉強し直せばいいんじゃない」という答えが返ってきた。
「今やりたいこと、音楽をとことんやろうと決意しました」。
4年生になった中山は、一年間に56本ものライブを行った。活動範囲は、東海圏にとどまらなかった。
「たまたまSNSで、青山にあるライブハウス・月見ル君想フさんを知ったんです。無謀にもメールで直訴して、出演させてもらうことができました」。
17年5月17日、初めての東京でのライブは、衝撃だった。
「三重県を悪く言うつもりは決して全くないのですが、『これが東京のレベルか、、、、全然違うな、、』と思ってしまいました」。
その後、新横浜にあるライブハウスへ定期的に出演するようになり、上京志向はますます強まった。
名古屋でも、のちに繋がる出会いがあった。
「東海圏の学生が集まる『音楽収穫祭』というサーキットイベントに出演したことがきっかけで、名古屋で音楽教室を経営している方と知り合ったんです。僕が『大学を卒業したら上京します』と言ったら、『来年の夏に東京へ支店を出すので、東京第一号の講師として働きませんか?』と声をかけてくださいました」。
渡りに船の提案だった。
「実は4年生になってから、ボイストレーニングに通いはじめていました。なんとなく『教わる感覚』は分かっていたし、元々教師を志していたので、やれるんじゃないかと考えました」。
こうして、2018年4月に上京を果たした中山。
「音楽教室の開業は夏だったし、最初は生徒さんも多くありません。しばらくは普通のバイトをしながら、音楽活動をやっていました」。
もっとも、順風満帆とはいかなかった。
「学生時代にはコンビニやスーパー、スポーツ用品店、居酒屋、引っ越し屋、家庭教師、カフェなど、様々な業種のアルバイトをやっていましたが、どれも長続きしませんでした。東京でバイトを探すのにも苦労しました」。
仕事探しにあたって参考にしたのが、お世話になっていたライブハウスの店主の言葉だ。
「『月に15万あれば、最低限なんとかなる。ミュージシャンをやるなら、働くのは月の半分にすべきだ』と、アドバイスをいただいていました」。
最初に選んだのは、清掃業だった。
「朝6時半から12時まで働いて、日給7500円。あとの時間は、ライブに出たり、人のライブを見に行ったり、音楽活動に充てました」。
だが人間関係のもつれから、トラブルに巻き込まれてしまう。
「このままじゃダメだと、知り合いに紹介してもらったテレアポの仕事に転職したんですけど、詐欺のような仕事内容でした。ここで、完全に病んでしまいました」。
音楽活動も、思うようにいかなかった。
「色んなライブハウスの門を叩いて、週2回ほど歌っていましたが、鳴かず飛ばずでした。プライドばっかり高くて、自分の軸がなかったんです」。
『やりたくないこと』だけは、明確に分かっていたと語る。
「SNSのフォロワーを増やしたいけど、興味のない人をフォローバックするとか、いいねをするとかは嫌。ライブでお客さんを増やしたいけど、ターゲットを絞って……たとえば、僕を気に入ってくれそうな30代の女性にウケそうな曲を作ったり、MCをしたり、っていうのは嫌でした」。
活動方針の定まらない日々が続いた。
「やりたくないことはあるけど、やりたいことがない。自分でも、ふわふわしたまま活動していました。ライブの頻度だけは高くて、曲もめっちゃ作ってたけど、嘘っぽい歌ばかり歌っていました」。
どん底からの再出発。CDリリースとワンマンを経て、第二章へ
プライベートでも音楽活動でも、どん底に陥ってしまった中山は、現状を打開するべく、まずは新たな仕事を探した。
「自分に向いている仕事を考えたとき、やっぱり運動系かなって。精神的に辛いことがあったときも、ジムへ行くと元気になれるから、『現場仕事で身体を動かしていればいいんじゃないかな』、と」。
19年春から、心機一転、建設業界で働き始めた。
転職は、音楽活動にも影響をもたらした。
「仕事で辛いことがあって、心が折れたとき、『今こそ歌わなきゃ』と思ったんです。疲れていて、声も出ませんでしたが、『どっか歌えるとこないかな』とTwitterで呟きました。すると、以前対バンしたアーティストさんが、東中野オルトスピーカーのオープンマイクを紹介してくださいました」。
その場で知り合ったクラシックピアニストの女性との対話が、自分と向き合うきっかけになった、と語る。
「『目の前の嫌なことから逃げるのを辞めよう』って決めたと同時に、音楽では、『自分がやりたいことをやりたいんだ』と気づきました。何でもいいから売れたい、人気者になりたいわけじゃない。綺麗ごとじゃない本心で、自分の音楽を伝えたいと思いました」。
それからは、歌いたいと感じるたびにオルトスピーカーへ足を運んだ。
「オルトスピーカーさんは、ほぼ毎日オープンマイクをやってるので、ありがたかったです。良いタイミングでご縁をいただきました」。まもなく、自らオープンマイクを主催する立場となり、ますます視野が広がった。
「それまでシンガーソングライターの知り合いしかいませんでしたが、オルトスピーカーさんには、幅広いジャンルのプレイヤーがいらっしゃいます。様々な音楽に触れるなかで、『僕はこういう音楽がしたい』という欲が、どんどん出てきました。それこそ『ピアノでもライブをしたい』とか」。
幼少期に諦めていたピアノ。学生時代、教員を目指す過程で少しだけ練習したものの、人前で披露できるレベルにはなかった。
「電子ピアノを買って、ちょこちょこと練習を始めました」。
仕事も落ち着き、音楽へのモチベーションが高まった19年秋。「今しかない。音源を作ろう」と思い立ち、ギタリストの安藤力氏に相談した。
「安藤さんとは、初めて東京でライブをした日に知り合ってから、色々とお世話になってきました。音源制作でも、こだわりが強すぎる僕に寄り添ってくださって、本当に感謝しかありません」。
翌年からはコロナ禍に見舞われたが、中山にとっては音楽に投資ができた一年となった。「緊急事態宣言で、どこにも行けないから、ひたすら家でピアノを弾いていました。おかげでかなり上達して、ライブで弾き語りを披露できるまでになりました」。
音楽講師としても、着実に成長していった。「しばらくの間、僕が体験授業を担当した方の入会率が、100%だったんですよ。おかげさまで、かなり生徒さんが増えて、建設業のアルバイトをする時間は減りました。名実ともに『音楽講師』と名乗れるようになっています」。
難航していた音源制作も、2年半の時間をかけて、ようやく完成に漕ぎつけた。21年10月10日、東中野オルトスピーカーにて開催した初のワンマンライブにて、1st Album『Dummer manN』をリリースした。
「2021年は、なんとしても10月にワンマンやるぞ、CDをリリースするぞ、という意気込みでやってきました。お世話になってきたオルトスピーカーさんで、実現できてよかったです」。
これまでの活動を振り返り、中山は「人に恵まれてきました」と語る。
「いつも、何か自分が声を上げたとき、必ず誰かが助けてくれました。ありがたいことです」。
今後の展望を尋ねると「実は、ワンマンが終わってから、家で楽器を弾いていません」と笑った。「その代わり、写真に興味がわいています」。
幼いころは、絵を描くことが好きだった。現在もデザインやアートワークへの関心が高く、『Dummer manN』のジャケットも自ら手掛けている。
「絵、写真、音楽。自分が好きなものを組み合わせて、新しい何かを作りたいです。たとえばYouTubeのように、みんながWin-winになれるサービスや、アイディアになるんじゃないかな。自分のなかで、絶対成功する確信があります。めちゃくちゃワクワクしていますよ」。
『シンガーソングライター』や『音楽講師』という肩書に満足していない。
「講師としては独立も視野に入れつつ、自分がどうあるべきか、方針転換する時期だなと思っています。5年後、10年後は、まったく違う自分になっているはずです」。
さらに彼は、「チームを組みたい」とも語った。
「陸上も音楽も、あえて一人でやることを選んできた節があります。本当はバンドをやりたいと妄想しつつ、他のメンバーの演奏に納得できないだろうから、一人でやったり。でも『孤高の中山』は、10月10日に終わりました。今ならきっと、誰かと歩み寄って、互いに有益な関係を築けるはずです」。
自分の心と正直に向き合いつつ、嫌なことから逃げない姿勢を掴んだ中山ならば、きっと新しい地平を開くことができるだろう。
どんな未来を見せてくれるのか、楽しみだ。
text:momiji
Information
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