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【SSW13:STORY】弾け!轢け!引け!・ かずお爆弾

シンガーソングライター、歌手、ピアニスト、ギタリストなど、様々な肩書で活躍するアーティスト・かずお爆弾。幼少期にクラシックピアノを学んだ彼が、ロックバンドのギタリストとなり、パンクの世界に身を投じたのち、ピアノを弾き歌うスタイルに至るまでの一部始終を追った。

クラシックピアノを捨てて、ハードロックに傾倒した

千葉県姉ヶ崎出身のかずお爆弾は、幼いころ、クラシックピアノを習っていた。「私の父親は、子どものころスポーツ一辺倒で、楽器を習いたかったのに、習わせてもらえなかったらしいです。だから私には、音楽をさせたいと思ってくれたみたいです」。

幼稚園から中学3年生まで近所のピアノ教室へ通い、中学校では吹奏楽部にも所属した。「でも、中学に入ったくらいから『男ならギターだろ』って思いはじめたんですよね」。

きっかけはビートルズに感動したこと。さらにジミ・ヘンドリックスを知り、ギターを燃やすパフォーマンスを見て、衝撃を受けた。

「それまで『楽器を大事にして、姿勢よく弾かないと良い音は出ません』と教わっていたのに、ギターをぶっ壊してるやつが、一番美しい音を出していたんです。『俺は騙されていた』と感じました。『これまで教わってきたことは全部間違っていた』と」。

クラシック音楽とピアノに見切りをつけた彼は、ロックの道を志すようになった。中学1年生のときにアコースティックギターを買い、翌年にはエレキギターをも手にした。

「ひたすらジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンのコピーをしていました。とにかく洋楽が好きで、邦楽はほとんど聴きませんでした」。

転機が訪れたのは、3年生のときだった。

「どうしてもバンドがやりたくなったんです」。

バンド活動に興味をもっている同級生は、ちらほらいた。しかし、みな、流行りのJ-popを好んでいた。

「当時の私は、邦楽をバカにしていました。でも、それじゃバンドができない。仕方ないから勉強しようと思って、ORANGE RANGEのCDを借りたら、めっちゃよくて。『バカにしててすまんかった』と反省しました」。

再びカルチャーショックを受けたかずお爆弾は、様々な邦楽を聴き始め、友人とORANGE RANGEのコピーバンドを結成するに至った。

中学時代の一番の思い出は、卒業間際、校内の武道館でライブをしたことだ。「どうしても、中学校で、みんなの前で演奏したかったんです。先生とかなりもめましたが、『ここで爪痕を残さないと一生後悔する』と思いました。中学生でやりたかったことは、中学の間に終わらせなければ、と」。

ライブではORANGE RANGEの『ロコローション』など3曲を演奏した。

「初めて人前で、学校でエレキが弾けたっていうのは、本当によかったです。楽しかったし、何より、一つの夢が叶った瞬間でした。無茶をしてよかったと思っています。でも、今、当時の先生に会えるなら、ちょっと謝りたいですね」。

バンド漬けの青春

達成感とともに高校へ進学したかずお爆弾だったが、まもなく、大きな壁にぶつかった。同級生に、バンドをやりたがっている人間がいなかったのだ。

「他の高校に行った友達から『積極的にバンド活動をしているやつがいるよ』って話を聞くたびに、羨ましかったです」。

悔し紛れにインターネットを検索し、友人の同級生のバンドなどの情報を調べた。その過程で、『ライブハウス』の存在を知る。

「ずっと『ライブっていうのは特別なもので、路上とかで演奏してスカウトされた人しかできないんだ』と思っていたんですよね。『普通の高校生でもライブできる場所があるらしい』と知って、興奮しました」。

いてもたってもいられず、近所のライブハウスへ足を運んだ。

「どこの誰かも知らない高校生バンドのライブを見ながら、『ライブハウス』って空間を噛みしめました。特に気になったのが、ギタリストですね。『絶対、こいつより俺の方が上手い。絶対、俺がステージに立つべきだ』と考えました」。

自分もライブがしたい、と強く思ったかずお爆弾は、学校内を駆けずりまわった。少しでも音楽に興味をもっていそうな同級生をかきあつめ、無理やりバンドを結成した。

「最初は、バンドの体を成していませんでした。編成もめちゃめちゃ、ギターが3人いたりしましたね。色々あって、私とドラマーとベーシストの3人だけ残ったのが、高1の秋くらいでした」。

バンド名には、意味をこめなかった。

「『意味のない名前がカッコいい』と思ったんです。外国のバンドみたいに、たとえばQUEENとかAC/DCとか、そういう名前にしたくて、『SOMETHING』と名づけました」。

バンドにおけるかずお爆弾のポジションは、ギターボーカルだった。

中学生時代はギター一筋だったが、高校1年生の文化祭でギター弾き語りをしたことをきっかけに、歌を歌うようになっていた。

「まだバンドができていなかった時期に、『人前でギターを弾きたい』っていう欲が抑えきれなくて、廊下で尾崎豊を歌ったんです」。

文化祭運営側の許可はとらず、ゲリラ的に行った演奏だった。しかし、思いもよらぬほど人が集まり、褒められたことが自信になった。

「正直、歌は下手だったと思います。でも高校生の中では上手いって言ってもらえて、嬉しかったです。ギターボーカルでがんばってみよう、と思いました」。

こうして高校1年生の晩秋から『SOMETHING』は動き始めたが、その歩みは波乱に満ちていた。なんといっても、みな初心者だった。

「とにかくライブハウスに出たかったんで、演奏できる曲を作らなきゃって必死でした。楽器屋に行って、誰でも弾けるような簡単な楽譜を買ってきて、メンバーに配りました」。

最初に取り組んだのは、ビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』。さらに矢沢永吉の『黒く塗りつぶせ』、チャック・ベリーの『ジョニー・B.グッド』、ブラック・サバス の『パラノイド』、グリーン・デイの『アメリカン・イディオット』 なども練習した。

「木村カエラも一曲あったかな。コードを3つくらいしか使わない曲ばかり集めて、練習といえるのか分からない練習をしていました。あのころは音作りもわかっていなくて、ギターはひたすら歪ませればいい、ドラムは力いっぱい叩けばいい、と思っていたし」。

努力の甲斐あって、高校2年生の5月、西千葉にあるライブハウス・ZX WEST CHIBAに初出演を果たした。

「二つ目の夢が叶いました。まあ、演奏はひどかったと思いますが。今、当時の音源を聞くと、ギターはウルトラドンシャリで、中音域が聞こえない、やりすぎたメタルみたいな音をしています。歌は叫んでるだけだし、ベースもドラムもリズムが狂っています。でも高校生時代は、楽しければそれでよかったんですよね」。

その後は、2ヵ月に1回のペースでライブハウスへ出演を重ね、オリジナル曲も演奏するようになった。作詞作曲を担当したのは、かずお爆弾だ。

「最初は、ブラック・サバスのパクリみたいなハードロックをやっていました。ギターソロが異常に長い曲ばかり作っていましたね」。

彼の周囲には、アドリブで長いギターソロを弾ける人間がいなかった。「私はソロが得意だったので『これこそ最大の武器だ』と考えていました」。

楽曲にこだわる一方、歌詞はでたらめなものが多かった。

「音に合わせて適当な英単語を並べたものや、いかにも高校生っぽい、ウケ狙いの歌詞やタイトルの曲ばかりでした。まさに『音だけの音楽』をしていました」。

少しずつレパートリーを増やし、高校を卒業するときには、オリジナル曲だけでライブができるようになったという。

学校の新入生歓迎会や、文化祭のステージでも大暴れした。

「メンバー間でいざこざが起こったり、機材を壊して学校に迷惑をかけたりしたけれど、とにかく全力でバンドをやった高校生活でした」。

ただ目立とうとして、迷走した日々

高校卒業にともない、メンバーの進路が分かれたため、SOMETHINGは解散。かずお爆弾は、地元の大学へ進学した。

「一応、それなりに勉強はしてたんです。でも、将来は音楽をやっていくことが夢でした。中1でビートルズを聞いたころから、ぼんやりと、心のなかにありました」。

大学に入ってすぐ、『ニトロ爆弾』というバンドを結成。彼の芸名である『かずお爆弾』にもつながる名前だ。

「それまで、本名の『かずき』をもじって『かずお』とだけ名乗っていました。バカっぽくて、ちょっと古めかしい芸名にしたかったんです」。

しかし、大学生になった彼には、厳しい現実が待っていた。

「何故か、この世界には『高校生』というブランドがあるんですよね。高校生でバンドをやっているやつは少ないから、ライブをやること自体がすごくて、非日常。友達も気軽に来てくれるし、何をやっても人が集まります。でも大学生になったら、見向きもされなくなって、『どうしたらいいんだろう?』と悩みました」。

結果として、ニトロ爆弾は、迷走に迷走を重ねたバンドとなった。

「もともとは、サイケデリックバンドをやりたかったんです。でも、J-popっぽい曲から始まり、ハードロックぽいのも混ざり。もっとぐっちゃぐちゃの曲にしたくて、ただ暴れるだけ、ギターを振り回すだけの曲も作りました」。

当時の彼は「奇天烈なことをやって目立てばいい」とだけ考えていた。「最近の、バカなことをやるYouTuberと一緒でしたね」。

だが、やればやるほど、周囲の人は離れていった。バンドのメンバーも頻繁に入れ替わった。

「『あいつは変わってしまった』とか言われて、むきになって、さらに無茶をしました。もっと変な音楽はないのか、とノイズミュージックやアバンギャルドなやつを聞くようになって、ザ・スターリンに影響されて、ハードコアパンクにシフトしはじめました」。

約3年続いたバンドだが、成果を得られないまま解散することとなった。

「一番長く在籍してくれたドラマーが『脱退したい』と言い出したことがきっかけです。私自身、すべて清算したくなったという理由もあります」。

あまりに多様な曲を作りすぎて、わけがわからなくなったと言う。

「『滅茶苦茶なことをやれば、思いがけないものができるかもしれない』と、実験的に取り組んでいたことがたくさんあります。しかし、今思えば、もっとお客さんとメンバーを大事にするべきでした。反省しています」。

2011年12月、解散ライブを敢行。フロアにドラムセットなどを置くスタイルで、大暴れした。「ちゃんと区切りつけられてよかったと思います」。

その後、DAIDARBODDI(ダイダラボッチ)というハードコアバンドを結成するも、満足な活動ができないまま解散。

方向性の定まらない日々が続いた。

いつの間にか、かずお爆弾は「もう俺が歌わなくても、曲を作るのをやめてもいいから、どこかのバンドに加入したい」と考えるようになった。

「自分でバンドを作ることに疲れたけれど、どうしてもハードコアがやりたかったんです。パンクの世界に身を投じるには、既存のバンドに入ったほうがいいと思いました」。

大学を卒業し、横浜へ引っ越したことで、都内へのアクセスが便利になったことも転機となった。ギター弾き語りシンガーソングライターとして音楽活動を続けつつ、ギタリストを募集しているバンドを探した。

ついに見つけたのが、BOOViES(ブービーズ)だった。

楽しくてしょうがなかったバンド活動との決別

「『俺を入れてください。めっちゃギター弾きます』って直訴して、いよいよBOOViESの一員になったころ、私は22歳でした」。

その時点で、バンドは結成から5年以上経っていた。他のメンバーはみな、かずお爆弾より年長で、界隈に顔が利いた。「ライブをやればやるほど知り合いが増えました。毎日が楽しかったですね」。

だが、加入から2年ほど経つと、違和感が芽生えていた。

「ハードコアのライブって、バンドマン同士が集まって、酒を飲んで潰れてるっていうのが多かったんですよね。『誰も俺らの演奏を聴いてないな』と思っちゃった。『騒げれば何でもいいんだろ』と」。

ハードコアの世界に憧れていたかずお爆弾だが、実際の現場を目の当たりにして「俺は何がやりたかったのだろうか」と考え始めた。「一般人は、ハードコアを聞きませんしね」。

そんなとき、とあるライブで、韮(にら)というバンドと共演する。

「韮は、ハードコアを標榜しているけれど、かなり色物でした。一般的なハードコアを笑いものにするような、たとえばステージから客席へ野菜のニラをばらまく、といったパフォーマンスをしていました」。

韮を見たとき、新鮮さと懐かしさが同時に押し寄せてきたと言う。

「『俺がニトロ爆弾でやりたかったのは、こういうことだったんじゃないかな』と思いました。支離滅裂だったニトロ爆弾と違って、韮は形になっていました。カオスに見せつつ、フォーマットが出来上がっていたんです」。

また、彼らのスタイルは、一般ウケを狙えると感じた。

「韮は、ハードコアを知らない一般人が見ても、面白いバンドだろうと感じました。奇抜なメイクも、ステージからニラを投げるのも全部、ボーカルのもじくんが、しっかり計算して作りあげたものでした」。

ちょうどそのころ、韮のギタリストが失踪。代わりのメンバーが決まらずに困っていたもじ氏に声を掛けられ、心が動いたかずお爆弾は、15年3月から韮のギタリストを兼任。まもなくBOOViESを脱退し、専属となった。

韮時代

韮時代のかずお爆弾

「韮は本当に楽しかったですね。自分のやりたいことがやれていました。高円寺や中野のライブハウスなどで、月1くらいのペースで演奏しました」。

かずお爆弾の加入により、バンドの音楽面の評価も大いに上がった。16年には、世界最大のバンドコンテスト・EMERGENZA JAPANに出場し、準決勝進出。「ライブをするたびに、手応えを感じていました」。CDもリリースするなど、順調だった。

だが16年半ばから、バンド活動に対する意欲が低下していく。

「きっかけは、ボーカルのもじくんが歌メロの作成に挑戦したことです。彼は、それまで、セリフを叫ぶだけの曲しか作ったことがありませんでした。楽譜も書けないし、コードやスケールがおかしかったので、私が修正したら、けんかになってしまって」。

それは、音楽理論を学んできた人と、そうでない人との違いだったのかもしれない。

ボーカルへの不信感を強めていったかずお爆弾は、「俺はもうバンドなんかやりたくない」とまで考え、軽い鬱状態になってしまった。

「バイクでライブ会場へ向かっていたら、みるみるうちに気分が落ち込んでいくんです。『ボーカルの神輿担ぎのために時間を削って、俺は、こんな風に人生をすり減らしていくのか?』と、自問自答しました」。

バンドへの愛着があったために葛藤したが、17年秋に脱退を決意。メンバー間のトラブルが絶えないなか、18年1月のライブをもって活動に終止符を打った。

「今でも韮には感謝しているし、加入して、活動できてよかったと思っています。でも、本当に大変でした。もう二度と、バンドはやりたくないですね」。

ピアノ弾き語りシンガーソングライターとして再出発

「全部一人でやった方が楽だ」という結論に達した彼は、ギター弾き語りシンガーソングライターとしてライブをするようになった。しかし、今一つしっくりこなかった。

「ギターの弾き語りだと、ソロが弾けないんですよね。私にとって最大の武器が使えなくなってしまったんです。エレキでの弾き語りも試しましたが、どうにもやりたいことと違って、楽しくありませんでした」。

十数年ぶりにピアノを弾き始めたのは、そんなときだった。

「韮を辞めたあと、作曲用のピアノを買ったんです。もっとも、人前で演奏するつもりはなくて、暇なときにポロポロと触っているだけでした」。

幼少期にクラシックピアノを習っていため、譜面があればたいていの曲は弾くことができた。しかし、コードの知識は一切なかった。

ピアノに本腰を入れる契機となったのは、音楽仲間の楽曲だ。

「私の友達に、久貝巧(くがいたくみ)くんという素晴らしいギター弾き語りシンガーソングライターがいます。彼の『最終列車』という曲が大好きで、カバーさせてほしいと頼みこみ、OKをもらいました」。

とはいえ、ギター弾き語りの曲を、そのままカバーしてもつまらない。

「どうしようか迷っていたら、部屋のホコリを被ったピアノが目に入って、『これだ』と閃きました」。

早速、ギターでコードを鳴らし、同じ音の鍵盤を探すことを繰り返した。

「そのうち、『ギターよりもしっくりくるな』と感じ始めました。何より、ピアノだとソロが弾けたんですよね」。

ギターには弦が6本しかない。クラシックギターの巧者ならまだしも、伴奏をしながらソロパートを弾くのは至難の業だ。しかしピアノならば、鍵盤の数は88鍵あり、10本の指をすべて使うことができる。

「左手で伴奏を弾きながら、右手で自由にメロディが弾けるっていうのが、とても嬉しくて。私の『ソロを弾きたい欲』が満たされるし、アレンジの幅も圧倒的に広がりました。『これならバンドをやらずに済むし、バンドにも負けない』と確信しました」。

かつて捨てたはずのピアノに、改めて価値を見出した瞬間だった。

「中1でジミヘンを知って『俺は騙されていた』と思ったけれど、『ピアノってすごかったんだな』と思い直しました」。

久貝氏の楽曲のカバーが完成し、人前で披露するころには、完全にピアノ弾き語りシンガーソングライターへ転向していた。

18年10月、とあるライブハウスのオープンマイクで、ピアノ弾き語りとしてデビュー。「その日はギターとピアノを交互に弾いたんですが、明らかにピアノのほうが反響がよかったんです」。

以降、ライブではピアノしか弾かなくなった。

「今のスタイルはやめないと思います。ライブでのかずお爆弾は、ピアノ弾き語りが最終形態です」。

20年1月には、下井草のBilly's Bar GOLD STARにてツーマンライブを開催。現在も月2~3本のペースでライブを行い、YouTubeにも積極的に動画を投稿している。

どんな人に自分の曲を聴いてほしいですか?と訊ねると、「地球人全部です」という答えが返ってきた。「でも、一番は、心が弱ってる人ですね」。

世の中には鬱々とした楽曲が多すぎる、と、彼は口をへの字に曲げる。

「『死にたい』だのなんだの、最近のストレス社会では、そういう歌詞が共感されるんだろうなってことはわかります。でも私は、もうちょっと、社会に対して怒ってもいいと思うんです。『俺がこんなに苦しいのは、社会が悪いんだ』と。逆切れでもいいから、悩まずに怒ることで、救われることもあるはずです」。

憂鬱を憂鬱のまま歌うのではなく、別の角度から心を立て直す方法を歌いたいと語る。

今後の目標は、もっと多くの人に自分を見て、聴いて、知ってもらうことだ。「ウィキペディアに載りたいし、ラジオに呼ばれて、テレビに出たい。フェスも出たいですね」。

紆余曲折ありながらも、幼少期からずっと音楽を続けているかずお爆弾。嫌になることはないのだろうか?

「ありますよ。韮を辞める間際なんて、特にそうでした。でも、不意に、とんでもないメロディが浮かんだりすると、『やっぱ俺は続けるべきだな』と思います」。

ファンの存在も大きい。

「ピアノ弾き語りを始めてから3年、ずっと応援してくれている人がいます。バンド時代の知り合いがライブに来てくれることもあります。とてもありがたいです」。

自分の音楽を中途半端に投げ出すことは、失礼だと感じている。

「学生時代からやってきたバンド、それぞれのメンバーや、来てくれたお客さんたち、みんな無かったことになる気がして。今は音信不通なひとも多いけど、全員への義理を果たすために、続けている部分はありますね」。

彼のキャッチコピーである「弾け!轢け!引け!」には、「自分の音楽で誰かにインパクトを与えたい」という思いが込められている。

既に充分すぎるほどインパクトの大きな生き様を見せてくれている彼が、これからどのように生き、どんな音楽を奏でていくのか、楽しみである。

text:Momiji photo:arachan RED ZONE

INFORMATION

2021.11.02(Tue) open 19:00 / Start 19:30
[会場] 高円寺ウーハ(杉並区高円寺南4-4-12 エムズビル101)
[料金] ¥2500(+1drink ¥500)
[出演] かずお爆弾(1番目 19:30-20:00) / 斉藤めい / 松浦湊

2021.11.06(Sat) 第11回 すみだジャズストリートフェスティバル
[会場] アルカイースト JR北口前
[詳細] Coming soon... ※2021年は開催中止が発表されました

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