見出し画像

【SSW06:STORY】心の憂鬱に光を灯す歌を届ける・久保田 有貴

ギター弾き語りシンガーソングライター、久保田 有貴(くぼた・ゆたか)。中学生のころにギターを始めた彼は、バンド活動をしながら学生時代を過ごす。その後、教育学の研究者を目指して博士課程まで進んだものの、音楽の道を諦めきれず中退。2016年から本格的な音楽活動を開始した。その経歴の詳細と、今後の目標とは。

Mr.Childrenに憧れ、ギターを手に取った少年時代

愛知県出身の久保田は、中学生になるまでの記憶が曖昧だと言う。

「小学校3年生のとき、名古屋市から隣町へ引っ越したんです。転校先の学校に馴染めなくて、いじめとかもあって、辛かったですね」。

だが中学校に上がると、人間関係は大きく変化した。「別の小学校出身の子と仲良くなって、友達がわっと増えました。ある意味、中学デビューというか。今の自分の人格のスタート地点です」。

現在の音楽活動のルーツとなる出会いがあったのは、中学2年生のときだ。

「同じクラスに、漫画の主人公みたいなやつがいたんですよ。学校で一番歌が上手くて、サッカー部ではキャプテン。お兄さんの影響もあってか、音楽やファッションに詳しくて、いちはやくエレキギターを持ってて、弾けて」と、久保田は懐しむ。

「あるとき、彼に『ミスチルっていいよな』と話しかけられたんです。ぼくはミスチルが何か知らなかったけど、適当に話を合わせていました」。

その日、たまたま体調不良だった久保田は学校を早退。家に帰り、看病してくれる母親に「ミスチルって知ってる?」と訊いてみたところ、「もちろん。うちにもCDがあるんじゃない?」と、当然のように返された。

久保田は早速、家にあった『BOLERO』と『Atomic Heart』の2枚をラジカセにかけた。

「『Everything (It's you)』って曲を聴いた瞬間、鳥肌が立ちました。カッコいいな、と。それまでSMAPとかジャニーズ系くらいしか知らなかったので、衝撃でした」

Mr.Childrenに夢中になった久保田は、CDを買い集めるとともに、父親が持っていたアコースティックギターを借り、独学で弾き始めた。

中学3年生になると、前述のクラスメイトから「バンドやろうぜ」と声をかけられた。「『文化祭に出たいんだけど、バッキングギターが足りないんだ』って。遂に、自分のエレキギターを買いました」。

結果として、彼とともに文化祭へ出ることはできなかったが、「そいつに追いつきたい、そいつと何かをやることが楽しいって気持ちは、ひとつのきっかけになりました」。

久保田が初めて人前で演奏したのは、中学校を卒業する際、体育館で行われたイベントでのことだった。

「友達とバンドを組んで、たしかCHARCOAL FILTERの『Brand-New Myself』と、氣志團の『スウィンギン・ニッポン』をコピーしました。凄く楽しくて、高校入っても続けよう、ってなりました」。バンド活動のために、オリジナル曲を作り始めたのもこのころだ。

残念ながら、メンバーはそれぞれ別の高校に進学したため、連絡をとることも難しくなった。高校1年生の冬、一度だけライブハウスに出演したが、音楽の方向性の違いもあって喧嘩になり、久保田はバンドを脱退してしまう。

「『バンドってめんどくせぇな』と感じました。

そのあとは、一緒に音楽をやりたいと思える人がいなかったのもあって、家で一人でギター弾いてましたね」。

博士課程まで進みながらも、音楽の道を選ぶ

高校を卒業した久保田は、東京の大学へ進学し、教育学を専攻した。

「自分が子どものころ、学校で嫌な目にあったり、つまらなかったりすることが多かったので、『教育』について学ぼうと考えました」。

大学の軽音サークルにも参加した。「気の合うやつと久しぶりにバンドを組んで、カバー曲を歌ったら、先輩が褒めてくれたんですよ。とても嬉しくて、趣味としてバンド活動を再開しました」。

心のなかには『音楽で生きていく』ことへの憧れが燻り続けていたが、抑えこんでいた。

「ぼくが音楽を始めるきっかけを作ってくれた、中学時代のクラスメイトは、歌もギターも本当に上手かったんです」と久保田は振り返る。

「彼は別の高校へ行ったんですけど、バンドを組んでバリバリやってました。一方、ぼくはバンドを辞めちゃって、何もできなくて。大学のために上京して、地元に残った彼らとは関わりがなくなったけど、コンプレックスや劣等感は消えなかったんです」。

久保田は、最初から自分を『負け』に置いていた。

「『どうせあいつには敵わない』って諦めていました。音楽に対して本気にならない言い訳にしてた。『プロを目指したって、ぼくじゃ無理に決まってる』と。だから、オリジナル曲を誰かに聴かせたりすることもありませんでした」。大学の仲間のなかで、内輪でちやほやされることで満足していた。

卒業後は大学院へ進んだ。

「教員免許は取ったけど、教育実習で『自分に教員は向いてないな』と思っちゃって。他にやりたい職業も見つからなくて、途方に暮れていたら、尊敬していた指導教授から卒論を褒めてもらったんです。どんどん研究が楽しくなって、モラトリアムを延長する意味もあって院に行きました」。

画像1

しかし修士課程を終了したタイミングで、指導教授である恩師は定年間際で退職。博士課程から別の大学へ移った久保田は、壁にぶつかった。

「大学教授がプロだとすると、博士課程はセミプロなんですよね。高い水準を要求されて、ぼくはついていけなくなりました」。

彼は、研究の辛さから逃げるように、大学時代から続けていたバンド活動へのめりこんだ。

「オリジナル曲を作って、年に2、3回ライブをしていました」。

研究が完全に行き詰った2015年5月、久保田は大学院を休学。しばらくのあいだ、フリーターとして『やりたいこと探し』を行った。

転機は、同年の冬、勢いに任せてイギリスへ旅行したことだった。

「ずっと研究対象にしてきたイギリスの社会学者がいた大学に行きたくなって、アポなしで研究所へ突撃したんです」。

久保田はその学者の弟子に会い、自分の研究内容について話す機会を得た。「そこで『ぼくは行けるとこまで行った』と、自分のなかでけじめがつきました」。

さらに、ロンドンで出会ったストリートミュージシャンたちの姿に感銘を受けた。

「向こうでは、駅の構内とか、そこらじゅうで誰かが演奏していました。誰も聞いてないけど、みんな上手くて、自由で、とてもカッコよかった。

『ぼくみたいにくよくよ考えずに純粋に音楽を楽しんでいる感じがして、いいな』って」。

ここで久保田は「大学院を辞め、本気で音楽活動をしよう」と決意する。

「全部がパズルのように合わさった感覚でしたね。やりたいことにチャレンジしないと、きっと一生後悔すると思いました」。

一つずつ壁を越え、憧れを超えたステージを目指す

2016年2月、下北沢LOFTにて、ソロとしての初ライブを敢行。「バンドでやっていた楽曲を、ギター弾き語りにアレンジしました」。3月に大学院を中退すると、いよいよ活動を本格化。8月には、中学生時代から憧憬の念を抱いていた渋谷La.mamaへ出演を果たした。

「中学のころに買ったMr.Childrenのベストアルバムに、彼らの歴史が書かれたライナーノーツがついていたんです。そこで「ラママ」というライブハウスの名前を知って以来、ずっと憧れでした。音楽活動を始める前からホームページを見てて、出演オーディションの存在は知っていたけれど、恐くて踏み出せずにいました(笑)」。

だが「逃げていても仕方がない」と覚悟を決めた。

「バンド時代のCDを持って行って、『バンドとソロのどっちでオーディションを受けたらいいですか』と訊いたら、ブッキングマネージャーの人に『カッコいいほう。面白いことやって』と言われました」。

結局、ソロでオーディションライブに挑戦。演奏後、ブッキングマネージャーに合否を訊ねると「グレー」と返答があった。

「なんか、半分不合格みたいな扱いで。きっと今でもまだ『合格』は貰ってないですね。彼に『合格』と言われたくて、今日まで頑張り続けています」と久保田は笑う。

以降、渋谷La.mamaをホームとしながら、各地のライブハウスへ出演。2017年ごろからは、池袋を中心に路上ライブを行ったり、SHOWROOMで配信を行ったり、ライブハウス外での活動も増やした。

「まずは知ってもらわないと始まらないので」。

『久保田 有貴の防音室LIVE』という名の配信は、開始から約2年半の間、ほぼ毎日続けられた。

「この防音室は、ボイストレーニングの先生から譲り受けたものです。練習場所にも悩んでいたときだったので、助かりました。配信を通じて喋ることに慣れたし、色んな人に出逢えました。一回中断したけれど、今年に入ってから再開しています」。

2017年12月には、アンコール渋谷にて初のワンマンライブを開催し、全40席をソールドアウト。

「アンコール渋谷は、自分が弾き語りを始めて2回目に出たライブハウスでした。店長さんに仲良くしていただいていたので、閉店が決まったとき『ワンマンやったことないなら、ぜひ記念にうちでやってみない?』と声をかけていただきました。思い出深いですね」。

翌年12月、下北沢Lagunaでのワンマンライブでは、前半はギター弾き語り、後半はバンド編成での演奏を披露。さらに2019年11月、西新宿MELODIA Tokyoにて初の全編バンドワンマンライブを成功させた。

「やっぱり、バンドにはこだわりがありますね。曲をつくる時も、頭の中ではベースやドラムなど複数の楽器の音が鳴っています。語弊があるかもしれないんですけど、ぼくは弾き語りがやりたくてやっているわけじゃありません。いつか、毎回サポートミュージシャンを頼めるようになったら、常にバンド編成でやりたいです」。

2018年8月には1st mini Album『LANDMARK』を発売。現在は、2nd mini Album『VisionS』を制作中だ。

日中は私立学校の非常勤講師として働いてもいる久保田。音楽活動との両立は、時期によって忙しさもあるが、考えないようにしている。

「売れたら、今より忙しくなるのは間違いないので。この程度で時間がないとか言ってたらこの先絶対無理なんで、『忙しい』とは思わないように心懸けています」。

5年後、10年後の目標を訊くと、彼はしばらく黙り込んだ。

「『いつかアリーナを埋めるような存在になりたい』って想いはありますが、正直なところ、あまり遠くを見据えてはいません。目の前のハードルを一つ一つクリアしていきたいですね。まずは『VisionS』を完成させること。そして、ラママを卒業したいですね」。

『ラママを卒業』とは、どういう意味だろうか。

「ずっとお世話になっているブッキングマネージャーの方は、毎回ライブの後にその日のライブについてボロクソ言ってくれるんですよ。

大体のライブハウスって『良いライブでしたね。次回もよろしくお願いします』って感じなんだけど、ラママはちゃんと良くないところは忌憚なく全否定してくれる。ありがたい存在です。

逆に考えれば、彼に「今日はよかった」と言わせることができたら、自分の成長を確信できる。だからラママにこだわって出てます。彼をぎゃふんと言わせて、ちゃんとラママを卒業しないと、本当の意味で次にいけないと思うんです。もしも今、何かでバズって売れても、多分続きません」。

5年後には、まったく新しいステージにいたいと語る久保田。

「『ラママを出た久保田』じゃなくて『久保田が出てたラママ』と言わせたい」と抱負を述べる姿を見て、まさに逆境と劣等感をバネにして夢を追いかけてきた人だな、と思った。

いつか久保田が発売するベストアルバムのライナーノーツに、ラママ時代の思い出が載る。それを読んだ14歳の少年が、ギターを手に取って歌い始める。そんな未来を夢見たいものだ。

text:Momiji,Tsubasa Suzuki edit:Momiji

INFORMATION

2nd mini Album『VisionS』(全8曲・¥2,500)の予約受付中!そのほか各種CD・グッズもOfficial Websiteにて販売中。

2020.07.26(Sun)
Kubota Yutaka Band One Man Live 2020 【仮】
[会場] 西新宿MELODIA Tokyo(中野区弥生町1-9-3 B1F)
※詳細はOfficial Websiteにて発表!

関連記事


お読みいただき、ありがとうございます。皆さまからのご支援は、新たな「好き」探しに役立て、各地のアーティストさんへ還元してまいります!