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【R25:STORY】夢の続きのその先へ ・三浦コースケ

シンガーソングライター、フィンガースタイルギタリストを主軸としながら、コンポーザー、トラックメイカー、小説家など多数のフィールドで活躍する、三浦(みうら)コースケ。サッカー選手になることを目指していた彼は、20歳から音楽を始め、メジャーデビューを目標として活動。YouTubeに投稿した動画が評価され、国内外で演奏ツアーを行い、現在のスタイルに至るまでの物語と、その志とは。

サッカー漬けの青春から、音楽の道へ

山形県出身の三浦コースケは、プロサッカー選手になることを夢見る子どもだった。

「小学3年生のとき、友達に誘われたことがきっかけで、サッカークラブに入りました。最初は友達と遊びたいだけでしたが、気づけば毎日ボールを追っていて、高校卒業後はサッカーの専門学校に行きました」。

三浦が進学したJAPANサッカーカレッジのサッカー専攻科では、3年間のカリキュラムを通じて、プロ選手やマネージャーとして、サッカー業界へ就職を目指す。しかし、通い始めて2年が経ったころ、三浦は学校を辞めた。

「理由は幾つかあります。まずは自分の怪我ですね。足首の靭帯を何度も断裂したり、膝の半月板を損傷してしまったり。周囲のレベルに対して、心が折れた部分もあります」。

同級生には、元プロの経歴を持つ選手が多数いた。

「Jリーグでプレーしたあと、戦力外通告を受けたけれど、もう一度プロになろうとしているような人がたくさんいました。彼らは、バチバチに上手いんです。『このレベルでも、Jリーグでは通用しないんだ』と思っちゃいました」。

さらに、父親の病気が見つかった。

「8歳から12年間サッカーをやらせていただいたけど、自分には、これ以上この道は進めないだろうな。やれる限界まで、諦めるしかないところまではやった、と思いました」。

専門学校を辞め、山形へ帰郷した彼は、音楽を始めた。「ちょっとギターを弾いていたこともあり、『音楽をやってみよう』と思いつきました」。

音楽を聴くことはずっと好きだった。

「人生で初めて『音楽っていいな』と思ったのは、映画『ミュウツーの逆襲』を見たときです。エンディングテーマの、小林幸子さんの『風といっしょに』を聴いて、子どもながらに『グッとくる歌だな』と感じました」。

サッカーの練習の合間に、アニメを見ることが好きだった。

「ワンピース、遊戯王、ポケモン、デジモン。流行りのアニメを見て、その主題歌を自然に聴いていました」。

人生で初めて作曲を試みたのも、アニメがきっかけだった。

「中学1年生のころ、アニメが好きすぎて、自分でオリジナルストーリーを考えていたんです。下手な絵を描いて、そのテーマソングを鼻歌で作りました。1番から4番まであって、韻を踏んだり、歌詞の意味を繋げたり、それなりにちゃんと作れていましたね。今、歌うような曲じゃないですが」。

とはいえ、それをきっかけに作曲を始めたり、音楽にのめりこんだりしたわけではない。

「一曲だけ作って放置していました。あとは高校時代の友達に誘われて、ギターを軽く弾いてたくらい。本格的に音楽をするようになったのは、サッカーを辞めたあとです。20歳から、演奏者として、ほとんどゼロから始めました」。

メジャーデビューを目指して上京

「ギターや歌は、習ったことがありません。全部独学です」と語る、三浦。

「音楽を始めたばかりのころは、BUMP OF CHICKENや絢香、大塚愛など、J-POPが好きでした。大きく変わったきっかけの一つが、宇宙コンビニっていうインディーズのバンドです。プログレッシブ・ロックをすごくポップに昇華していて、変拍子をめっちゃ使うけど、聴きやすい音楽に感動したんです。さらに2012年頃にエド・シーランを知って、世界中のアーティストの演奏を聴くようになりました」。

YouTubeの動画を見て、心を動かされたアーティストたちの技を、一つ一つ吸収した。

ライブ活動を開始したのは、2010年4月からだ。「路上ではアコギ、ライブハウスではエレキギターで弾き語りをしていました」。

当時の目標は、メジャーデビューすることだった。

「元々、サッカーでプロを目指していたので、音楽でも当然プロになるつもりで始めました。やるなら東京へ行きたい、という意識も強かったです」。

1年間、アルバイトをして資金を貯め、翌年に上京を果たす。

「東京で出会ったメンバーにサポート演奏をしてもらったり、ドラマーの人とふたりでユニットを組んだりしました。楽しかったですね」。

しかし、順風満帆とはいかなかった。

「生活費を稼ぐためにバイトをかけもちしたんですが、半年経ったころから、給料の一部が払われなくなりました。音楽をするために上京したのに、気づけば週5日働いていて、音楽はできないし、ブラック企業のせいで生活もできない。『安定って存在しないんだな』と気づいて、バイトを全部やめました」。

それからは、路上ライブで投げ銭を得て、生活する日々が始まった。

「起きている時間は、ほとんど全部、音楽をしていました」。

現状に対する焦りもあった。

「色んな業界に関わらせてもらうなかで、メジャーデビューできるかどうかの瀬戸際で戦っているミュージシャン達を、間近で見る機会がありました。『このままじゃ絶対追い付けない』と感じましたね」。

三浦は「自分はどっちかというと才能のない側だと、今も思っています」と語る。「サッカーもそうだったし、音楽も、天才的なセンスはありません。そこを越えるためには、時間をかけるしかないんです」。

小説や映画ならば、飛ばし飛ばしでもストーリーを追うことが可能だ。しかし音楽は、3分の楽曲を味わうために、3分かかる。その曲を練習する際も、3分が必要だ。

「新しい技術や知識を学んで、曲を作って、練習して、宣伝とかもがんばらなきゃいけない。とにかく時間が必要で、僕のキャパでは、働きながら音楽をやるのは難しいと思いました。全てを振り切って、音楽に捧げるしかない、と」。

一日の半分以上、ギターを弾いて過ごすことが当たり前だった。

「自分でも驚いたんですけど、36時間、ぶっ続けで弾いた日があります。夜0時から、エレキギターにイヤホンをつけて、オリジナル曲を練習していたんです。エフェクターをいじりながら、飯も食わずに。『外が明るくなったな』と気づいて、時計を見たら12時でした。『やべ、また半日弾いちまったな』と思ったら、日付が1日ずれていて。あのころは、狂ってましたね」。

努力の甲斐あって、実力はめきめきと伸びていった。

だが1年ほど経ち、資金面での限界が訪れた。

「ブラック企業から払われなかった給料の分が、どうしてもリカバーできなかったんですよね。余裕がなくて、東京に縛られていたのも嫌でした」。

それでも上京したことは、自分にとってプラスになったと語る。

「東京で高いレベルを知って、色んな人と知り合って、たくさんのチャンスをもらうことができました。ただ、一回態勢を立て直したいと思って、地元に帰りました」。

三浦コースケの確立と再出発

拠点を山形県に戻したあと、新たなユニットの結成や解散を経て、2014年からソロのシンガーソングライターとして活動を再開。名前も『三浦コースケ』と改めた。「毎月4~5本、山形を中心に、東京などへ歌いに行く形で落ち着きました」。

15年11月には、月山青春音楽祭’15に出演。地元アーティストとして初めて、教室ライブを担当した。

翌年には、同音楽祭のリニューアルに携わり、新生したオトナルヤマガタ’16にゲストアーティストとして参画。テーマソング『オトガナル』の作詞・作曲・編曲を担当したほか、文翔館議場ホールなど4ステージにて歌唱した。

「アコギ一本で色んな楽器の音を鳴らすっていう、今の演奏スタイルの原型も、このころにスタートしました」。

メジャーデビューの夢も追い続けていた。

15年9月には、ソニーミュージックエンタテインメントによる全国オーディションにて、最終選考の10名に選出されている。

「オーディションは定期的に受けていて、ソニーの新人発掘の人がライブを見に来てくれたり、アミューズの方に紹介してもらったり、何度かチャンスをいただきました。いずれも、結果には繋がりませんでしたが」。

そんなある日、遂に、メジャーデビューの声がかかった。

「2015年の年末のことでした。とある芸能事務所の社長さんが僕を気に入ってくださって、そこに所属している女の子とユニットを組んでデビューしてほしいと言われたんです。僕は、どんな形でもプロになれれば良いと思っていました。とりあえず名前が売れれば、自分の活動も広がっていけるだろうと。なので、喜んでお受けしました」。

デビューの話はとんとん拍子に進み、契約目前というところで、中断した。

「先方の都合でプロジェクトが動かせなくなって、『少し待ってくれ』と言われました。僕は半年ぐらいライブを休止して待ったんですけど、そのまま話は流れちゃったんです」。

残念な結果となったが、貴重な経験になったと振り返る。

「もし上手くいってても、ダメだったかもしれない、と思うんですよ。メジャーデビューして、何枚かCDを出して、売れなくて、終わってたかもしれない。またサッカーのときのように『やりきった』と感じて、別の道へ行ったかもしれない。あのとき形にならなかったからこそ、続きがあった。『まだ音楽をやらなきゃいけない』と思えたんですよね」。

海外からの評価と、意識の変化

事務所との契約が難航していた、2016年上半期。三浦は、座して待っていたわけではない。YouTubeへの動画投稿に力を入れ、『作曲やライブで使えるギター講座』や、自身のライブ映像を多数公開していた。

翌年、これらの動画は、スラム奏法を編み出したことで有名なPetteri Sariola氏や、数々の特殊奏法を駆使するギタリストとして知られるLuca Stricagnoli氏などから称賛される。

「自分が影響を受けて、技術を取り入れてきたアーティスト本人からメッセージをもらえたことは、すごく励みになりました」。

17年7月には、両A面シングル『忘れていく唄/人生なんてそんなもんだ』をリリース。

「14年ごろにデモシングルを作って、半年で1000枚くらい売ったことはありますが、ちゃんと企業に依頼して制作したのは、このCDが初めてでした」。

同年11月、短編小説『明日の余告』を、電子書籍と文庫本で出版。翌月に全国リリースした1st full ALBUM『All=Myself』とリンクした内容で、ファンを驚かせた。

「アルバムのために14曲を揃えて、全体として書きたいテーマが決まって、ラストを飾る『僕らが最後に生まれた日』ができたとき、ふと、物語が欲しいと思ったんです」。

人生で初めて執筆した小説は好評を博し、文庫本は完売した。さらに、4ヶ月かけて全国30カ所を回るツアーを開催。ツアーファイナルとして、自身3度目のワンマンライブを成功させた。

このころには、心境が変わりはじめていた。

「オーディションで勝ち上がったり、事務所に所属したりしなくても、個人でやっていけるんじゃないか。セルフプロデュースした方が、自由にやれるんじゃないか、と思うようになりました。YouTubeを通じて、海外の人が評価してくれたからこその変化でした」。

18年7月から約2ヶ月間、ロシア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランド、スペイン、フランス、イギリスのヨーロッパ12ヵ国を唄いまわるツアーを敢行。

「実際、自分がどれだけ通用するか、試したくなったんです。人生初の海外だったので、パスポートを取るところから始めました。行きの飛行機のチケットと、ギターだけ持って、アンプは向こうで調達しました」。

現地では、カバー演奏などは一切せず、日本語で、自分のオリジナル曲ばかり歌った。

「『日本の歌だ、珍しいな』って感じで足を止めてくださる方が、結構いました。向こうははっきりしていて、自分の演奏の調子のいい日はたくさんの人が集まってくれるし、ダメな日は全然ダメ。手応えは半々ってところでした」。

各国ごとに評価基準が違うことを、肌で感じた。

「スウェーデンでは『声がいいよね』と褒められることが多くて、スペインでは、高難度のギターテクニックを見せると盛り上がりました。唯一、どの国でも好意的に聞いてもらえたのが、『忘れていく唄』でした」。

何故この曲が評価されたのかは、分からないと語る。

「言葉の意味なんか、絶対通じてないんですよね。もしかしたら、J-popらしいメロディや、オリジナルのギターの演奏方法を気に入ってもらえたのかもしれません。個人的には、歌の力というか、自分の想いが歌に乗ったと思いたいですね」。

ツアーを終えて帰国したときには、さらに意識が変わっていた。

「海外に行って、改めて、日本の良さが分かりました。だからこそ『日本がもっとこうなればいいな』という思いも強まりました」。

それらが結実したのが、19年7月に配信リリースした『Kawaii HARAKIRI Yabai ne NIPPON』だ。同時にYouTubeで公開したMVは、国内外から多くの反響を呼んだ。

その後、再び日本を旅立ち、ロシア、ポーランド、ドイツ、フランス、イギリス、韓国の6か国をまわるツアーを開催。今回は新曲『理由を超えて』が高い評価を受けた。

「19年のツアーには、ボディを叩くと電子ドラムの音が鳴る、新しいギターを持っていきました。そもそも『理由を超えて』は、海外の人に喜ばれそうな曲として、僕なりに考えて作ったんです。バラードで演奏したら和風になるメロディを、あえて四つ打ちのダンスミュージックに仕上げました。狙い通り、評判は上々で、嬉しかったですね」。

帰国後の19年秋、短編小説『昨日の己憶』とSingle『You are so great』、さらに2nd full ALBUM『MUSIC ADDICT』を発表。半年かけて全国38カ所を回るツアーを行った。

「コロナ禍の直前で、ツアーファイナルも中止になりかけたけど、ギリギリ開催出来てよかったです」。

20年はコロナ禍により活動に制限を受けつつも、9月22日付けのイギリスのストリーミングチャートにおいて、J-Popアルバムチャートで4位にランクインを果たした。その後20日間チャートイン。

「海外ツアーをしたとき、一番難しかったのがイギリスだったのに、まさかそこで、って驚きました」と、三浦は笑う。

「イギリス以外の国は、多言語を学んでいる人が多かったためか、僕が日本語で歌うことも受け入れられやすかったんです。でもイギリス、特にロンドンでは空気が違いました。

通りかかったおばあちゃんに『あなたは歌もギターもすごくいいんだから、英語で歌ってよ』と言われて、『僕は日本語でチャレンジをしにきたので、それはできない。僕のポリシーなんだ』と伝えたら、すぐにいなくなってしまったり。そのイギリスでランキングに入れたのは、嬉しかったですね」。

同年秋には、偶然訪れた大阪で、YouTuberのUNDER THE GUN氏の企画『路上にギター設置してみた in 大阪城公園』に参加。11月15日に投稿された動画『ギターでヴァイオリンを奏でる超絶技巧ギタリストが現れた。』は、32万回再生を記録した。

「おかげさまでバズって、僕のチャンネルの動画も見ていただける方が増えて、ありがたかったです」。

21年から本格的に活動を再開。5月21日に3rd full ALBUM『MAM』、小説『明日、昨日、そして、今日。』をデジタルリリース。

コロナ禍のため延期していた初ホールワンマンライブも、8月22日、山形県総合文化芸術館大ホールにて無事に開催された。「もう少しコロナが落ち着いたら、ホールワンマンのリベンジをしたいです」。

さらなる高みを志し、還元する

2022年6月21日には、各種サブスクリプションサービスにて、リマスターアルバム『I am Japanese』をリリース。さらに小説『明日、昨日、そして、今日。』の文庫本を出版した。

「実は、去年出した『MAM』でサブスク用のマスタリングを失敗した部分があったんです。新しいアルバムをリリースするときは失敗したくないので、データ収集を兼ねてリマスターすることにしました。前作を出した後に出会ってくれた人たちにも、ぜひ聴いてほしいと思っています」。

これらのリリースは、彼にとって重要なマイルストーンとなる。

「自分の人生を区切って、一つの形にするという意味で、リマスター版の制作と『明日、昨日、そして、今日。』の出版に取り組みました。次は、まったく違うことをするかもしれません。特に小説は、いったん終わらせたいという思いがあります」。

本作の表紙には、第四章『無限の現覺(げんかく)』の冒頭がそのまま掲載されている。

「動画って、見ようとしなくても目に入って、内容が伝わりますよね。同じことを小説でもできないかと、装丁にこだわりました」。

第一章『明日の余告』の執筆時点で、完結までの構想があったわけではない。「『一作だけでは終わらないだろう』と、思ってはいました。なんとなく、いずれ続編を書くことになるだろうと。でも、こういう風になるとは思っていませんでした」。

本作は、三浦自身の人生とリンクしている部分が多い。

特に第一章の主人公であるユタカは「僕と同じ体験をしてきて、真逆の選択をした人として描きました」と語る。

「ユタカくんは高校でサッカーを辞めたけど、僕は高校では辞めずに、専門学校へ進んだ。その先で辞めはしたけど、きっちり諦めるところまでやりきって、音楽という別の挑戦を始めた。ユタカくんは未練を残したまま、就職して堅実な生活をすることを選んだ。そのあたりを意識して書いています」。

ミュージシャンを本業とする三浦にとって、小説の執筆は、新たな気づきをもたらすものだった。

「小説専業の人は凄いと思います。音楽以上に身を削って書いているというか、書けば書くだけ、表現者の代償があるというか」。

アーティストとして一つの節目を迎えた三浦に、今後の目標と夢を訊いた。

「シンプルにグラミー賞をとる。世界に通用するミュージシャンになる」。

海外に視線を向けながら、各地で歌い続けるつもりだ。

22年10月22日には、自身初となる、福島県でのワンマンライブが決定した。

「これまでずっと、ワンマンをやるときは、山形県の会場を選んでいました。みんなに山形へ来てほしかったからです。でも、福島の人にはたくさんお世話になったし、たくさんライブもしてきたから、ちゃんと福島県でやろうと思いました」。

夢の一つとして、「47都道府県ワンマンツアーをやりたい」と語る。

「日本全国にお世話になった人がいて、その場所でやる理由があって、ちゃんと会場を埋めて、ツアーができたら面白いですね」。

その想いには、彼の地元である山形県が、メジャーアーティストのツアーでは外されがちであるという事実も関わっている。

「山形ってチケットが売れづらくて、最難関とも言われているんです。だからみんな、となりの県の仙台でやったりする。ずっと悔しかったんで、僕は、そういうことをしたくないです。

『広島県でワンマンをすれば、岡山県や山口県の人も来るでしょ』じゃなくて、全部の県でちゃんとやりたい。北海道なら札幌だけじゃなくて、函館や根室や帯広でもやりたいな」。

さらにいつか、自身がアーティストとして結果を出したのちには、山形県のアーティスト育成に寄与する場を作りたいと考えている。

「これまでの経験から、東京はもちろん、地方にも、頑張っている人を押し上げるために活動している人や組織があるということを知りました。たとえば、かつて僕とアミューズを繋いでくれた人は、北海道の方でした」。

しかし、山形県には、そういった仕組みが存在していないと悲しむ。

「山形出身の子は、大きな夢を描かずに終わるか、県外に出ていくか、選択肢が非常に少ないんです。そこに希望を見せたい。

山形で生まれ育った才能が、山形でチャレンジを始めて、ちゃんと上を目指していける環境を整えたいです」。

三浦コースケの夢は、さらに続く。

「宇宙でワンマンライブをやりたいですね」。

純粋に、宇宙空間での演奏に興味があるだけではない。

「宇宙でのワンマンとなれば、チケット代はもちろん、交通費や宿泊費も含め、相当なお金と時間をかけて見に来てもらうことになるでしょう。それに値する、そこまでしても見たいと思われるようなアーティストになりたいんです」。

そして最終的に成し遂げたいことは、「国を作ることです」。

「僕にとって本当の自由は、自分で国を作らないと得られないんだな、と思って。国王になりたいわけじゃないので、それは他の人に任せて、形を作りたいですね」。

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果てしない夢を語る三浦は、幅広い楽曲を奏でる。

人々は、彼のギターテクニックに感動したり、歌詞に共感したり、様々な理由でファンになっていく。

彼にとって、音楽や作品は、「行き場のない思いの最後の砦」だ。報われないものが、報われるわけでなくとも、行き場を得られると感じている。

「僕が生んだ作品は、勝手に色んな人と出会って成長していくものだと思っています。子どもが親の手を離れて、それぞれの人生を歩いていくように。新しい人に出会えば、それだけ表情が増えていく。もう、僕の知らない表情も持っているだろうし、それが嬉しい。僕の曲が、届くべきところに届けばいいなと思います。必要としてくれる人に」。

創作は、木を植えるような作業だと考えている。

「自分が砂漠を旅をしているとします。陽射しが強くて、『日陰で休みたいな』と思うけど、そこには木が生えていない。もしかしたら、僕のあとに来る人も、同じことを思うんじゃないかな。だから、僕が植えるんです。そうしたら、次の人たちが休めるかもしれないから」。

これからも三浦は、旅をしながら、各地に作品を置いていくのだろう。それらは誰かと出会い、いずれきっと大きな世界樹となって、潤いをもたらす。

まるで現代の吟遊詩人のような、彼の夢の続きが楽しみだ。

text:momiji photo:zuhotin

Information

小説『明日、昨日、そして、今日。』(23曲入りCD付)、ライブ会場にて好評販売中!各種サブスクリプションサービスにて、NEW ALBUM『I am Japanese』配信中!

2022.10.22(Sat) Open 18:00 Start 19:00
三浦コースケ初福島ワンマンライブ

[会場] IZAKAYAくま福(福島県河沼郡会津坂下町五香六百苅1103)
[出演] 三浦コースケ / OA.たけだゆーすけ
[料金] ¥2,500(+1D)

2023.01.22(Sun) 三浦コースケ初大阪ワンマンライブ
[会場] 東梅田AZYTATE(大阪府大阪市北区堂山町11-2)
Comming soon...

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