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【SSW18:STORY】音楽があるうちは、生きていよう。・黒木ちひろ

ギターとピアノの弾き語りを中心に、ルーパーやサンプラーも使用し、多彩なライブを魅せるシンガーソングライター、黒木(くろき)ちひろ。中学生で不登校になったことをきっかけに、音楽と向き合って生きてきた彼女は、2024年にZeppの舞台に立つことを目指している。その原動力とは。

死んでもいいなら、音楽をしよう

神奈川県茅ヶ崎市出身の黒木ちひろが音楽を始めたのは、中学生のころ、学校に行けなくなったことがきっかけだった。

「小学生まではそうでもなかったのに、中学に入った途端、『完璧な人間になりたい』と思うようになったんです。勉強も部活も全部がんばって、優等生になろうとしました。でも、自分で気づかないうちに、ストレスを溜め込んでいたようです。まず夜に寝られなくなって、ある朝ついに、『もう学校へ行きたくない』と泣き出してしまいました」。

心身の不調から不登校となり、なんとか高校へ進学したものの、1年と経たずに休学した。

先の見えない日々のなかで、彼女は、ひたすら音楽を聴いた。

「特に、鬼束ちひろさんの歌には、強く影響を受けました」。

元々、幼稚園から中学3年生までクラシックピアノを習ったり、母親とともにカラオケへ通ったりと、音楽には親しんでいた。

「学校に行けないってことは、きっと、大人になっても会社へ行けない。つまり社会に出られない、普通に生きていけない。それならもう、死んでしまいたいと思っていました。命を絶とうとする瀬戸際で、踏みとどまらせてくれたのが、音楽だったんです」。

死んでもいいなら音楽をやろう、と考えた彼女は、ギターを購入した。

「ピアノだと、コードが分からなくて、弾き語りができませんでした。作曲のしやすさも考えて、まずはギターの初心者入門セットから始めました」。

2010年8月から、インターネットの投稿サイトや、自分のホームページでオリジナル曲を公開し始めた。すると、ライブハウスから、ブッキングライブへのオファーが届いた。

「一つライブに出ると、色んなところからお誘いが来るようになりました。声をかけていただけることがありがたくて、全部受けていきました。しばらくは、ライブとバイトに明け暮れる日々を過ごしました」。

少しずつ活動の幅は広がり、路上で歌ったり、インストアライブへ出演したりするようになった。関東圏だけでなく、大阪や兵庫などにも足を運んだ。一ヵ月に16本ものライブをこなしたときもあった。

14年1月22日には、天下一音楽会 Singer Girls Collection Vol.1の決勝戦に出場。Zepp TOKYOの舞台で、代表曲の一つである『祈りの糸』と、当時の最新曲『lemon』を披露した。

「お客さんの投票のおかげで、決勝まで進むことができました。初めて『何かを達成した』と、強く思った瞬間でした」。

同年3月18日には、秋葉原DRESS AKIBA HALLにて、初めてのワンマンライブをソールドアウト。9月24日には、自主制作アルバム『SMALL WORLD』レコ発セカンドワンマンライブを成功させた。

彼女にとって、エポックメイキングな一年となった。

恩返しのために、再びZeppで歌いたい

順調にアーティストとして階段を上っていたように見える黒木だが、2015年5月21日のライブ出演を最後として、一時、音楽活動を休止してしまう。

「全力で走り続けていた弊害でしょうか。糸が切れたようにボロボロになって、行き詰まってしまいました。私は双極性障害を患っていて、躁鬱の波が激しかったことも影響したかもしれません。『もうどうしようもない』と思って、活動をお休みしました」。

休止期間には、これまでできなかったことに取り組んだ。特に、フィリピンのセブ島へボランティアに行ったことは、思い出深いと語る。

「日本とはまったく違う空気を吸って、羽を伸ばすことができました」。

多くのことを考え、悩んだ。

気づけば、『叶わぬものの多さを知る』という楽曲が完成していた。

「こんなにしんどいのに、私は曲を作っている。歌っている。人前に出ることをやめてなお、音楽をしている自分に、はっとしました。せっかくだから、誰かに聴いてほしいから、『この曲を持って戻ろう』と決めました」。

復帰にあたって、同楽曲のMusic Videoを制作。その撮影中に、音楽活動に対する意識を変える出来事があった。

「撮影と編集をしてくれた林さんが、『黒木さんの歌が届けば救われる人がいるはずです』と、真剣に言ってくださったんです。そんな風に言ってくれる人がいるんだ、と衝撃を受けました。彼だけでなく、これまでに自分と出会ってくれた人々の思いに応えるには、ぼんやりしていたらいけない。自分が動かなければと、腹を括りました」。

17年3月11日にMVを公開し、4月5日には活動復帰シングルを発売。21日には、2年ぶりにライブハウスの舞台に立った。

どうすれば、より多くの人に自分の歌を届けられるのか。試行錯誤しながらライブを重ね、音源をリリースしていった。

19年1月、横浜O-SITEでのワンマンライブで、自身初となる100名以上の動員を達成。その場で、『もう一度Zepp Tokyoでライブをする』という目標を公言した。

「5年前は、大勢の出演者の一人として、10分間だけライブをさせてもらいました。皆さんの力で、その舞台へ押し上げてもらいました。今度は自分の力で、ひとりで、あの会場全体を魅了したい。そのくらい力をつけることが、恩返しになると考えました」。

CAMPFIREファンクラブをスタートするとともに、ライブ活動を活発化させた。その矢先に、コロナ禍が世界を襲った。

「最初は楽観視していました。カバー動画を投稿したり、動画制作の技術を勉強したり、今できることをやろうと思っていました」。

だが、予想外にコロナ禍は長引き、予定が崩れていった。

「本当は、定期的にワンマンライブを開催して、少しずつその規模を大きくしていくことで、Zeppに到達しようと考えていました」。

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計画の見直しを迫られるなか、21年4月25日、アルバム『SHARP DROP』をリリース。20年4月から延期していたワンマンライブを、ようやく開催に漕ぎつけた。さらに同年9月、新たな活路を求めて、Parade Artistへ所属。

「音楽活動を始めてから約10年、一人で全部やってきました。だけどコロナ禍もあって、協力してくれる人がほしくなったんです。自分では思いつかないことや、面白いアイディアを出してもらえたらいいなと思いました」。

22年1月22日には『蒲公英』、2月18日には『little sun』、3月11日に『祈りの糸』と、連続してデジタルシングルをリリースした。

「これまでの私は、音楽活動全体を考えながら、楽曲をリリースしていました。たとえば『4月にワンマンライブをやろう。アルバムのレコ発にしよう』と決めたら、何回か企画ライブをやって盛り上げて、一部の楽曲をシングルとして先行リリースして、MVも作って…というように、半年ほどかけて活動プランを練っていたんです」。

しかし現在、プランニングはマネージメントに任せ、楽曲制作に専念している。「これだけ集中して、ひたすら楽曲を作るというのは、自分にとって初めてのことかもしれません」。

今までにない環境で、新たな可能性を追求している。

所属事務所も、彼女の才能に太鼓判を押す。

「初めてライブハウスで黒木ちひろを観たときから、もっと良い曲を書けるようになっていくだろう、と思っています」。

黒木にとって想定外だったのは、コロナ禍だけではない。目標としていたZepp Tokyoが、22年1月に閉館してしまった。それでも、前を向いている。

「2014年と同じ舞台に立てないのは残念ですが、『多くの人に私の歌を届けたい』という思い自体は変わっていません。YokohamaやHanedaなど、Zeppホールネットワークのいずれかで、達成したいです」。

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遠い未来のことは、あまり考えられないと語る。

「今は、『2024年にZeppに立つ』という目標のために生きているところがあります。悪く言えば、その先はどうでもいいと思っているんです。もしかすると、また燃え尽きて、活動を休止してしまうかもしれません。それでも、きっと、また帰ってくる。結局、音楽は続けるような気がしますね」。

音楽に生かされてきた彼女だからこそ、誰かを生かす音楽も奏でられるのだろうと思った。

text:Tsubasa Suzuki,Momiji edit:Momiji photo: Shun Itaba

Information

2022年1月から、デジタルシングル連続リリース中!

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今後のライブ予定は、HPからご確認ください。

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