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【SSW07:STORY】道なき道を突っ走る歌い手・だいてぃー

ギター弾き語りで演奏活動をしているシンガーソングライター、だいてぃー。幼少期から長距離走に取り組んできた彼は、名門・東海大学陸上部へ進学するも、挫折を経験。新たな生きがいを音楽に見出し、大学2年生から本格的なライブ活動を始めた。卒業後、一度は就職したが、脱サラ。ドイツでの路上ライブ武者修行や、YouTubeへの動画投稿など、たゆまぬ研鑽に励む彼の人生に迫った。

走り続けた少年が、音楽に生きがいを見出すまで

山形県米沢市に生まれただいてぃーは、自然豊かな環境で育った。

「子どものころは、少し太り気味だったこともあって、暇さえあれば身体を動かしてましたね」。

夏は水泳、冬はスキー。様々なスポーツに取り組むなか、最も性に合ったのが『走ること』だった。

「父の車で遠くに連れていかれて、『ここからここまで走れ』と言われて。田んぼと田んぼの間のあぜ道を、ひたすら走ってました」と彼は笑う。

「『何か一つ、1番になれるものをつくれ』というのが、父の口癖でした。僕としては『走りで1番になろう』なんて、まったく思ってなかったんですけど、適性があったんでしょうね。小学校のマラソン大会で優勝して、市の陸上競技クラブにスカウトされて、大会へ出るようになりました。高校でも陸上部に入り、長距離走を続けました」。

高校卒業後は、さらなる高みを目指して東海大学へ進み、陸上部に所属した。東海大学陸上部と言えば、正月の風物詩である『箱根駅伝』に40回連続で出場した記録を持つ名門だ。05年に念願の往路優勝を果たし、19年には総合優勝。20年に行われた第96回大会でも復路優勝し、総合2位の位置につけるなど、輝かしい成績を収めている。

だいてぃーも、箱根駅伝で走ることを夢見ていた。しかし、部のレベルは予想以上に高く、活躍の舞台に恵まれなかった。

「『長距離は、もうダメだな』と自分で見切りをつけて退部しました。それから一年くらい、新しく夢中になれるものを探していました」。

転機が訪れたのは、大学2年生のときだった。

「たまたま、友人がギターを買いに行くのに付き合って、『これだ!』と閃いたんです。すぐに自分のギターを買って、音楽好きな友人を増やして、大学の軽音サークルに入りました」。

だいてぃーの音楽のルーツ

ずっと走ることに夢中で、「歌手になりたい」とは毛ほども思ってもいなかっただいてぃー。仮面ライダー電王の佐藤健に憧れ、俳優を志した時代もあったという。

彼が音楽を聴き始めたのは小学5年生ごろのことだ。

「MDを買って、流行りのJ-POPをたくさん聴いてました。中学2年生くらいになると、レンタルショップに通って『周りのやつらは知らなそうだな』って曲を漁りはじめて。いわゆる音楽オタクになってましたね」。

そして、中学3年生のとき、彼の音楽のルーツともなるバンドと出会った。

「UVERworldの『PROGLUTION』というアルバムを借りて、歌詞カードの一ページ目の文章を読んで、衝撃を受けたんです。『「音楽で世界は救えるのか?」という問いに即答出来なくなったのは、いつからだろうか?』って」。

彼は、まるで昨日のことのように語った。

「その瞬間、僕のなかにあった『メジャーでポピュラーなロックバンド・UVERworld』のイメージが、ガラッと変わりました。さらにアルバムの一曲目の『Roots』は、冒頭の問いに対する答えのような、ボーカルのTAKUYA∞の魂のこもった歌で、感動しました。

 あれからずっと、今も憧れのバンドです」。

当時は、カラオケを趣味にしていただいてぃー。高校3年生のときには、バンドのボーカルとして歌ったこともある。

「陸上部を引退した後、部活のメンバーと一緒に文化祭へ出たんです。あのころの僕は楽器を弾けなかったので、ボーカルとして参加しました。そのコピーバンドでASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲を歌ったのが、カラオケ以外では初めての人前での演奏でした」。

演奏の出来はどうだったのか、と訊くと、彼は苦笑した。「友達には『歌うまいね』と褒めてもらえたし、文化祭のステージとしては成功したんですけど、演奏自体には納得がいきませんでした。僕を含め、素人ばかりでバンドを組んだので、練習の仕方すら分かっていなかったんです」。

このようにして音楽に親しんでいた彼が、自分のギターを購入し、音楽活動へのめり込むようになったのは、必然だったのかもしれない。

「ギターを始めてすぐのころは、大学の音楽サークルのなかで演奏していました。ただ4年生になると、仲間内で、固定客にだけ演奏しているのがつまらなくなってきちゃって。『もっとリアルな反応がほしい』って感じて、じゃあオリジナル曲を作ってライブしてみようかな、と思い始めました」。

一度は就職するも、脱サラし、音楽一筋に!

大学を卒業した彼は、システムエンジニアとして就職した。

「フリーターになって音楽の道を究める、って選択肢もありましたが、親に反対されました。そりゃそうですよね。僕としても『社会に出て働いてみたら、「意外と悪くない」と思うかもしれない』と考えて、就職しました」。

しかし、一年後、だいてぃーは会社を辞めた。

「ホワイトな職場ではあったんですけど、自分が成長できそうな感じがなかったんです。職場の上司を見ながら『このまま5年、10年と働き続けた自分』を想像すると、未来に希望が持てなくて、とても怖かったですね」と、彼は顔をしかめる。

「十分な収入があっても、心は満たされなくて。うだつの上がらない、空っぽな毎日を送っていましたね。『この会社にいて、自分は本当に成長できるのだろうか』と、不安で眠れないこともありました」。

今となっては良い経験だった、と彼は振り返る。

「どんなに大きな会社で、沢山お金を貰って、世間的には勝ち組の安定した生活を送っても、満足できないということが身をもってわかりました。対人関係でも、学生時代までは気づいていなかったことに気づけたり、大切なことを学べたと思います。会社員として働いた経験は、今も曲作りに生かされています」。

自己成長の機会を求め、フリーターとなっただいてぃーは、改めて音楽活動を開始した。

「7月にギターを新調してすぐ、最寄り駅で路上ライブをするようになりました。やっぱり音楽活動と言えば路上かな、って」。

また、彼には野望があった。

「実は、就職して半年くらい経ったころから『海外で路上ライブしたい』と考えていたんです。今から思えば、つまらない現実からの逃避願望もあったんでしょうね。でも、会社を辞めて足かせはなくなったし、夢を夢で終わらせないためにも、まずは日本の路上で練習しようかなって」。

ドイツでの路上ライブ武者修行

「海外で路上ライブをしたい!」。荒唐無稽とも思える野望だったが、だいてぃーは、強い気持ちと行動力で計画を進めていった。

「元々はアメリカへ行くつもりで、海外で音楽活動をしたことがある人に相談したんです。そうしたら『アメリカなんて、ありきたりでつまらないよ。生活水準が日本と違いすぎる国も困るだろうから、ヨーロッパに行ったら良いんじゃない?』とアドバイスをもらったんです」。

「僕としても、他の人と違うことがやりたかったので、行き先をドイツに変えました。『ドイツで路上ライブしてきた』って話はあまり聞かないし」。

だが、会社を辞めたばかりの彼には、先立つものがなかった。

「本当にお金がなかったので、当時住んでいたシェアハウスの友達に『ドイツへ行きたいんだけど金を貸してくれないか』って頼みました。友達っていっても、知り合って4ヶ月くらいだったんですが、快く貸してくれて。なんとか、往復の飛行機代を工面することができました」。

周囲の人々や幸運に助けられつつ、18年8月、彼は日本を発った。

とはいえ、ギリギリの旅だった。ドイツへ到着したとき、財布に入っていた現金は約5,000円。それも、交通費として一日で使い切ってしまった。また、ドイツ語どころか英語すら十分に話せない状態だった。

まさに裸一貫の武者修行であったが、「不思議と不安はありませんでした。最悪、物乞いをしたり、友人に片っ端から連絡したりすれば、食いつなげるだろうと思ってて」と笑うだいてぃー。

「危機的な状況になればなるほど、良いアイデアも生まれてくると信じていたし。お金がないことを楽しんでいたかもしれません」。

帰国するまで、約一ヶ月間の生活費は、路上ライブで稼いだ。もっとも、はじめたばかりのころは、一日5時間演奏しても500円しか得られなかった。「このままではまずい」と、徐々に場所を変えていった。

ある日、チェコとの国境に近い小さな街で、印象深い出来事が起きた。

「いよいよ野宿に限界が来て、でもホテルの宿泊代が払えなくて、追い詰められた日でした。

ホテルの受付のおばさんに『路上ライブで稼いでくるから、明日まで支払いを待ってくれ』と頼んで、ギターを抱えて街の広場へ走りました。

外は小雨が降っていて、ほとんど人がいなくて、『終わったな』と思いました。それでも精いっぱい歌っていたら、夕方になって晴れ間が見えてきて、修学旅行生らしい少年がひとり、立ち止まってくれたんです。

そのころの僕は坊主頭で、グレーのパーカーを着て、日本語の歌を弾き語ってて、客観的に見てかなり異質だったと思います。修学旅行生の彼も、『なんか変な奴がいるな』って面白がってくれたんじゃないでしょうか。

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ともかく、僕が一曲歌い終えたとき、彼が投げ銭をしてくれたんです。日本円にするとだいたい2000円くらいのお札でした。ドイツに来てから、投げ銭でお札をもらったのは初めてでした。

僕は嬉しすぎて、変なリアクションしてしまって。相当、変な声も出ていたと思います。そんな僕の様子が面白かったのか、人が集まってきました。ハッピーな感じって伝染しますよね。

演奏を続けていくと、どんどん雰囲気が盛り上がって。最終的に、一週間分の宿泊代と飲食代を賄えるくらいの投げ銭をいただきました」。

まるで映画のワンシーンのような話だ。感心する編集部に対し、だいてぃーは、旅の成果を笑顔で総括した。

「海外で修業したかったのは、言葉を超えた感情の部分で人に伝える方法を学びたかったからなんです。だからあえて言語の通じない国へ行きました。狙い通り、『音楽の力』を表現する方法を身につけられたと思います」。

自己成長のため、新たな目標へ走り続ける!!

ドイツから帰国しただいてぃーは、次なる目標を『ワンマンライブの実施』に定めた。再び路上ライブで技量を磨き、ファンを集めると同時に、オリジナル曲を多数制作。19年6月29日、渋谷 under barにて敢行したワンマンライブは大成功を収めた。

「ワンマンは、自分にとって、大きな区切りになりましたね」。

音楽活動への意欲をさらに燃やした彼は、本格的なライブハウスへの出演を開始。渋谷サイクロン、四谷天窓、太陽と月あかりなどを拠点に、月3-4本のライブを行った。

「ラウドロックとかメタルのバンドがゴリゴリ出てるハコに、アコースティックで出るのがこだわりというか。自分にとっての挑戦でした」。

また、20年からは、SNSやYouTubeでの活動に力を入れ始めた。

「『そろそろYouTubeに動画を投稿しようかな』と思っていたところに、コロナウイルスの影響が広がり始めて。まあ、今かな、と」。

だいてぃーの座右の銘は『走りながら考える』。その言葉通り、最初に投稿した動画で『3月から5月の間に60本の動画を上げます。もしも達成できなかったら、音楽をやめて、地元に戻って就職活動をします』と宣言。思い立ったが吉日とばかり、動画投稿の日々をスタートさせた。

「自分にとって一番嫌なことを罰ゲームにして、背水の陣を敷きました。おかげさまで、目標を達成することができました」。

編者が「だいてぃーさんは、常に『自分を高めよう』という意識が高いんですね」と言うと、彼は首を振った。

「逆ですよ。自分はルーズで怠け者だから、そういうことを普段から考えていないと簡単に崩れちゃうんです」。

今後は『ギター弾き語り』にこだわらず、様々なアプローチをしていきたいと言う。「誰かとユニットを組んでみたいですね。そうしたら、また新しい可能性が生まれるかもしれない。僕はやっぱり、歌いたいんで。ボーカルとしての僕に魅力を感じてくれる方がいたらいいな」。

5年後、10年後の目標は?と訊ねたところ、「まずは今年です」という答えが返ってきた。

「今年、Zepp東京のステージに立ちたいです。こんな状況ではありますが、大きな目標は、口にすること自体に意味があると思ってます。Zeppに立つことで、『本気で音楽で飯を食っていく』って意思表示をしたいんです」。

編集部が彼を取材したのは、20年5月下旬、新型コロナウイルス感染症拡大問題によって音楽シーンが揺れるただなかであった。

不要不急の外出の自粛が求められ、アーティストの表現の場であるライブハウスも休業を余儀なくされるなか、ビデオ通話アプリを用いたオンライン取材で、彼は力強く夢を語った。

彼の夢が叶うことは、私たちの希望でもある。

だいてぃーの行く末に期待したい。

text:Tsubasa Suzuki edit:Momiji

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