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【東京大空襲体験話】父の体験と浮上したエネルギー

テレビの前が指定席の父。

「暗いニュースや番組は暗い!」


と言ってチャンネルを即変えていました。

ウクライナの悲惨なニュースは
チャンネルを変える事なく観ているので、私としては意外でした。

〜〜〜

独り言を言いながら観ています。

「ロシア変わらないな」

「悪い奴だ」

「侵略国家だからな」

「アイツら海が欲しいんだ」

「ウクライナがなに悪い事した?」

「日露戦争勝ってよかったよ」

「負けてたら北海道取られた」

「千島列島、樺太は取られた」



《浮上してしまった戦争のエネルギー》



ある日の朝、
遅くても9時には起きてくる父が昼過ぎまで起きてきませんでした。


その夜は、廊下を歩いてトイレに来る途中に倒れて
娘がトイレに連れて行ったそうです。


トイレでズボンも下げられず介護士の娘も心配する程でした。


翌日も起きられず、聞いても「大丈夫」としか言いません。


今回はこのまま逝っちゃうかもとふとよぎったくらいです。


やっとエネルギーを視てみると、
戦争のエネルギーが浮き上がっていました。

(家族はついつい後回しになってしまいます)


それを解放すると、翌日9時には起きてきました。


でもまだ本調子ではありません。


解放も続いていると思います。




そこで次は、現実的に思い出す事を促しました。

お年寄りは
昔のことを聞いてくれるとよく話してくれます(痴呆症予防にも良い)

父もそうでした。

話したくないと言いながらよく話してくれました。

戦争を語る人がだんだん少なくなり貴重な証言と思い、
父の頭が冴えているうちに聞いて、書いておこうと思いました。


《東京大空襲の話:父16歳》

砂町の軍事工場に動員されました。


大起特殊鋼材で、機関銃の弾丸になる弾を作る
2mの鉄の棒を作りながら学校にも通っていました。

敵国語といっても英語もしっかり習っていた。

17中学校ができます。


墨田川高校の校舎に居候していたが焼けたため、
日本橋の箱崎小学校が学童疎開でつかいました。

父親と2人で家を守っています。


そのため宿直を免れていましたが、
大空襲の夜宿直がたまたま留守で宿直を頼まれます。


《B25から逃げる父(1945年3月9日夜から翌10日)》


空襲警報で防空壕に避難するように言われました。


しかし、自分と他2人は屋上に登って
B 25が低空飛行しているのを見物していました。

連隊組んでサーチライトを照らして超低空飛行してきます。

弾倉がガーと開くのまでよく見えるほど
低空飛行して真上を通過します。

「おーっ!」

「すげーな すげーなー」

と、みんなで言います。

深川、本所の方面が火の海、隅田川の向こうも火の海、
水天宮は燃えません。

「すげー!!!」


と、言いながらそれを見ていました。

人形町から焼けてきて学校まで火が迫って来たので、
見ているどころではなくなり校舎の下に降りた。

すると講堂の壁まで火が上がってきていたので、
バケツに水を汲んで屋上から夢中になってかけた。

かけた水が窓ガラスに当たると、爆発してガラスが飛び散ります。

そうしていると人形町の方から
沢山の女達が大きな荷物を背負って子どもと学校に避難してきました。

火がおさまったので朝9時ごろ帰ります。

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運動靴の底が抜けて、ちんばの下駄を拾って履いて帰りました。


逃げるときに、下駄が脱げたのか下駄が沢山落ちていました。


人形町から深川を渡ると、
焼死体が真っ黒に焦げてゴロゴロ転がっています。


後で聞くと、明治座の地下は蒸し焼きで死体の山だったそう。

本所、吾妻橋は焼け野原、銀行のビルが残っているくらいです。

隅田川はドザエモンの山。

源森橋を渡った目の前の大野食堂が焼けていなかったので、
大丈夫かも知れないと希望を持ちました。

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家の角で親父が立って待っています。

家と倉庫は燃えている真っ最中でした。

家ニ軒建つ材木が燃えてしまったと親父が言いました。

「ちょうど自分の家で火は燃え止まり金庫だけが残っていた」


「でも、中は土地の権利書ばかりで金はなかった」

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自分は防空壕に入れました。


買ったばかりの新品の運動靴が無事かと気になっていましたが、
燃えて何も無くなりました。

一つ残った木材の倉庫に米が置いてありましたが、
あっという間にみんなが持っていった。

あの頃は、取った取られたとか言うような時代ではありませんでした。


可愛がっていた魚屋に夕飯をご馳走になって泊まらせて貰い、
翌日母親の実家の野田までいきます。

政府は、ドザエモンを片付ける余裕もなく
しばらくそのまま放置でした。


吾妻橋にずっと革ジャンを着た男が引っかかっています。

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柏高校に転校。


田舎で舐められないように柔道やったり、
鉄棒の車輪ブンブンやったりしていました。


柏高校の生徒は大人しかったです(笑)

その後、第二次学徒動員で湘南富岡のにっぺい産業と言う所で働きます。

丘の上にある寮に入って、
戦闘機の機関銃の先端の弾の出る穴を掘っていました。

《横浜の大空襲(1945年5月29日)》


横浜の大空襲は昼間、爆撃で東京より酷かったです。

この時も避難せず高台に登って見物していました。


操縦士の顔が見える程間近で見ました。

横浜市内は丸焼け。


見に行くとあちこちに死体が山積みになって、

臭くて臭くて・・・

5月だから腐敗は酷かったが、片付けられないで置いてあります。

電車は所々動いていて、
なんとか乗り継き歩き祖母のいる市川まで帰ります。


《東京は焼夷弾で横たわる死体》

隅田公園に埋めました。

池の手前の小高くなっている所。


2m位の穴を掘って何列かに埋めました。

トラックに積んできて、青い作業服の男たちがトラックからカリカリの焼死体を鉄のスコップで掻き出して穴に埋めているのを見ました。

その後掘り返して焼直し、
被服廠の慰霊堂に納めました。

ドザエモンで顔の分かる水死体は錦糸公園に並べています。


《戦争終結(1945年8月6日)》


友人から広島に特殊爆弾が落とされたと聞きます。

1945年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明されました。

数え年17歳


終戦が一年遅れたら兵隊に出されていたと話します。


家族はみな無事でした。


〜〜〜


その後、2回目は更に関連する想念体も解放し、
いつもの元気な父親に戻りました。

戦争のニュースに過度に反応してしまう場合は、
戦争の過去世が前面に出ているかも知れませんね。


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