「なぜ書かない」日銀総裁は不満だった(後編)

お待たせしました。先週公開した記事の完結編です。
時事通信社『金融財政ビジネス』2022年2月17日号に寄稿しました。(一部手直しした個所があります)。

「なせ書かない」総裁は不満だった
---日銀百年史とニクソン・ショック秘話(続き)

日本銀行百年史の編纂室長を務めた石川通達(いしかわ・みちさと)は、ニクソン・ショック発生直後の日銀の政策判断を確認するため、1971年8月16日午後に開かれた役員集会、通称マル卓を調べ直すことにした。

正副総裁と理事で構成されるマル卓は議事録を残さないため、当時の出席者から改めてヒヤリングを行ったのである。

石川が残した口述記録によると、当時国際担当理事だった井上四郎は聴き取りに対し、「(外国為替)市場閉鎖をするとこういう難しい問題が起きると詳しく説明したが、その場で反対論を述べた人はいなかった」と断言した。

井上はこのあとマル卓を中座して大蔵省との実務者協議に出向き、「自分の持論通りに市場は開き続けるべきであると述べた」とも証言している。

ニクソン・ショック当時、井上が外為市場の閉鎖に反対したのは、国内の大手銀行に「借り」があったからである。当時、大蔵省・日銀は見かけの外貨準備が増え過ぎないよう、外国為替銀行に対し、ドル為替の一部を円転させず、買い持ちするよう強力に指導していた。

海外からの円切り上げ圧力をしのぐためのいわば弥縫策だったが、これを放置したまま突然市場を閉めると、各行は手持ちの約9億㌦を売り戻せなくなり、巨額の損失に見舞われる。買い持ち解消の機会を与えぬまま市場を閉じることは信義則に反する、というのが井上の信念だった。

実際、井上が「市場は絶対に閉じない」と言い張っていたという証言は、日銀の複数のオーラルヒストリーに記されている。ある理事OBの証言では、当時、総務部の課長が市場閉鎖を進言しに外国局に行ったが、「さんざん叩かれて帰ってきた」「井上さんが一人で頑張った」という。

ところが、金融政策担当理事を務めていた渡辺孝友が石川に語ったマル卓の様子は、井上証言とは明らかに異なっていた。

「佐々木総裁は『こうなったら閉鎖するしか仕方ないなあ』とつぶやきながら自席についた。自分は閉鎖すべきだという意見を述べたが、井上君からは何の反論もなかった」

渡辺はそのうえで「翌朝井上君から電話があり、『(実務者協議で)閉鎖論を極力主張したが、市場は引き続き開けておくことになった』ということを申し訳ないというような口ぶりで話した」とも証言した。

これを裏打ちするかのように、「お慰めする会」のメモにも佐々木がこんな発言をしたとの記述があった。

「あの日、大蔵省との会議に出かけた井上君から(中略)夜の11時ごろに電話がかかってきて、残念ながら市場閉鎖ということにはなりませんでした、あしたも開き続けますという報告を受けた。そうか、それは非常に残念なことだけれども、しかしまあそう決まったんなら仕方ない、というふうに自分は思った」

井上は「反対論はなかった」と言ったが、渡辺と佐々木は「日銀が望まぬ形で方針が決まった」というニュアンスで話している。

双方の食い違いに困った石川は、当時総裁の前川春雄に相談した。後日、前川が井上と渡辺にこの話を持ち出したところ、二人の間で論争が始まり、いずれも自分の記憶が正しいと主張して譲らなかったという。

このため石川は、最後の手段として佐々木本人にぶつけることにした。「実は佐々木総裁と井上理事のお話が180度違うのです」と。

長い沈黙のあと、佐々木は「井上君がそう言うなら仕方ありません」と言い、こんな話を打ち明けた。

「欧州が市場閉鎖すればそれに倣うのは当然だろうと思っていた。しかしそれ以上にはこの問題について自分には確信がなかった。井上君から閉鎖すればこんな問題が起きますよと言われると、それに反論する自信がなかった。だから自分の意見を明確に述べることができず、なんだかモゴモゴとなってしまった」

その上で「総裁たる者は明確に部下に意思表示しなければならなかった。その点を今になって非常に反省している」と石川に述べたという。

井上は金解禁で知られる井上準之助元蔵相・総裁の子息であり、複数の証言では、こと外為問題に関する四郎の判断に佐々木は全幅の信頼を置いていた。前述の中川も自著には「正確なことは知らない」と書いたが、退任後のオーラルヒストリーではこんな総括をしている。

「佐々木さんの話だと、日本銀行は閉めろという説だったというんですが、しかし井上さんが大蔵省へ行って言ったのは『オープンしろ』という。総裁はあとでそう言ったけれども、井上さんがそういう風に言うのを黙認するというか、認めておったと思います」

一連の調査から石川は、マル卓の前に佐々木と井上の二者会談が行われ、「佐々木さんは井上君がそう言うなら仕方がないかなという気持ちになっていた」「事前説明した井上理事は、総裁が納得している様子だと受け止めた」との解釈に至る。

さすがに二者会談の中身までは確認できなかったが、いずれにしても井上に対する佐々木の指示が不明瞭だったため、てっきり了解が得られたと思った井上は、信念に基づき市場閉鎖に反対する意見を大蔵省に伝えた-。こう結論づけた石川は、百年史にこう記述することにした。

「短時間のうちに明確な方針を打ち出すに至らず、続いて大蔵省内で開かれた大蔵省・本行の合同会議では、本行側は市場閉鎖に伴う問題点を指摘し、市場閉鎖は適当でない旨の意見を表明した」(第6巻第6章)

重大な局面で日銀上層部には統一された意思がなく、理事の判断に基づき意見表明した、という石川なりの解釈がこの一文には凝縮されている。

もっとも、佐々木が語ったように、外為市場に関する権限は大蔵省が握っており、仮に日銀が閉鎖を唱えていても無駄だったとの冷めた意見は今なおある。ニクソン・ショック後の対処方針について、ある日銀OBは「柏木さんと井上さんの合作だった」と評している。

「なぜその通りに書かない」

このように民間との信義則を重んじた井上だったが、その後、変動相場制への移行が内定した八月下旬に主要七行を訪問していた事実が明るみに出て、「ドル買い持ちを早期解消するよう事前に示唆した」との疑いが持ち上がる。情報漏洩を疑われた井上は10月5日、参院決算委員会で参考人聴取される前代未聞の騒動に発展した。

大手銀行を特別扱いしたと批判する野党側の追及に対し、井上は①銀行を回ったのは、投機的なドル売りをしないよう説得するためである②私独自の判断で行ったが、変動相場制移行の情報漏れは絶対にない-などと疑惑を否定し、何とかこの場を乗り切った。

だが、この騒動をめぐっても、石川のメモにこんな記述がある。

「(現状のままでは)その銀行だけが為替差損を被る事態が生じ、場合によっては銀行首脳部の責任問題になるかもしれない。(中略)こちらからアドバイスした方が望ましいのではないかということが議論された結果、当該銀行にアドバイスすることが役員集会で決まり、総裁の指示で井上理事がその銀行に行った。もっとも、その銀行にだけ出向くと目立つので、ほかの銀行にも行った」

これが本当なら、井上の銀行歴訪は役員集会の決定に基づき、買い持ち解消を助言するために行われたものであり、井上は国会で事実と異なる説明を行ったことになる。

しかし、石川は部内での議論を踏まえ、この箇所を百年史には書かないことにした。取引先銀行との円滑な関係を維持するために「客観的に個別銀行に利益を与えるようなことをやるのは昔からいろいろ例があり、この部分だけをおかしいのではないかと取り上げるのはバランスを欠く」と判断したからだ。

その代わり、国会でのやり取りを脚注に全文引用し、「異例の取り扱い」であることを読者に汲み取ってもらおうと考えたという。

この編集方針を聞かされた前川は「きみ、なぜそれはその通りに書かないのだ」と問いただしたという。石川の説明を聞き、最後は「ああ、そうか」と矛を収めたが、「前川さんの顔つきからすると非常に不満のようだった」とメモには記されている。

ニクソン・ショック当時の政策判断は、今なお「失敗の象徴」として日銀内で語り継がれている。だが、当時外国局総務課長だった緒方四十郎(のち理事)のオーラルヒストリーによると、佐々木は総裁在任中、しばしば自問自答するようにこんな言葉をつぶやいていたという。

「いったい、日本円の対外価値が高くなって中央銀行が損したことを咎められるべきなのか、それとも日本円の購買力が強くなったことを多とすべきなのか」

その後、日本を長く揺さぶった「円高恐怖論」や「政策コスト」の評価にも通じる深い問いかけである。(了)


ニクソン・ショック当時の政府•日銀の混乱は、図らずも「過剰流動性」をもたらし、その後、日本列島改造ブームに伴う財政支出の膨張と金融引き締めの遅延、そして第一次石油ショックも重なって、未曽有の大インフレを招きました。いわゆる「狂乱物価」です。
今回の記事は、その起点となった部分に焦点を当てたものですが、ニクソン・ショック発生時だけでなく狂乱物価に至るまでの「戦後最大の経済失政」に興味のある方は、ぜひ拙著「ドキュメント通貨失政」(岩波書店、2022年)をご一読ください。

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それではまた機会を見て投稿します。読んで頂き、ありがとうございました。


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