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怪談師には憑いている(第四章)

 

第四章 怪談はついてくる


「ぼくはこの町でとあるイベントがあって招待されたんですよ。お二人は取材で?」
「え、ええ。オカルト記事の取材で、民俗学について色々調べてるんです」
 今度はわたしが硬直してしまったので、横から先輩が助け船を出した。
「そうなんですね! この町にも色んな伝承がありますから面白いですよ。よければご案内しましょうか? 興味深いものが見られると思いますよ」
 朽木の件があったからだろうか。
 整った顔に浮かぶ爽やかな笑みは数日前と変わらないのに、どこか剣呑なものに見えてしまう。
 わたしは先輩ほど器用じゃない。
 どちらかというと思っていることが全部顔に出てしまうタイプだ。
 それを知っている先輩が、わたしをかばうようにしゃべり続ける。
「蓮見さんもお忙しいでしょう。そんなご面倒をお掛けするわけには――」
「イベントは夜からなので、まだまだ時間があるんです。暇していたので、お付き合いいただけたら嬉しいな」
 王子はどうあっても譲るつもりはなさそうだ。
 ここで押し問答をしていても埒が明かないだろう。
 確認のつもりで先輩にアイコンタクトを取ると、先輩もこちらの意図がわかったようでうなずいた。
「――じゃあ、せっかくなのでお言葉に甘えようかな」
「よかった。お二人と過ごせるなんて嬉しいな。ぼくはついてますね」
 蓮見さんは言葉通り嬉しそうに目を細めた。
 
 レンタカーを降りたわたしたちが向かった先に停まっていたのは、黒いクラウンだった。
「この資料館の館長さんがイベントの主催者の一人なんです。ご挨拶に伺っていたところだったんですよ」
 どうやらこの車は主催者団体が用意したものらしい。
 王子クラスになれば、送迎にも高級車を用意してもらえるようだ。
 わたしたちはといえば、安レンタカーとは比較にならない座り心地のシートに背中を預けて、車窓を流れてゆく景色に心もとない視線を送るしかない。
「その、イベントってどんなものなんですか? やっぱり怪談ライブとか? 他にも怪談師の方が来てるんですか?」
 間を持たせようと先輩が口を開く。
 助手席の蓮見さんがシート越しにふりむいた。
「いえ、ライブではありません。そうですね……この地方のお祭りみたいなものですよ」
「へえ、夏祭りですか」
「そのようなものですね」
 蓮見さんは曖昧な言い方をして、体を戻した。
 窓の外を流れる景色は、いつの間にか田園地帯から山道へと変わっていた。
 対向車が来たらすれ違えないのではと思えるような細い道を、クラウンはまっすぐに進んでいく。
 道の谷側にはガードレールすらなく、もし少しでもハンドル操作を誤ったなら、車ごと谷底にまっさかさまだろう。
 資料館にいたときよりも雲の厚さが増してきているようだ。
山道を十五分ほども走ると、アスファルトから砂利道へと変わり、さらには砂利すら敷かれていない赤土が剝き出しの路面となった。
 やがてクラウンの行く手に見えてきたのは、温泉旅館かと見まがうような豪邸だった。部屋数は二十……いや、三十はあるかもしれない。
 ここがどうやら旅館ではなく個人の邸宅らしいと理解したのは、クラウンが速度を落として門扉を通過する際、表札が目に入ったからだ。
 背後を山の斜面に抱かれた屋敷の玄関先に車は横づけする。
「お帰りなさいませ、才人さま」
 ずらりと玄関先に並んで出迎えたのは、揃いの桜色の和服に白い前掛け姿の女性たちだった。
 異様なのは、彼女たち全員が蓮の花にイタチのような生き物が描かれた白い布を額から垂らして、顔を隠していることだった。
「……先輩」
「ああ」
 そっとささやくと、先輩がうなずく。
 あの蓮の花とイタチのような生き物――おそらく飯綱だ――は、『いずなの使徒』のシンボルだ。
 王子は女性たちへにこにこと笑いかける。
「ただいま。大切なお客さまをお連れしたんだ。広間にお茶の支度を追加でお願いしてもいいかな」
「かしこまりました」
 女性たちは深々と頭を垂れると、屋敷の中へと消えていく。
 その背中をぼんやり見送っていたわたしは、抑えきれずに口にしていた。
「……ここって、蓮見さんのご実家なんですか?」
「そうですよ。驚きました?」
「ええ……かなり」
「でしたらドッキリ大成功ってことですね」
 ふふ、と茶目っ気たっぷりに蓮見さんは笑った。
 

 わたしたちを先導するのは、髪を結い上げて蓮の花の簪でとめた、桜色の和服の女性だった。わたしと先輩は無言のまま、顔が映りそうなほどに磨き抜かれた板張りの廊下を進む。
 ほどなくして、女性はとある襖の前で膝をつき、頭を下げた。
「こちらへどうぞ。みなさまお待ちかねです」
 その声にどことなく聞き覚えがあるような気がした。
 けれど、こんなところで会うような人に心当たりはないし、考えごとをしている場合じゃない。
 軽く頭を振って、雑念を振り払った。
 通されたのは、廊下の突き当りにある部屋だった。
 わたしたちは顔を見合わせた。
 むろん、どっちが先に踏みこむかの駆け引きだ。
「ぼくは後から行きますから、先にお茶でも飲んでてください」
 ここへ勝手に連れてきた張本人はそう言うなり、わたしたちを置いてさっさとどこかに姿をくらませてしまっていた。
 ――先輩、お先にどうぞ。
 ――いやいや、そっちこそどうぞ。
 声にならないそんなやり取りの末に、観念したのはわたしだった。
 仕方がない。
「失礼、いたします……」
 ひそめた声で言いながら、敷居をまたいだ。
 ざあっ――と、広間に集まっていた人々の視線が一気に注がれる。
 広間にはキングサイズのベッドほどもありそうな座卓が置かれ、客人の数だけ茶器が並べられていた。
 茶碗の中身の減り具合からして、相当待たされていた様子がうかがえる。
 座卓を取り囲むように座っている客人たちの中でも目を引いたのは、若い女性が多いということだった。
 十代から二十代後半といったところだろうか。
 色とりどりの振袖やワンピースを身にまとった彼女たちは、ヘアにもメイクにも気合が入っているのがありありと伝わってくる。
 彼女たちの隣には中年の男女が寄り添っているが、おそらく両親か身内だろう。
 そんな親子が見たところ五組以上、そろいもそろってピリピリした空気をまとっている。
(これは……いったい、何?)
 頭の中で、本能的な何かが警鐘を鳴らしている。
 蓮見さんはお祭りみたいなものだって言うから、もっと牧歌的な村の夏祭りみたいなものかと思いこんでいた。
 なのにこれはいったい、何だっていうんだろう。
 オーディション前の控室といったところだろうか。
 いや、むしろこの雰囲気はまるで――
そこに普段着の二人組が乗りこんできたのだから、場違いにもほどがある。
 わたしの後に続いて入ってきた先輩も、磔にされたように固まっている。
「柳瀬さま、お連れさまもどうぞ、こちらにお座りくださいませ」
 客人たちの刺すような視線を浴びているわたしたちに、桜色の和服の女性が座布団を勧めてくる。
「……」
「……」
 あちらこちらで、ひそひそとささやき合う声がする。
 鈍感なわたしでもわかった。
 彼女たちの視線は先輩をスルーして、わたしだけに注がれている。
 どうやらわたしは、値踏みされているようだ。
 おまけに相当の安値がつけられたらしく、ささやきの多くが嘲笑に変わっていくのがわかった。
 ――何あれ。貧乏くさい女。
 ――どうしてここに来たのかしら。何かの手違い?
 ――そんなわけないでしょ。ここはご招待されないと来られないはずよ。
 ――それにしても見てよあれ、全身安物じゃない?
 くすくす。くすくす。
 カッと頬が熱くなるのがわかる。
 帰りたい。できることなら今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたい。
 そうだ、今だったらまだ、帰っても許されるだろうか。
 きっとそうだ、そうしよう。
 わたしの頭の中は、ここから逃げ出すことでいっぱいになっていた。
「あ、あの――」
「お待たせしました」
 そこへスッと襖が開いて、入ってきたのは王子だった。
 それと、もう一人。
(あっ)
 床につきそうなほど丈の長い黒のワンピース姿で現れた赤い唇の女性に、わたしの目は釘付けになる。
 それは新興宗教『いずなの使徒』の代表――瑜伽(よぎ)だった。
 瑜伽と王子は上座にあたる席に、並んで座る。
「……おい、柳瀬」
 棒のように突っ立ったままのわたしのTシャツの裾を、先に席についていた先輩がそっと引く。
「いいから、とにかく座れ」
 わたしは緩慢にうなずいて、先輩の言葉に従った。
「みなさま、お忙しい中にもかかわらず、本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます」
 瑜伽がよく響く声で述べると、一同は一斉に頭を垂れた。
「遠方からいらしてお疲れのことと思います。祭りは深夜0時からとなりますので、それまでどうぞごゆっくりご自由におくつろぎくださいませ」
 どういうこと? そんなの聞いてない。
 思わず王子を見つめてしまう。
 するとわたしの視線に気づいたのか、王子はわたしのほうを向いてにっこりと笑った。
「もう少ししたら、昼食を運ばせます。ぼくと母は明日の準備がありますのでこれにて失礼いたしますが、どうぞお許しください」
 王子が言うと、瑜伽は一礼してするりと立ち上がる。
パンフレットで見たときにも六十代とは思えなかったけれど、こうして間近で見ると、二十代と言われても信じてしまいそうな美しさだ。
 瑜伽と入れ替わるようにして、桜色の和服の女性たちが豪華な料理が乗せられた御膳を運び入れてくる。
 東京を発つ前に軽い食事を摂ったきりだったから、空腹ではあったけど、とても食事など喉を通りそうにない。
 王子が席を立って部屋の外へと出たタイミングを見計らって、わたしは後を追っていた。 
「待ってよ! これ、どういうことなの?」
 王子は少し先で立ち止まって待っていた。
「どうしました? 和食はお気に召しませんか」
「はぐらかさないで!」
 思った以上に大きな声が出てしまったけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。
「あれ、何なの? あれじゃまるで――」
「まるで?」
 意地悪くはぐらかすように微笑まれて、カッと頭に血が上った。
「とぼけないで。どういうつもり? わたしたちを騙したの? 何が目的?」
「とぼけても、騙していませんよ」
 王子がゆっくりと近づいてくる。
 長くて細い指が伸ばされて、わたしの手に触れる。
 びくっとして手を引こうとしたが、思いのほか強い力で握りしめられた。
 そのままぐいと引かれて引き寄せられる。 
「ちょ――」
 かっと頬から耳たぶまでが熱くなるのがわかった。
「や、やめてください」
 距離を取ろうと、その胸を押しやろうとする。
でも、細身の見た目なのにびくともしない。
「こんなことに巻きこんで、すみません」
 吐息が耳元にかかる。
 ほとんどささやくような声で、彼は告げた。
「どういう……ことですか」
「今はまだ、お話できないのです。祭りに障りがあるので」
 王子は目線だけで、さっと周囲を見回す。
 つられてふりかえると、扉の向こうからこちらの様子をうかがっていたであろう顔が、さっと引っこむのが見えた。
 短い間のことだったので、誰だったのかまでは見えなかったけれど。
「……わけは必ずお話します。夜に部屋へ行きますから、待っていてください。それまではみなさんに適当に合わせてやり過ごしてください」
 わたしの答えも待たずにそれだけを告げると、蓮見さんの手がするりと離れていく。
 あっという間に角を曲がって廊下の向こうへと消える黒スーツの後姿を、わたしは黙って見送るしかなかった。

「何か話せたのか」
 どんよりと重い顔で席に戻ってきたわたしに、先輩が目を向ける。
 既に膳の中身はあらかたなくなっていた。
 まったくこんなときに図太いというか、ちゃっかりしているというか。
「これ結構うまかったぜ。おまえも食べろよ」
「あんまり食欲ないんだけど」
「これから何が起こるかわからねえんだ。食えるときに食っておかねえともたねえぜ。おれはもう腹をくくった」
 わたしも箸を取る。
 広間はまるで通夜のような雰囲気だ。
 針の筵のような視線を感じたまま、食べた料理は味がしなかった。

     *

 わたしと先輩に与えられた部屋は別々だった。
 あの広間にいた人たちに、わたしと先輩がどんな関係と思われているかはわからないけど、親族と思われて同室にされたらいたたまれなかった。
 わたしが通された部屋は、建物の外見どおり、和風旅館の一室のような空間だった。
 ドアを開けるとすぐに板張りの三和土があり、靴を脱いで上がるとすぐ八畳ほどの和室が続く。
 和室の奥のガラス窓の向こうは、いつの間にかザアザア降りだった。
 木製の窓枠は滑りが悪く、かなり力をこめて引いてやっとガラガラと大きな音を立てて開いた。
 濡れない程度に身を乗り出して、外の様子を眺めてみる。
 わたしに与えられた部屋は、二階の山側のようだ。
 屋敷に沿うように続く斜面のせいで、眺望はないに等しい。
 激しい雨粒が、斜面を覆った木々の葉を叩いている。
 いつの間にか、ヒグラシは森の奥へと姿を消したようだ。
 室内には、個別のバスルームとトイレが備え付けられているのはありがたかった。
 座卓の上には、急須に煎茶、茶菓子が用意されている。
 食事がろくに摂れなかったので、茶菓子に手を出そうかと思って、やめた。どうも、素直に口にする気分になれない。
 仕方がないので、バッグから水筒を取り出して、中の麦茶を一口飲むと、ほうと息が漏れる。少しだけ気分が落ち着いた。常にペットボトルか水筒を入れておく癖が役立った。
 スマホを確認してみる。ギリギリアンテナが一本立ってはいるが、心もとない。
 試しにブラウザアプリを立ち上げてみたけど、画面が表示されるまでがいちいち重くて、使いものにならない。
 さっきの話だと、少なくとも今日いっぱいは解放してもらえそうにない。
こうなったら、意識を切り替えて取材のつもりで臨むしかないだろう。
 そうと決まれば、先輩と作戦会議をしなきゃ。
 ICレコーダーを持ってきたらよかったな。
 そんなことを考えながら、スマホ以外の荷物を残して部屋の外に出た。
 幸い、廊下は人通りがない。
 ――コンコン。
 できるだけ響かないように注意しつつ、隣の部屋のドアをノックした。
「柳瀬です。入ってもいいですか」
 ――コンコン。
「先輩? 寝ちゃいました?」
 ノブに手をかけて、そっと引いてみる。
 施錠はされていなかったようで、キイイと軋む音をさせながら、簡単に手前に開いた。
「先輩、入りますよ……?」
 宣言しながら足音を忍ばせて、室内に体を滑りこませた。
 後ろ手にドアを閉めて、三和土を乗り越えて和室へ。
 室内は水を打ったように静まりかえっていた。
 部屋の造りは、壁を挟んでわたしの部屋と左右対称のようだ。
 座椅子の横に、先輩のバッグが無造作に転がっている。
 座卓には食べかけの茶菓子が残されていた。
「先輩? どこですか?」
 トイレだろうか。それともシャワー?
 しかし、浴室にもトイレにも先輩の姿はない。
 和室へ引き返し、悪いとは思ったけれどバッグの中身を拝見する。
 財布や家の鍵、スマホにGoPro――貴重品はそのまま残されていた。
 わたしとほぼ同じタイミングで部屋に入ったのだから、ものの数分くらいしか経っていないはず。
 しかも少なくともわたしが向こうの部屋にいる間に、こちらの部屋のドアや窓が開閉した音はしなかった。
「先輩? どこにいるんですか?」
 それ以来、先輩はわたしの前からこつぜんと姿を消してしまったのだった。
 

     *

 いったい先輩はどこに行ってしまったんだろう。
 風呂もトイレも各部屋に備え付けられてあるのだから、少なくともこれらが要因で部屋を出たわけではない。
 ドアの開閉やノックの音も会話も聞こえなかったら、誰かが訪ねてきて出かけたとは考えにくい。
 窓も木枠で開け閉めするには大きな音がする。加えてここは二階でベランダもない。ゆえに窓から出た線も消える。
 それに、先輩の性格上、もし部屋を出て屋内探検なり何なりに行こうとするなら、絶対にわたしに声を掛けるはずだ。黙って一人で行くなんてありえない。
 完全なる八方ふさがりだった。
 こうして激しい雨音を聞きながら畳の上に転がっていても、ただ時間が過ぎていくだけだ。
 自室でじっと寝転がっているばかりでは、気持ちがマイナス方向に傾きそうになる。
「よし!」
 勢いをつけて跳ね起きると、わたしは館内を歩いてみることにした。
 蓮見さんはご自由にお過ごしくださいと言っていたのだし、うろちょろしても文句は言われないだろう。
 ライター根性のようなものがむくむくと沸いてきた。 
 瑜伽と蓮見さんが揃っている以上、明日の夜にある祭りというのは、蓮見家の伝統行事のようなものなのだろうか。
 いや、それにしては広間に集合した客たちの様子がものものしかった。
 さすがにあの場で口にするのは憚られたが、あれではまるで――お見合いの待合室のようだ。
 あの場にいたのは女性ばかりで、かんじんの男性の姿がなかったのは、これからやって来るのか。それとも……?
「よお、ちょっといいかい?」
 考えごとをしながら廊下をさすらっていたわたしは、男性の声で足を止めた。
 腕組みをして、壁に寄り掛かっているのは知らない顔だった。
年齢は先輩と同じくらい――三十代前半に見える。
「……どちらさまですか」
「おれは蓮見宗也(そうや)。才人の従兄だよ」
 蓮見――すると、あそこに集まっていた人たちは少なくとも蓮見一族なのか。『いずなの使徒』の信徒かと思っていたけど、そういうわけじゃないのかな。
 そんなことを思っていると、宗也は距離を詰めてくる。
「あんた、才人がわざわざ連れてきたんだって?」
 わたしの顔の横に手をついて、無遠慮に顔を覗きこんできた。
 煙草臭い息が気持ち悪い。
「蓮見さんに誘われたのはわたしだけじゃないですよ」
「へえ、あの話ってマジだったんだ。あいつがこんなことするなんて、意外だな」
 ひゅうと口笛を吹くと、宗也はわたしの全身をじろじろと眺めた。
「あの、さっきから仰っている意味がわからないんですが、用事がないならもう行ってもいいですか。連れを探しているので」
「連れ? ああ、さっき一緒にいたおっさんのことか。何? あんたあいつのこれなの?」
 宗也はにやついた顔で、小指を立ててみせる。
 とことん人の神経を逆なでする性格だ。
「違いますよ、仕事仲間です」
「だよなあ、もし男がいるんなら、こんなところまでのこのこ来ないよな」
 わたしは遠慮なく顔をしかめた。
「さっきから、仰っている意味がわからないのですが……」
「何あんた、もしかして才人のやつから何も聞かされてないの?」
「だからいったい、何のことですか? わたしたちはただ、蓮見さんからここで祭りがあるからって誘われただけで――」
「ふうん、なるほどね」
 いったい何がなるほどなのか。
 頭のてっぺんからつま先まで舐めるように粘着質な彼の視線に、ぞわっと鳥肌が立つ。
「あいつも意外と奥手だったってことかな」
 奥手? いったい何のことだ。
もう埒が明かない。
 わたしは彼を無視して立ち去ろうとした。
「話が無いなら、わたしはこれで」
「おっと、待てよ」
 宗也の右手が肩にかかる。力任せに体の向きを変えられ、そのまま壁に背中を押しつけられた。
「ちょっと、痛いです。離してください」
「ふうん、才人のやつの好みはこんな感じかあ」
「はあ?」
「最初見たときは地味な芋女だと思ったけど、近くでじっくり見たらそうでもないじゃん」
 ぬるい息が頬に当たってぞわっと鳥肌が立った。
 反射的に肩をすくめるわたしに、宗也は目を細める。
「だけどさ、あんたには勝ち目ないよ。いくら才人が推してもさ、ここには蓮見家の身内や教団の信徒から選りすぐった女が集まってるんだから、あんたは出る幕無しってわけ」
 勝ち目って何だ。別にわたしは何の勝負するつもりもないんだけど。
「だからさあ、ちょっとおれの相手してくれない? 一人寂しく暇してたんだよね」
「は?」
 苛立ちが頂点に達して、語気が荒くなる。
 けれど宗也はまったくお構いなしに、顔を近づけてきた。
 身を捩って逃げようとしたけど、肩を押さえつけられているから動けない。
「才人にはもう味見させたんだろ? おれにもちょっとくらいおこぼれをくれたっていいじゃんか、って言ってんの」
「やめてください!」
 ドン、とこぶしで胸を打った。
 さすがに痛かったのか、宗也は顔をしかめる。
 空いていた左手でぐわっと顎を掴まれた。
 力任せに上向きにされる。
「何、おまえ荒っぽくされんのが好きなわけ? いいぜ」
「ちが、やだ!」
「暴れんなって。その年で処女ってわけでもないんだろ? なあ、おれの部屋に行こうぜ」
 恐怖と嫌悪感で涙がにじんでくる。
助けを呼びたいのに、体が震えて声が出せない。
 今日は本当についてない。どうしてこんな目に遭わないといけないのか。
「ちょっと、何やってるの!」
「ちっ」
 非難めいた女性の声に、宗也は舌打ちをした。
 不快な体温が離れていって、ようやく息ができる心地がした。
「あなた、自分が何をやっていたかわかっているんでしょうね」
 助けてくれたのは、藤色の振袖を身に纏った女性だった。
 わたしを庇うように宗也との間に入ってくれた際、長く艶やかな黒髪からふわりと花のような香りがした。
「この程度で、そうぎゃあぎゃあ騒がなくなっていいだろう?」
「どうかしら? もし才人さんがこのことを知ったら、さぞかし怒るでしょうね」
「な、何だよ梓、あいつにチクる気か? 点数稼ぎのつもりかよ」
 梓というのが彼女の名前らしい。
「私はあなたたち兄妹と違うから、そんなことはしないわよ」
「はっ、おきれいなことで」
 吐き捨てるように言うと、宗也は踵を返して去っていった。
 彼女も気を張っていたのか、ふうと小さく息を吐いてからふりむく。
「大丈夫だった?」
「は、はい……ありがとうございます」
 そのときに初めてわたしは彼女の顔をまともに見た。
 年齢はわたしと同じくらいか、もしかしたら何歳か上もしれない。
 背中の半分ほどまで伸ばされた黒髪に、華奢な肩、ほっそりとした腰。
 目元にどことなく、怪談王子の面影があった。
 おそらく彼女も蓮見一族なのだろう。
「宗也さんはいつまで経ってもいい加減で困るわね。これじゃ妹の華穂(かほ)さんだって不利になりかねないのに、わかっていないのかしら」
「あの……ここって、いったい何なんですか」
 やっと会えたまともに話ができそうな人に会えた。
 わたしは意を決して尋ねていた。
 直球で質問したら気分を害されるかもしれないが、ここまで来たら失うものなど何もない。
「みなさん、親戚ですか? それとも、『いずなの使徒』の信者さんなんですか?」
 すると梓さんは、黒目がちの大きな目をぱちぱちと数度、瞬いた。
 長い睫毛がぱさぱさと音を立てそうだ。
「あなた、本当に何も才人さんから聞いてないの?」
「はい。おう――蓮見さんからは、一緒に来れば民俗学的に興味深い祭りが見られるよって言われただけなんです。わたしたちは東京でフリーライターをしている者で、蓮見さんとは仕事で知り合いました」
 梓さんは眉を寄せ、頬に手を当ててため息をつく。
 白く細い指は手入れが行き届いていて、着物と色味を合わせたネイルが美しかった。
「呆れた。あの人、いったいどういうつもりなのかしら」
「あの……お祭りっていったい何なんですか? みなさんは何のために集まっているんですか?」
「ごめんなさい。才人さんがお話していないのなら、それは私からは言えないわ」
 項垂れて申し訳なさそうに言われてしまって、こちらが焦る。
「気にしないでください。悪いのは彼なんですから」
「でも才人さんのことだから、きっと何かお考えがあるのでしょう」
「……そう、なんでしょうかね」
 梓さんには悪いけど、今のわたしは王子を信用できる気分じゃなかった。
 怪談蒐集に同行していたあのときに戻りたい。
 あの頃は彼と行動して見聞きするものすべてが新鮮だったし、やさしい王子の隣で優越感に近いものを感じていられた。
 もし過去に戻れるなら、あのときのぼんやりしたわたしを引っ叩いてやりたい。
 ――ぽやぽやしてないで、しっかり目をかっぴらいて観察しなさい。あんたはかなり多くのことを見逃してるに違いないんだから。
「こんなところで立ち話もなんですから、私の部屋へいらっしゃる?」
 私は梓さんの言葉に甘えて、お邪魔することにした。
 まだ完全に彼女を信用したわけでもないけれど、虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。
「そうだ、まだわたし名乗っていませんでしたね。柳瀬恵といいます。ここには蓮見才人さんに誘われて、ライター仲間の七種とともに来ました」
「私は蓮見梓。才人さんは私の腹違いの弟なの」
 梓さんはティーバッグで淹れた紅茶を差し出してくれた。
 ありがたくいただきながら、失礼にならない程度に顔を観察する。
 どうりで最初、雰囲気が似ていると思ったわけだ。
 しかもわたしは迂闊にも、そのときになってはじめて気がついた。
 襟元に見覚えのあるバッジ。蓮の花にイタチのような動物――おそらくイズナだろう――があしらわれたデザインだ。
 梓さんもわたしの視線の行方に気づいたのだろう。小さくうなずく。
「ええ、そうよ。私は『いずなの使徒』の信徒です」
 思い出してみれば、宗也も胸にバッジをつけていたような気がする。
 もっと早くに気づけばよかった。
「あの……『いずなの使徒』と蓮見さんのおうちって、どんな関係なんですか」
 また断られることを覚悟でまた質問をぶつけてみる。
 けれど、今度はそうではなかった。
 慎重に言葉を選んでいるのか。細い指先をつややかな唇に当ててわずかに考えるような仕草をした後、梓さんは口を開く。
「『いずなの使徒』と私たち蓮見家の女は、切っても切れない関係なんですよ」
「それは、どういうことですか?」
「それはもうすぐわかりますよ、恵さん」
「梓さ――」
 ふいに目眩にも似た、猛烈な眠気に襲われる。
 見えない手のような存在が、強制的に瞼を下ろしていくような感覚。
 危険を感じて立ち上がろうとしたけど、足がもつれてできなかった。
 倒れこんだ際に手がカップに当たる。
 滴り落ちた紅茶が、じわじわと畳にしみこんでいくのを視界の端に映しながら、わたしの意識は暗闇の中へと沈んでいった。




     *


 ――キキッ。
 ――キキキッ。
 動物の鳴き声が聞こえる。ネズミだろうか。
ぼんやりと霞がかかったような頭で考える。
 錘でもぶら下がっているかのように、瞼が重い。
 ――キキッ。
 ひたり、と小さい何かが頬に触れる。
 それは一つではなかった。
 二つ、三つ、四つと集まってくる。
 まるで寄ってたかって「起きなさい」と言われていような気がして、ともすれば閉じそうになる瞼を必死にこじ開けた。
 まだ霞む視界の端を、しゅるりと白くて長い体が通り過ぎていったように見えた。
「何……?」
 いきなり体を起こしたせいか、こめかみにズキリと鈍い痛みが走った。
 床に顔をつけて横たわっていたようで、頬の片側だけが冷えている。
 あれだけ激しかった雨の音が聞こえない。
 雨が止んだのか、それとも雨音が届かないような環境なのだろうか。
 わたしはいったいどれだけこうしていたのだろう。
 首を巡らせて周囲を見回す。
 橙色の光を放つ裸電球だけがぼんやりと室内を照らしていた。
 黴と埃の混じったような匂いが充満している。あまり人が踏み入らない地下室か倉庫のような場所なのかもしれない。
 どうしてこんなところに……?
 わたし、意識を失う前は何してたんだっけ?
 たしか、先輩を探しに部屋を出て、宗也とかいう男に襲われそうになって、梓さんに助けられて、お茶をご馳走になって――
まさか。
 頭に浮かんだ可能性を、すぐには認めたくなかった。
 でもそれしかない。あのとき飲まされたお茶に、何か薬が入っていた? 
 梓さんがわたしをこんなところに閉じこめたの?
 ギシッ。
 板を踏みしめる音に、息をのんだ。
 ギイイィ……。
 耳ざわりな軋む音をさせながら、板階段を下りてきたのは二人だった。
 うち一人は、顔を『いずなの使徒』の布で覆い隠した和服の女性。長い髪を結い上げて蓮の花を模したかんざしでとめており、白い布のかけられた盆を持っている。
 もう一人は、大胆に体のシルエットを強調するデザインのワンピースを身につけた女性だった。
 オレンジ色の灯りの下では詳細な色は判別できないが、あの広間にいた女性たちのうちの一人だったと思う。うっすらと見覚えがあった。
「あら起きてたの。もう一、二時間くらいは起きないかと思ってたのに」
 ワンピースの女性が指示すると、和服の女性は布のかかった盆を床に座るわたしの前に置いた。
「水と食べ物よ。あんたは夜が明けるまでここでじっとしてて。梓姉さまの命令よ」
「……は? どうしてわたしがそんな命令をされなきゃならないんですか」
 すると彼女は品のない笑いを浮かべて鼻を鳴らした。
「察しが悪い女ね。あんたはお呼びじゃないって言ってんの」
 お呼びじゃない。またそれか。
 わたしだって好きでこんな目に遭ってるわけじゃないんだけれど。
「……華穂さま」
 思わずといった様子で口ごたえしそうになった和服女性を、ワンピース女はきつく睨む。
「あなたは黙ってなさい。身の程をわきまえなさいな」
 思わずため息が漏れる。
 それが彼女の気に障ったようだった。
「拉致に監禁。こんなの犯罪よ」
「犯罪ですって?」
 きゃはは、と甲高い声で華穂は笑った。
「やだ、おかしい。あんた、まだ自分の置かれた状況をわかってないのね」
「こんなこと、蓮見さんが知ったらどう思うかしらね」
 ちょっと揺さぶりをかけるつもりで発した一言が、よくなかったようだ。
 彼女が大きく手を振り上げたと思った次の瞬間には、頭を揺さぶるような衝撃がきた。
「才人さんに気に入られてるからって、いずなさまに選ばれるなんて思わないでよね」
 力任せに頬を打った手が痛むのか、片方の手で擦りながら華穂はいまいましげに吐き捨てる。
「……いずな、さま?」
 打たれた頬がじんじんと痺れるように痛い。
 口の中にわずかな鉄の味が広がった。どこか切ったのかもしれない。
「そんなことも知らないでここに来たの? いずなさまの嫁に選ばれば、才人さまも蓮見家の資産も、『いずなの使徒』の権力と金もすべてが手に入るのよ」
「いずなさまの嫁? 蓮見さんのではなく?」
 どういうことだろう。
 てっきり、跡継ぎである蓮見才人の伴侶を決めるイベントだと思っていたのに、もしかしてわたしは最初から勘違いをしていたのだろうか。
 王子は揃えられた顔ぶれから選ぶのが嫌で、たまたま居合わせたわたしをフェイクで選ぼうと思って巻きこんだのかと思っていたのに。
「いやだ。本当に何も知らないのね。才人さんはどうしてこんな底辺で無知の人間を連れてきたのかしら」
 底辺かつ無知ですみませんね。どうせその日暮らしのしがないフリーランスですよ。
 でも彼女は宗也や梓さんに比べるとだいぶ口が滑りやすいらしい。
 わたしはキレそうになる自分を抑えるべく、呼吸を整えた。
「もしかして、七種先輩も同じように監禁したの?」
「七種? ああ、あんたの連れの低レベルの男のこと?」
 心の中だけで先輩に同情する。
「あの男も、今頃はいい夢でも見てるわよ」
 先輩の部屋の座卓に残された、食べかけの茶菓子。
 先輩の部屋に用意されていた菓子や茶に、薬が仕込まれていたのかもしれない。
 あるいは、わたしと先輩の部屋両方がそうだったのかも。
それを食べた先輩は眠りこけて、何らかの手段で移動させられた?
 いっぽう、わたしはたまたま茶にも菓子にも手をつけなかった。だから焦った梓さんは、わたしを追いかけてきた――
 そう推理するのが一番しっくりくる。
「そうか。きっとこの屋敷は各部屋に隠し通路でもあるのね。だから薬で眠りこんだ先輩の体を、あんな短時間で隠すことができたんだ」
 ジジ、ジジジ……。
 電球が虫の鳴き声のような音を出し始める。
「ねえ、さっきから言っている『いずなさま』って、憑きものの飯綱のこと? 蓮見家は『憑きもの筋』なんでしょ?」
「なっ……」
 それまで余裕めいていた華穂の顔が、みるみる青ざめた。
「あんた、よりによって何てこと言うのよ!」
「だって本当のことなんでしょ? じゃなかったらそんなに動揺しないわよね」
「このっ、あばずれが――」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわよ」
 わたしはニヤリと笑った。
 これまで見てきたピースが、パチンパチンと音を立てて頭の中でつながっていく気がした。
「瑜伽は予言ができるってふれこみで支持と金を集めているのよね。でもそれは、蓮見家の嫁に憑いている飯綱の力を借りてるだけなんじゃないの?」
 ジジ、ジジジッ……。
「蓮見一族は、瑜伽――いえ、蓮見真智にすっかり依存して、金と権威のためには何でも言うことを聞く下僕のような存在に成り果てていったのね」
「ちょっと、いいかげんにしなさいよ!」
 華穂はキンキン声で叫ぶが、先ほどわたしを叩いたときのような威勢はない。
 顔に布を掛けた和服の女性のほうは、さきほどから身動き一つしない。
体の前で手を合わせたまま、人形のように棒立ちしている。
「けれど飯綱の力には年限があるから、いつまでも全盛期のような力はふるえない。おそらく、どんどん力は弱まってきていた。でも飯綱は嫁に憑いて移動する性質の憑きものだから、新たな嫁に憑かせてリセットすればいい」
 ジジ、ジジジ……。
 不思議なほどに、頭がすっきりとしていた。
 生まれ変わったように爽快な気分。
 いったいわたしはどうしてしまったのだろう。
 今ならずっと先のことも、ずっと過去のことも見通せるような気がした。
「だから蓮見真智の長男である蓮見才人に嫁をとらせて、その嫁に飯綱を移動させ、飯綱がもたらす『つき』の旨みを吸い続けようとしたのね。だからわたしたちみたいな部外者が万が一にも邪魔をしないように必死だったわけね」
 怯えた目をわたしに向ける彼女を見ていると、矮小な弱者をいたぶっているような気分になってくる。
 それがひどく心地いい。
「なるほど、だから蓮見宗也は『蓮見家の身内や教団の信徒から選りすぐった女が集まってる』と言ったのね。これは単なるお見合いイベントなんかじゃない。蓮見家にとって守り神ともいえる飯綱を得るためのイベントだったのね」
 ジ、ジジジッ、バシン!
 ついに電球が切れる。
室内は突然の暗闇に包まれた。
「ひっ」
 短く上がった悲鳴は華穂のものか、それとも和服の女性のものか。
 いずれにせよ、わたしのものでないのはたしかだった。
 自分の手の輪郭すら見えない闇の中なのに、不思議と怖くはなかった。
 わたしはいったい、どうしてしまったのだろう。
 ――キキッ。
 また、あの小さな動物の鳴き声が聞こえた。
 ――キキキッ。
 どうしてだろう。
なぜかその声が、とても愛しく聞こえる。
 わたしは闇の中に、両手を差し伸べていた。
「いい子たちね。おいで」



     *

「遅かったじゃない、華穂」
 屋敷二階の談話スペースでゆったりと紅茶を飲んでいた梓は、歩み寄っていく華穂に悠然と微笑んだ。
「あの女の様子はどうだった? ちゃんと寝てた?」
「え、ええ、ぐっすりだったわよ」
華穂は梓の向かいのソファに腰を下ろした。
その表情はこわばっていた。
「どうしたの? ……緊張してる?」
 顔を覗きこむようにして言われ、華穂はびくっと肩を揺らした。
「えっ? え、ええそうね。もうすぐ時間だもの」
「そうね」
 梓は談話スペースの柱時計に目を向けた。
 針は間もなく0時になることを告げている。
 窓ガラスの外側は濡れていたが、雨は上がっているようだ。
「そろそろね。行くわよ」
「……ええ」
 梓と華穂は揃ってソファから立ち上がる。
 顔を布で隠した桜色の和服女性たちが、使用済みの茶器を片付けていく。
 祭りの時間だ。

 屋敷を取り囲むように設けられた行燈に照らされて、濡れた地面に光の帯が映る。
 行燈は離れに建つ小さな祠まで点々と続いていた。
 雨は上がっていたが、少し風が出てきたようだった。
 行燈の炎が時折大きく体を揺らす中、瑜伽、王子、梓、華穂、他の娘たちの順で列は進んでいく。
 一団からやや距離をあけて桜色の和服女性たちが進んだ。
 夜闇の中、葉擦れの音に混じって、娘たちのひそひそ声がした。
「一人足りないみたいだけど――」
「怖気づいて逃げたんじゃ――」
「どうせ選ばれないんだから一緒よ――」
 瑜伽が肩越しにふりむいて睨みをきかせると、慌てた様子で彼女たちは口を噤む。
 聞こえているだろうに、王子は何も言わない。
真新しい紙垂のかかる祠の扉には、幾重にも呪符で封がされていた。
その呪符に瑜伽が指をかけ、ゆっくりと引く。
和紙の破れるビリ、ビリという音が静寂の中に響いた。
「これは……」
 瑜伽が顔をしかめる。
 その背後から身を乗り出した梓が、悲鳴じみた声を上げた。
「何よ、空っぽじゃない!」
「落ち着きなさい、梓」
 瑜伽が諫めても、頭に血が上っている様子の梓は金切り声を上げる。
「おばさまの飯綱の竹筒は、ここに封じておいたはずでしょう!」
「それなら、これかしら」
 その声は、混乱する瑜伽たちから少し離れた場所で上がった。
 顔を布で隠した和服の女性の一人が、長さ五センチほどの古びた竹筒を両手で持っている。
「どうやって、それを――」
 顔を引きつらせる瑜伽の隣から、猛然と飛び出したのは梓だった。
 振袖が泥で汚れるのも構わず、竹筒を持つ女性につかみかかる。
「それは、おまえごときが手にするものじゃないわ! 返しなさい!」 
 ――キキッ。
 バチッ! 
「きゃあ!」
 静電気が弾けるような乾いた音がして、梓は尻餅をついた。
「飯綱は主人の願いを聞き届けて、欲しいものを持ってくることもできるんだったわね。――こんなふうに」
 キキキキッ。
 キキ、キキキッ。
 嬉しそうに鳴く小動物の声が、そこかしこから聞こえる。
 しゅるしゅると渦を巻くように宙を飛ぶのは、無数の白い生きものの姿だ。
 飯綱の家族は、一説によると七十五匹いるという。
「まさか……そんな」
 風が吹く。
 顔を覆っていた布が外れて、飛ばされていった。
 梓はただでさえ大きい目を、こぼれ落ちんばかりに見開いていた。
 わたしがどうしてこんなところにいるのか、理解できないという顔だ。
 ギリッと音がしそうなほどに奥歯を噛みしめて、華穂を睨む。
 華穂は真っ青な顔で目を伏せた。
 あの子を責めるのは酷だろう。
 だってあの子は一足先にこれを見てしまっているのだから。あの、暗い倉庫で。
 むしろ、こうしてわたしが変装して祭りに参加する手助けをしてくれたのだから、褒めてあげてもいいくらい。
「やっぱり、飯綱は柳瀬さんを選びましたか」
 一連の騒動の中、ずっと黙っていた王子がどこか嬉しそうに言った。
「いずれそうなると思っていましたよ。お連れしてよかった」
「才人さん、いったい何を仰っているの?」
 足袋も振袖も泥まみれにした梓が、混乱しきった目を向ける。
「そ、そうですよ。どうしてこんな余所者が!」
「飯綱は蓮見家と教団のものなのよ!」
「こんなこと、許されないわ!」
 娘たちが口々に抗議しても、王子はいつもの通り柔和な笑みを浮かべるだけだ。
「何か勘違いをしていませんか? 選ぶのはみなさんではありません。飯綱です」
「で、でも納得いかないわ! どうして家族でもないそいつが……」
「家族ですよ」
「は……?」
「柳瀬さんは幼い頃に、お母さまに連れられて『いずなの使徒』の信徒に ――ぼくたちの家族になりました。そうですよね、柳瀬さん?」
 わたしはうなずいた。
「ええ、そのとおりよ」
「ただ、柳瀬さんのお母さまは、柳瀬さんを巻きこんでしまわれたことを後悔された。それで彼女を連れ出してしまわれたのです。だから柳瀬さんはこんにちまで、教団とは関係のないところで過ごしておられました」
「じゃあ、もう家族でも何でもないんじゃ……」
 梓が唸るように言った。
 まだ飯綱を得ることを諦めきれないらしい。
 王子の瞳から温度が消えた。
 背筋が冷えるような低い声が、梓に向けられる。
「まだわからないのですか、愚かですね。だから飯綱に見捨てられるのです」
 怒りで紅潮していた梓の頬が、色をなくしていく。
「柳瀬さんと飯綱の絆は、柳瀬さんが教団にいる間に結ばれたものです。飯綱は柳瀬さんを選び、いずれ柳瀬さんの代が来ることを待っていたのです」
「そんな……じゃあ、今まで私たちがしてきたことはいったい何だったの……」
 王子は爽やかな笑顔を浮かべた。
「あなたは蓮見や教団の一員として、もう十分すぎるほどに幸せを享受したではありませんか。幸せは分け与えるものです。独り占めするものではありません。これからは分け与える側に回りましょう」
「そんなの……そんなの、嫌よ!」 
 金切り声で梓は叫ぶ。
 こうなっては、他の女子たちはもう口出しできなかった。
 怯えたように固まって、遠巻きに事態を見守っている。
「諦めなさい、梓」
それまで黙って一部始終を見守っていた瑜伽が、重い口を開いた。
「飯綱の決定は絶対よ。蓮見家の者ならわかるでしょう。わたくしも残念ですが、従いましょう」
 瑜伽はわたしに顔を向ける。
 彼女の心中を推しはかることなどできないが、憑きものが落ちたという言葉がふさわしい、どこか晴れ晴れとした表情だった。
「柳瀬さん、飯綱をどう使うかはあなたの自由です」
「そんな、おばさま……」
 紙のような顔色で項垂れる梓を一瞥した後、瑜伽は王子を見つめた。
「才人、あなたがそばについて柳瀬さんを支えておあげなさい」
「はい。そのつもりです」
 王子は任せてくださいと言わんばかりに微笑む。
 だが、梓は承服しかねるといった様子で叫んだ。
「おばさまはそれでいいの! 飯綱は私たちのものなのに! このままじゃ蓮見も教団もめちゃくちゃです!」
「おだまりなさい」
 底冷えのするような声でぴしゃりと言われ、梓はビクッと竦み上がった。
「飯綱の決定は絶対だと言ったでしょう。わたくしのときもそうでした」
「……そんなの、そんなの許せない! おまえに飯綱は渡さない!」
 華奢な体のどこにそんな力があったのだろうという勢いで、梓はわたしに向かって突っ込んできた。
 袖の中に隠し持っていたのか、その手には光るナイフが握られていた。
「柳瀬さん!」
 王子の声がわたしの耳に届く前に、ドン、と鈍い衝撃が伝わった。
「え――」
 両手を真っ赤な血に染めナイフを握ったまま、梓は一歩、また一歩と後ろによろめいた。
 両手を広げ、わたしと梓の間に立ちふさがっていたのは桜色の和服の女性だった。
 女性の腹部からあふれ出す鮮血が、着物を濡らす。
 力を失って仰向けに倒れるその体を、わたしは抱き留めた。 
 そのはずみで、顔を覆っていた布が外れる。
「……恵」
 飛び散った血で汚れ、深いしわが刻まれてはいたけれど、その顔を忘れるわけがなかった。
「お母……さん」
「……今までごめんね、恵」
 わたしの頬をやさしく撫でる手が、どんどん温度を失っていく。
「うそ……お母さん、お母さん!」
「柳瀬さん、そこをどいて!」
 敏捷に動いたのは王子だった。
 スーツが汚れるのも構わず膝をつき、ジャケットの内ポケットから取り出した白いハンカチを、母の腹部に押し当てる。
「ここを強く押さえて圧迫していてください。今、救急車を呼びます」
 のろのろと交代してハンカチを押さえる。
 白い布地はみるみるうちに赤く染まっていく。
 赤く濡れた手でスマホを操作していた王子の手から、誰かがそれを奪い取った。
 物も言わずに、そのまま遠くに放り投げる。
「何を――」
 見上げた王子の顔に、影が落ちる。
 ナイフを握りしめたまま、仁王立ちする梓の両頬には、涙が伝っていた。
「私を捨てるなんて……許さない。みんな、許さないんだから」
「やめなさい、梓!」
 その手がゆっくりと、血まみれのナイフを振りかぶる。
 瑜伽の鋭い叫びが、闇を切り裂いて響く。
 そのときだった。
 ――ボン!
 列をなしていた行燈が、いっせいに空へと炎を吹き上げた。
 上空で合流した炎は、雨のように一点へ向かって降り注ぐ。 
「いやああああああ!」
 燃え上がる梓の悲鳴が、細く長くいつまでも響いていた。






 エピローグ

「えー、問題の屋敷の内部へと進んできました」
「ここは玄関ですね。すぐ目の前に、二階へと続く階段がありますが、肝試しの人たちが捨てていったんでしょうか。ゴミがすごいですねえ」
 生配信を続けながら、田中と佐藤は建物内を土足のまま進んでいく。
 板張りの床がギシ、ギシと歩くたびに湿った音で鳴いた。
 むっとするほどに強い黴と埃の匂いがたちこめている。
「さて、まずは階段を上ってみましょうか」
「事前の調査では、階段や二階の床は山の湿気で腐っている可能性が高くて危険なようなので、一階と地下を中心に回りましょう」
「オッケーです」
「こちらは広間のようですね。おや、宴会の跡がそのまま残っています。片づけをする間もなかったのでしょうか」
「まるでメアリー・セレスト号事件みたいですねえ」
「いったいここで、何があったんでしょうね」
 メアリー・セレスト号とは、十九世紀に海上を漂流していたところを発見された帆船だ。発見されたときは無人だったのだが、飲みかけのあたたかいコーヒーや料理途中の食材がそのまま残されていたという。まるで、それほど大急ぎで逃げ出さないといけない何かが起こったかのように。
「お、これこれ。この扉の先から地下の倉庫へ行けるらしいですよ」
 重厚な一枚板の扉を、田中が親指で指し示す。
「こんなこともあろうかと、ヘッドランプを持ってきてよかったですね」
 ――キキッ。
 二人が背負った荷物の中でヘッドランプを手探りしている間もずっと、小さな鳴き声がしている。
 ――キキキッ。
「またコメントだ。ここ、相当ネズミが住んでるのかな」
 呟きながら、何気なく佐藤が顔を上げたときだった。
 二人のすぐそばに、黒スーツの人物が立っていたのだ。
「うわあああああ!」
「ひゃああああ!」
 配信中にも関わらず、二人はスマホを取り落とす。
 はずみで転がったスマホが、廊下の反対側の壁にぶつかって止まった。
「こんなところで何をしてるんですか。ここは私有地ですよ」
 二人の慌てぶりもどこ吹く風で、黒スーツの人物はにっこりと微笑んだ。
「び、びっくりしたあ」
「あのう……もしかして、ここの持ち主の方ですか」
 噴き出した顔の汗を手の甲で拭いながら、田中が尋ねる。
「ここの管理を任されている者です。肝試しで無断立ち入りされる方が多いので、こうしてたまに巡回しているんですよ」
「あ、そうだったんですか……すみません」
「大変申し訳ありませんが、そういうわけですので、お帰りいただけますか」
 その笑顔には、否とは言えない威圧感のようなものがあった。
 田中と佐藤は顔を見合わせ、項垂れる。
「……わかりました」
「みなさん、すみませんがまた今度~、あれっ」
「おい、どうしたんだよ」
「だってこれ……見ろよ」
 佐藤が拾い上げたスマホ画面を田中に見せる。
「おれ、配信切ってないのに、いつの間にが電源まで落ちてるぜ」
「……おれのものだ」
「ここは色々危ないですから、もういらっしゃらないほうがお二人のためですよ」
 去っていく配信者たちを見送っていた背中に、別の人物が声をかける。
「今回の人たちは、素直に帰ってくれたようですね」
 安堵の笑みを浮かべる王子に、わたしはうなずいた。
「はい。この子たちの出番がなくてよかった」
 わたしの言葉に呼応するように、どこからともなく現れた白い生きものが、わたしの頬に顔をすりすりと擦りつけてくる。
「キキキッ」
「はいはい。いつもありがとうね」
 指先で顔を撫でてやると、飯綱は嬉しそうに金色の目を細めた。
「ええ。乱暴な人たちだと、この子も手加減できませんから」
「この後はどうします?」
「用事も済みましたし、母の病院に寄ってお見舞いしてから帰ります」
「柳瀬さんのお母さまの体調は、いかがですか?」
「元気ですよ。今回もあのときのケガの定期的な検査入院ですし」
 王子と並んで歩くわたしのパンツスーツのポケットで、スマホが振動する。
 通話ボタンを押すと、テンションの高い先輩の声が飛んできた。
「おう、おれおれ。今ヒマか? 実はちょっと回したいライター仕事があってさあ。受けられそうか?」
「もちろん大歓迎よ。で、締め切りはいつ?」                     
              

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